かもしれない人生 2023-5-4

この15分後に他人から預けられた10000円をミスでドブに捨てたので絶望して寝た。
未だに引き摺っているので、世俗からほぼ離れて1人パソコンに向かって過ごした。
嘘です。座るのにすら耐えられなくて寝てた。
寝ながら「ゲムぼく。はいつからムチムチバーサーカーになってしまったのだろうか....」と昔の記事を漁ったりしながら寝た。

結構元気だな....


完全に私のミスなので当然凹んでいるのだが、私に責任能力がないのは散々アピールし続けているのだから〜とかいろんな言い訳も浮かんで来て不思議な気分ですごした。
とりあえず申し訳ないしなんも考えたくないなぁ〜という気持ちで脳を殺している。

ぼんやりしていたら普通に寝坊した。幸い家で作業する日だったし、直前には起きたのでセーフである。セーフとする。


そんなわけで一切の煩悩を断ち切って生活していたおかげか、めちゃくちゃ仕事が捗った。
普通に薬の効果とか、ちょうどやってて面白い部分だったとか理由は考えられるけどとにかく過去最高の集中力をたたき出すことに成功した。
それでいてあんまり疲れていない。
なんでも出来るけど何もしないぜ!という気持ちで今日記を書いている。


なんかのっけから落ち込みアピールをして悲劇のヒロインを気取っているが、浅倉透の誕生日はしっかりと祝った。
「大切なもの」って確かに欲しいよね〜、なかなか作れないもんね!おめでとう!今年ものぼろうな!というか2年ぶりくらいだけどのぼろうな!

しかも今度プライズ景品としてフィギュアになるらしい。知らなかったけど今までも何人かやってたみたい。オフショットというか、日常のひとコマを切り取ったような構図のフィギュアシリーズ。画像を見る限りとてもよく出来ている。髪先の青さはクリアパーツになっていたり、結構凝ってそうに見える。

寝起きをイメージしたようなポーズだった。いつもの虎シャツで、背伸びしてちょっとお腹が見えてて可愛いな〜と思った。ゲーセンに行く機会もあんまりないし、フィギュアを置く場所もないのだけど欲しくはある。気になるね。

お腹が見えてて可愛いねは気持ち悪いな、なんというか凄く質感のようなものがあるなと感じた。それで、とても出来が良いので可愛いね〜と言った。
この言い訳も余計に気持ち悪いか....


最近少しアイマスとかについて長々と書いたり騒いだりして「今の気持ち悪いな」と言ってしまうけど、もっと騒いだり色々考えたり語ったりしている人もいるしそうでも無いのか?そしてそういう人に失礼か?とも思ってきた。
いや、多分そう言う負い目を感じるくらいの微妙な状態が一番気持ち悪い。
もっと堂々と浅倉透は可愛いと騒いだり語ったりすればきっと「大したやつだな」と思われるだろう。

とりあえず浅倉透誕生日ガチャで破産すれば認めて貰えますか?


何かの拍子にふと「そういえば昔ビートたけしがやっていた超常現象について月刊ムーの人とかと学者の人達が議論する番組、ぜんっぜんおもしろくなかったな....」というのを思い出した。
テレビをつけっぱなしの家庭かつよく見るチャンネルだったので観る機会は多かったのだけど、幼少期からずっと「この学者の人、やな人だな....」と思っていた。

私自身がUFOとかUMAとかそういうのに興味があったのでそれを否定されることが嫌だった、というのもあったと思う。そんな事言わないでよ!と憤っていたのかもしれない。
だけど学生の頃、あれはオカルトと科学というテーマに関係なくただ「議論、話し合いとして成立していない」という事への不快さだったな、と気づいた。

色んな超常現象やUMAなんかが写った映像を観て「これは本物だろうか?」とか「こういったことがありうるか?」と話し合うのだが、肯定派も否定派も言い分がふわふわとしていて大した力を持っていない。
そもそも未発見、未解決である事柄について論じる訳なので当然な話ではあるのだが、否定派の「そもそも科学的に有り得ないでしょう」という論調が特に酷く、それでいて多用されていたのが私に不快感を抱かせた一番の原因であったと思う。

