格闘ゲームとはコミュニケーションである。

≠コミュニケーションツール。という意味で。


直近で非常に盛り上がったストリートファイター6の大会を見て、改めて自分が触れてきた格闘ゲームというものについて、考えたことをつらつらとまとめてみたくなった。

上記のKZHCUPに関しては、にじさんじ内のライバーがプロゲーマーとチームを組み、それぞれがコーチングを受けながら大会に挑んでいく、というもの。

その中で、


4チームに各一人ずつ、いわゆる「初心者枠」として参加したライバーがいた。
格闘ゲーム自体は知っているが、対戦ゲームとして遊んだことはほぼないというくらいの経験の方々だ。

中でも二人、サムネ上側のソフィア・ヴァレンタインさん(ブランカ)と壱百満天原サロメさん(ザンギエフ)のやりとりは自分がこのnoteをまとめようとしたきっかけになった。

ソフィアさんは格闘ゲーム未経験で、今回ふ~どさんというプロゲーマーのコーチングを受けてパッド操作、モダンタイプのブランカで大会に挑み先鋒戦全勝という結果をつかみ取った。

サロメさんは格闘ゲーム自体は遊んでいて、対人戦はやったことがないもののアーケードコントローラー(以下アケコン)が好きだからアケコン操作のまま、クラシックタイプのザンギエフで板橋ザンギエフさんのコーチングを受け大会に挑み、ザンギエフの持ち味であるコマ投げを何度も成功させて視聴者を沸かせていた。

格闘ゲームにおいて、当然ながら決着は明確に表れ、そこで勝者と敗者とに決定的に分かれることになる。
結果としてはそうだ。

けれど、勝敗のみが格闘ゲームの醍醐味なのか? ということに関して自分は疑問に思う。

上記に張り付けた大会後に配信されたお二人のコラボにて、ソフィアさんは
「コマ投げミスってる(笑)」
という、サロメさんの意図した動きを認識し、それが失敗していることを愉快なことだとリアクションしているのだ。

サロメさんはそれを聞いてプロレス的に憤慨する素振りをしながらも、
「友達と話しながら格闘ゲームするの楽しい」という旨の発言をし、笑い合っている。

これが、格闘ゲームが単なるコミュニケーションツールを超えて、コミュニケーションそのものになったと思い至ったシーンだった。

個人的な感覚としてはボディランゲージに近い。
パッドやアケコン、レバーレスやキーボードなど、それぞれが最も負荷なくアウトプットできるデバイスを通じて、意図を持ったアクションをキャラクターに起こし、それを受けた相手が意図を探りながらリアクションを返す……。

コンボを覚えることや、それぞれのキャラクターの強みや弱みなど、格闘ゲームの造詣を深めていくことは、会話の引き出しを増やしていくことのように思う。

例えば、牽制で弾を撃ち続けるというアクションに対して前ジャンプというリアクションを返す。
これもひとつの適切なリアクションだ。
しかし、前ジャンプというリアクションに対して事前に心構えを持っている人なら、対空技で前ジャンプを落としてくることがある。
前ジャンプという引き出ししか持ってないな、と思われたのなら、より対応の精度は上がっていくだろう。

しかし、そこに知識や技術が加わるとどうか。
前歩きで丁寧にガードしながら前進して行ったり、より強い強度の弾を撃ち返してリターンを取ったり、スト6固有のシステムでジャストパリィからラッシュに繋いで一気に触りに行ったりと、弾を撃たれることに対する引き出しがどんどん増えてくる。

結果、弾を撃つという行為ひとつに対してもより複雑な駆け引きを行うことができるようになる。
そうすれば、最初の前ジャンプというリアクションもまた、生きてくる。

キャラクターを介して、プレイヤーが「こうしたいと思ってますよ」、という気持ちがアクションとして表出し、それを受けた相手プレイヤーが「あなたは多分こうしたいと思ってるだろうから、こう返しますね」、とリアクションする。
これを制限時間内に繰り返し繰り返し行っていくことは、見た目は格闘の殴り合いかもしれないが、ジャンルとしてはコミュニケーションになるのではないか? と思う。

操作難易度の高いアケコンでクラシックタイプの難しいコマンドを実行し、ハイリスクハイリターンを狙ったザンギエフのコマ投げ。
それを失敗したときに笑って、相手にそう伝えられることは、その意図と価値がわかっていないと成立しない会話なのだ。

ランクマッチで勝つことが大事、勝ったほうが気持ちいい。
そういった感覚も自然なことだと思う。

けれど、コミュニケーションとして考えると、初対面の人とのディベートで可能な限り一方的に話したいことを話しきるような、そういう部分での能力の比重が大きくなるように思う。
ディベートであれば、やはり与えられたお題(自キャラと相手キャラの相性)に即したプランを立てて、ひとつのきっかけから理路整然と論点を押し付けて(ワンタッチからの長いコンボで最大リターンを奪い)、勝利のために手を尽くす知識と技能を伸ばしていくことを自分の楽しみとできるか。
そう自分に問いかける必要があるように感じる。


だからこそ、それを突き詰めていったプロゲーマーたちの試合が無駄のないコミュニケーションとなって、一挙手一投足が噛み合っていく。
お互いがお互いの能力を信じているから成り立つ、ギリギリの駆け引きが生まれる。
それも間違いなく一つの美しさだ。
そこに至らないとできないコミュニケーションがある、とも言える。

けれど、格闘ゲームは相手がいないと成り立たないように。
対話はひとりでできないように。

友達とおしゃべりをする話の内容をもっとひとつひとつ深堀りして興味の尽きるまで楽しんでいい。
勝敗はあくまでも話のオチがついただけのこと。
同じゲームを通じてキャラクターをひとつ動かせば、年齢、性別、言葉など様々な壁を超えて、誰かとマンツーマンのコミュニケーションが取れる。
格闘ゲームの魅力はそこにあると、そう自分は信じたい。


強くなる。
格闘ゲームの命題のように掲げられるこの言葉は、もしかすると、『どんな相手とでもコミュニケーションが取れるようになる』ことなのかなと、二十数年間遊んできた格闘ゲームのことを今一度振り返って、そう思った。