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徒然日記(2022.03.07)

 ここ1ヵ月の間、テレビやネットニュースを見ているとなんだか世界史の授業を受けている様な気分に陥る。しかし、私の目に映るそれは実際に起こっていて、教科書の文字列では無い。私が生きている間に、ましてやこの21世紀に“事実として”見ることなんてないと思っていた言葉たち。侵攻、核、戦争、戦時下、そして第三次世界大戦。数十年後の教科書に、今起こっている出来事が「第三次世界大戦の始まり」として記載なんてされていたら絶対いやだ。もちろん、こんなことも私自身が画面隔てて(コロナ禍ではあるが)普段と変わらない日常を送ってるが故に考えれることだろう。ウクライナの現地にいる方や避難途中の方、地下鉄などの駅で身を寄せていた方々の心中はいかばかりのものか。日常の1コマとして使っていた場所が唐突に避難場所となる恐怖、想像するだけで胸が痛む。

 私は大学時代に戦争について触れ、学び、様々な経験を聞いた。が、それでも私は戦争というものを知らない。とは言え、まず第一に大事なのは知ろうとするその姿勢である。それが自分の出来る精一杯な誠意だと思っているからである。そして今回の情勢においてもそれは同様であろう。

 「戦争」の対義語は「話し合い」であると思っている。「平和」ではない。平和はあくまでもその行きつく先の理想だと思っている。しかしそんな頭でっかちの理論武装よりも何よりも「平和」を祈りたい。落合陽一氏が引用していた「戦争はいつだって老人が始め、若者が犠牲になる」という言葉と、ウクライナ・ロシア両方で亡くなった兵士の方、一般市民の方の訃報をただただ数字だけで受け取るしかない今の自分の無力さを、ただ茫然と受け入れるしかないのだろうか。責任者は彼ら一人一人の死の理由を、意味を説明できるのだろうか。これ以上、無意味な砲弾が誰かを、誰かの街を、誰かの心を撃ち壊すことの無いよう祈りつつ、この文章を締めさせていただく。


 


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