「科学的に有り得ない」という言葉が正論であるように振る舞うのは科学、ひいては学問そのものへの侮辱に近いものだと感じる。
原子論が体系化する前は本当に火や水だけで世界が構成されていたのか?静電気が発見されるまで電気はこの世に存在しなかったのか?と問われて「そうに決まっている」と今答える人間はかなり少数だろうと思う。
でも、それらが広まるまで人類は「世界の全てが小さな粒でできているなんて有り得ない」「手を握ろうとしたら突然痛みが走った、恐ろしい」と思っていただろう。
それと同じような事を今、目の前でよりによって学者という立場の人間が言ってしまうのか....という嫌な気持ちを抱えていた。

有り得ないことについて考えを凝らし、実験し、理解するというのが学問であって学者では無いのか?となってしまう。
あの番組で行われているのはそんなもはや拍子抜けしてしまうような無意味な会話だったな....と思う。

今こうやって書きながら改めて考えてみると、本当に不快感を向けるべきは学者ではなく、番組そのものだったのかもな、という気がしてくる。
「超常現象について議論する」というテーマではあるが、根本にはオカルトそのものやそれを信じる人達をさも愚かであるように見せて笑いものにしてやろうという意図があったのではないだろうか。

実際今でもフィクションにおける変人としてUFOを真剣に呼ぼうとしている人やオカルト研究部なんかが出てくるし、オカルティズムは愚かであると嘲笑うような意識というのは確かに大衆の中にあるのだと思うし、そこに呼びかけてウケを狙った番組だったのだろう。
そして人々のオカルティズムを嘲笑う意識に正当性を与え、笑ってもいいんだぞと呼びかけるのに最適なワードとして生まれたのが「非科学的で有り得ないでしょう」だったのではないか?

科学が日々進歩し、大抵の事は理屈的に説明できてしまう今の時代において「非科学的」という言葉が持つ力は確かに大きく、しかも色んな分野の学者がそういうのだからまるでバッサリとオカルティズムを否定して見せたように感じるだろう。
そうなるともうオカルト肯定派が何を言おうとひっくり返ったカナブンがもがいているような無謀でみすぼらしい悪あがきにしか見えなくなる。科学という強力な盾を得た視聴者はその無様さを思いっきり笑えばいいのである。
実態としては先に述べたようにインパクトばかりで何の矛にも盾にもならない言葉なのだが、ほんの1時間程度のエンタメとして用いるにはそれで充分なのだ。
出演する学者達もそういう意図であれば自信ありげにそれっぽいことを言っていればいいのだ。もしかするとオカルト肯定側としてもそんな気持ちで出ているのかもしれない。

とても嫌だな、と思うが番組構成としてはよく出来ている。
乱雑で無価値な押し問答になるのも頷ける。
いや、本当にそんな意図があったのかは知らないが。ただただ学者が本当に頭ごなしに否定しているだけで、それによる議論の余地のなさを楽しむコンテンツだったのかもしれないし、本当に超常現象について議論してみようという番組なのかもしれない。それは番組製作者達にしか知りえない事であって、我々にはこうやって邪推することしか出来ない。


とにかく、今思い出しても新鮮に嫌な番組だったな〜と思う程度にはしっかりと不快な出来事として心に残っている。
でも当時はそういうオカルトを小馬鹿にする様な番組が多かったような気がする。
これだけ文句を垂れた後では説得力に欠けるかもしれないが、私は特にオカルトとかそういう類のものを真剣に信じている訳では無い。
占いとか適当言ってんな〜と思うし、生年月日を足し算引き算しただけで何がわかるんだ?と思う。

要するにオカルトを馬鹿にしていたから嫌い!とかそういうことでは無いのだ。
もっと根本的な、学問や世界そのものの可能性について安直に否定して芽を摘むような言動に対する不快感、嫌悪感の話だ。
オカルトの全てが本物では無いかもしれないし、反対に科学も全て正しい訳では無いかもしれない。
明日突然「やっぱり天動説が正しかったです!」となるかもしれないし、1+1で3になるような事例が見つかるかもしれない。極端な言い方をしたが、まだ世界にはそういう不可思議さが多分に残っていると、少なくとも私は信じている。
同じようにそう信じて動き続けている人がいるから今の文明があって、これからの進歩がある。それだけは忘れてはならないな、と思う。


そんなことを考えていたら色んな連絡を無視していたことに今気づいた。なんか集まって酒飲んでるんだって。そっか....
「呑みに誘われているかもしれない」という意識も常に持っていた方がいいみたいだ。

あーあ。寝よっかな。明日も休みじゃなかったし。それでは。

助けてください。