外に出ても一人 2022-11-8

『咳をしても一人』。
尾崎放哉が晩年小さな庵で一人暮らしている時の死を目前にした寂しさ等を詠んだ句らしい。
現在では『わけいってもわけいっても青い山』と同じくらい雑に引用されている自由律俳句の一首で、「ゲームしたいけど友達がみんな忙しくて寂しい」くらいの時によく使われている。

私も「あぁ咳をしても一人だな....」と思うことがよくある。
別に友人が居ないわけでも暇な時に遊んでもらえないわけでも無いのだが、もっと根源的な孤独のようなものを昔から感じている。
孤独と言うと自分が不幸な環境に置かれているような印象を受けるが、単に自らの内向性や社会性の乏しさからそういう生き方を選択しているだけの話だ。

突然こういう話をしだすに至ったきっかけはTwitterで「優れたコピーライターは努力して街の風景、人々の営みから情報を得て自らのアイデアと掛け合わせている」という旨の漫画を読んだことだ。
いつも書いている通り私は常日頃から自分の感受性や情報を取り込もうという能動性の乏しさに呆れ果てているのでこの漫画がクリティカルヒットした。

「○○?なんか流行ってるよね、俺はそういうの興味無いからやらないけど」という逆張りのサブカルクソオタクみたいなスタンスをいつまでも続けているので新しくリリースされて注目されているゲームにも手を出さず、かと言って「どれだけ理解されなくともこの人の作るゲームが好きなんだ」というこだわりも無いのでただただ流行りものが気になるけどすぐ飛びつくのが嫌なのである程度話題にされ尽くした頃に飛びつくカス野郎に成り下がってしまっている。
成り下がっていると言うよりは元から落ちきっている。

なんか軽く脱線してしまった。
流行りものについていけないという話だけでは無い。
普段外に出て移動する時もノイズキャンセリングで音楽を聴き、電車の移動中はスマホを睨み続けている。
病院で「たまには外に出てくださいね」と言われるがこれでは家でパソコンに向かっているのと変わらず外に出た意味もないのだろう。
きっと外の雑音や景色に触れて何かを受け取り思いを馳せる事に意味があり、社会性や自己表現にも繋がってくるのだと思う。

このように自分の外の世界に触れることを避け、社会の小さな傷から染み出してきた澱みたいなものだけを消費して生きている所で私は孤独なのだなと思う。
もっと大それた話をすると、そうやって生きてきたことで失われた表現力では自分を伝えることも他を理解することも十全にできておらず、他の人との会話を通して自分の想像の中に生み出された不完全な他人とコミュニケーションを楽しんでいるだけなのだという感覚がある。

きっと本来思春期に覚えて解決すべき感覚をいつまでも抱えているアダルトチルドレンなのだ。私は。

まぁそもそも人間なんて大小問わず何かしらのフィルター越しでしか社会と付き合えないわけだし、各々が刑務所の面会室にいるような状況が正しいのだとは思う。
ここまで理解した上で「自分も他人もそんなもんだよな」というある種の諦めを持って人と接していくのが良いんだろうし、何も考えていない時はきっとそうしているのだと思う。
ふと気になった時に「周りも自分も世間をちゃんと理解出来ていないのだな」という断絶感を感じるだけで。

書けば書くほどに中学生のうちに解消するべき感覚だよなぁと思うな。

なんにせよ私がもっと外の風景とか他人の心情、流行り廃りにアンテナを立てて生きていかなきゃならないのは間違ってないはずだ。
そうすればこんな内向的な自己完結日記を書かずに済む。
ここまで日々の出来事に触れていない日記もなかなかない。

今思えばそもそも日記を書き始めたのもそういうアンテナを立てる練習という名目だった気がしてきた。まるで成長していない....!

絶望したので終わり。
キリンに雷が落ちてどうするの続きを読みます。

今日はここまで。

助けてください。