”現実”が溢れていた 2022-11-17

冬が近づいてきている。
インフルエンザの予防接種に行き、それを実感した。寒い。

会社で接種することが出来たので一年ぶりくらいにスーツを着て出社した。
仕事をするわけではないとわかっていてもとても気が重く、サボろうかとすら思ったので家を出るのが遅くなってしまい遅刻寸前になってしまった。
問題なく接種することが出来た。

それとは関係なく今日も起きるのが遅くなり、昼前まで寝ていた。
昼過ぎに病院に電話をしたら今日だけ午後の受付をしておらず繋がらなかった。


帰りの電車で用意していた本等をあらかた読んでしまい、やることが無くなったのでぼんやりと周りを見ていた。
外には”現実”が溢れているな、と思った。
空には何の作為もなく、人々は各々何かしら忙しそうにしている。
恐ろしいほどに現実だった。

日々家に籠ってインターネットや本で他人の瞬間的な言葉や感情だけを受け取って生きているとつい忘れがちになるが、私以外の全てにも平等に時間は連続して与えられ、常に何かを考えたり受け取りながら生きている。他人から全く同じレスポンスが返ってくることは二度とない。
自我も思考も私の特権ではないし、この世の創造物は全て私ではない誰かの意図が組み合わさって生まれている。
反対に自然には全く意図も感情もない。ただそこに在るだけである。雲の形にウサギやクロワッサンを見出したとしても、それはウサギやクロワッサンを意識して作られたわけではなく私達が勝手にそう汲み取っているだけだ。

これが現実だよな、としみじみする。私も他人も誰一人主人公でもNPCでもない。色んな偶然の末に偶然生まれ、各々が適当に何かを思いながら生きているだけ。
私もその偶然と思惑で出来た流れの中をただ漂ってみたり、あえて逆らうように泳いでみたりしている一匹の魚に過ぎないな、と思った。
現実は私に配慮しないし、私も現実に大きな影響を与えることは無い。現実そのものにはなんの意図もないからだ。


この「何者でもなさ」の中に神の不在というのはあるのかと思った。
自分が生まれた意味はどこかにあるはずだ、と思うからこそ世界のいろんなものに意図を見出そうとする。ゲームでも先に進む道が倒木でふさがれていれば「前の町でやり残したことがあるはずだ」と思うように、自分を取り巻く環境が何者かによってレベルデザインされていると感じてしまう。ゴールがあればそっちに向かうようレールを敷くのは当然のことだからだ。
ただまぁ自分も他人も何者でもなければレールを敷く必要がなくなり、意図的に世界を構築する何者かも不要になる。

本当はもっと死後の不安とか、そもそもの偶然性の否定とかも絡み合ってくるだろうけど「神は死んだ」とかの言わんとするところはこの辺りの意味なのだろうか、とぼんやり思った。
ちゃんとニーチェを読むと全然違ったりすると思うけど。


それにしても外で見る人間の「人生してます」感は凄い。
YoutubeとかTwitterで見るのとは段違いだ。
電車に乗ったりただ道を歩いている、そういう何気ない時間にこそ飾りっ気のない素の個性が出るなと思った。

同じようにスマホを見ている人でも持ち方は千差万別だし、持っている鞄やスマホカバーの飾りつけ、ちょっとした仕草が全然違って凄い。
「この人はこういう生き方をしてきたんだな」というのが直で伝わってくる感覚がある。

きっとこういうのって毎日外出をしていたら気付かなかったと思うので、引きこもりも案外悪くないな、と思った。


そういう気づきがあって楽しくはあったものの、やっぱりスーツを着て会社に行くのにはまだ抵抗があったので若干気分が悪くなってしまった。
ハチャメチャに疲れた.…
いつになったら社会復帰できるんだろうな。

他にも考えたことは色々あった気がするし、「キリンに雷が落ちてどうする」も読み終えたんですが全部飛んじゃったので終わり。

あ、先日故障したキーボードの代替品が届いたので、読点を思ったように入力できるようになった。不便というのは生まれた時はやたらと目立つが解消された時は目立たないので忘れていた。

今日はここまで。

助けてください。