今やっていること(の一部)

私はこのドイツの街に、調査目的で来ている。現在は、週二回高齢者施設で介護士さんのお手伝いをしており、その中で得たものを「参与観察」としてノートに綴っている。

また、別の施設にて、介護士さんや介助士さんに対して、インタビューを行っている。インタビュー、というと少し大げさに聞こえるが、彼らの仕事や高齢者への対応を中心に30分ほどお話を聞く、というのがその内容だ。

今日は、後者について少し述べたい。

上記で述べた「介助士」は"Alltahsbegleiter/-in"を指す。日本やアメリカにはない役職。和訳がなんであるのかわからない(日本語の文献でまだ見つけられていない)ため、このノートではひとまずこのように呼ぶことにする。
役割としては、高齢者と一緒に散歩をしたり、運動や料理などのアクティビティーに付き添った、話を聞く、ということが主である。(もっと細かくいうと、IADL(=手段的日常生活動作)の介助をするのがどうやら介助士の仕事のようである。)
専門職の一種で、資格を必要とする。ドイツにおいて介護士資格を取った者は、その資格に介助士の資格も含まれるものとされる。したがって、介護士と介助士の二刀流として働く人もいる。

私の関心は、ドイツ国内において

①政府や市町村が決めたルールがどれほど現場に根付いているのか

②家族や友人によるインフォーマルなケアと専門家によるフォーマルなケアをどのように統合させて、介護制度を形成していくべきなのか

③認知的・心理的な面で問題を抱えている高齢者に対するケアはどのようにあるべきか

という三つであり、会話の中からこれらの問いを考えるためのヒントを伺っている、という感じである。


人々の話を聞いているのは楽しい。皆、ドイツ人は少なくとも自分の意見を持っている。

「僕は現場に対してこのように思っていて…。」

「ここに関してはいいと思うのだけれど、それでもまだこういった点が…」

うん、それでそれで?話の内容が好きというよりかは、主体的に語る彼らの姿勢が好きなのかもしれない。

インタビューにおいては特に好きなのは、問いかけと問わず語りの間の、ことばを拾う瞬間だ。

この瞬間を得るのが、なかなか難しい。無機質に質問攻めにしては、単なる一問一答のようなインタビューになってしまうし、間を開けすぎたら「ただドイツ語が喋れずに口ごもっているインタビュアー」として認識されてしまい、気まずい雰囲気が流れる。

私個人の場合だが、うまくいくときは、相手の目の色に自分の意識がいくような気がしている。

お国柄もあり、ドイツで長い間生活をしてきたインタビュイーたちは、私の目を真っ直ぐに見つめる。その瞳の奥の色を私も同じように見つめる。ときどき、そうして相手と言葉を交わして、質問を進めていると、ふと、相手の感情が溢れる瞬間が(感覚として)ある。

「実は、こういうことがあって…」

「昔、こんな居住者さんがいてね。彼女はなんと…」

理論化すると、傾聴、といった類のもので説明できるものに行き着くのであろうが、これは肌感覚で得なければ、なかなかわからない気がする。

そのひとの本当の気持ちや思いが、私が投げた問いかけの外に出て行く瞬間。それに出会えたときは、何か少し心が緩く暖かく揺れる。

これを、論文にどう生かすのか、というのはまだ見えないし、そもそも生かすことができることなのかどうかさえわからない。それでも、ただその瞬間が楽しくて、足繁く施設に通って、もう二週間になる。


自分の言葉が伝わらない時、うまく意思疎通できないとき、自分のドイツ語に対して苛立ちを覚えるのは、三年前の留学と変わらない。それでも、こうして施設に飛び混んで、「問わず語り」を得ようとする自分は、あのときよりも少し、成長できているのかもしれない。

そうじゃないかもしれないけど。でも、そう思いたい。

いつもより少しだけ美味しいチョコレートを買って、あなたに感謝しながらそれを味わって、つらつら思いを書き連ねます。ありがとう。