適材適所

 適材適所という言葉がある。すごく納得する。小学校から高校までスポーツをやっていたからだろうか。スポーツには適材適所という考え方がすごくフィットしている気がする。
 足が遅い人はこのポジション、背が高い人はこのポジションという感じにそれぞれにあった役割がある。幼少期からそのような価値観の中で育ったからだと思うが、僕は適材適所という言葉が大好きだ。
 
 それぞれが適した場所で生きていくのがお互いに生きやすいし、楽だと思う。
 中学生の頃、真面目な奴は学級委員になって、喧嘩が強いな奴はヤンキーになってたし大学に入っても頭のいい奴は塾のバイトをして力が強い奴は力仕事をやっていた。そういう風にこの世は適材適所で成り立っていると思う。

 でもこれらの適材適所はそれぞれの長所にあった、言うなれば積極的適材適所だ。これはとても素敵なことだと思う。でもこの世にはそうじゃない適材適所がある。それは何もできない人間を誰でもできる所に置いてあたかも適材適所に見せている適材適所だ。もう既にこれは適材適所ではない。「何にも適していない人材を誰にでも適している所に置く」これを略した適材適所(だいぶ無理矢理だが)も確かに存在している。

 それが僕だ。
 
 ピザの宅配のバイトをやっているのだが、僕はまずあまり遠くの配達には行かない。行かせてもらえない。遠くの配達だとしても一本道で簡単に行ける配達先にしか行かせてもらいないのだ。
 これは僕が別に近くの配達が得意なわけではない。ていうか、近くの配達が得意な人間なんていない。誰でもできるからだ。でも遠くの配達が得意な人間はいる。信号や踏切を臨機応変に避けたり、原付だとスピードが出なくて走りにくい大通りを避ける道を知っていたり。

   配達以外の仕事でもそうだ。ピザで使う食材を仕込むのも仕事の一つなのだが、ここにも適材適所が溢れている。不器用な僕にはトマトを薄く切る仕事もマッシュルームを薄く切る仕事も与えられない。ピーマンの千切りすらさせてもらえない。僕より器用な人がその仕事に適しているからだ。そんな僕に唯一与えられる仕事、それがミニトマトを4等分する仕事だ。
 これならできる。薄く切る必要もないし、包丁の技術を使う必要もない。まさに後者の適材適所である。僕はミニトマトを切るように指示される度に、「僕はこれしかできないのか」と落ち込み、絶対に失敗できないプレッシャーに襲われる。これすらできなくなったらいよいよできる仕事がないからだ。

 こんなことを考えながら僕は今日もミニトマトを切っていた。考えることに集中しすぎて全然4等分できなかった。これすらできないのかと落ち込んだが、考えることは好きだから後悔していない。仕込みの仕事を割り振られなくなり、シフトも減らされるかもしれないが気にしない。バイト先の人が仕込みをしている間、僕はノートを書く。それが適材適所だからだ。

 

 

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