【短編小説】起きたイベント、起こすイベント
「68円のお返しです」
真夏の昼下がり。都内某所のコーヒーチェーン店内で小銭とレジスターの音を鳴らしたアルバイトの大輝には、単位のことや今夜の飲み会のことや就活のことよりも、大層に関心のある物事があった。
綺麗な水色の財布にお釣りとレシートをしまうピンクブラウンの長い髪の女の視線が手元にあるうちだけ、大輝はその透き通るような白い肌にくっきりと映える長い睫毛を見つめては、ほんの一時の小さな幸福を感じていた。
視線が戻ってくれば目を逸らし、マニュアル通りの『ありがとうございました』と作り笑いで心をただのアルバイトに戻したかと思えば、出口に向かうその小さくてか細い背中をぼんやりと見つめ、また一時の小さな幸福に浸る。大輝にとってそれが訪れる土曜日は、毎週が人生のイベントとなっていた。
「一目惚れか!」
ガヤガヤとうるさい大衆居酒屋でもハッキリと聞こえるように言ったのか、単純に驚きの感情でそうなったのかは大輝にはわからなかったが、バイトの先輩は眉をしかめながら確かに大きな声でそう言った。
テーブルの出し巻き卵をヘラで皿にとったあと、添えられていた大根おろしの量が明らかに足りていないと思った大輝は、それを諦めながらため息を吐いた。そんなただの料理への反応が偶然にも先輩への返事になりえたが、大輝は改めて言葉で返すことにした。
「そうなんですよ。お客さんなんですけどね」
それが若い人間のありふれた日常であることを自覚していた大輝は、先輩に「そうか、頑張れよ」という月並み極まりない言葉と共に笑って流されたことを、何も思うことなく受け入れてジョッキに残っていた生ビールを喉に流し込んだ。
かなり酔いが回っていたことについて『何ゆえか』と自分に問うのをやめて店員を呼び出し、強い焼酎を頼んでは先輩の話が何も頭に入ってこない”呆け”をアルコールのせいにした。
先輩と店の前で解散して千鳥足で帰路についていた大輝の酔いがほんの少し醒めたのは、人生のイベントとなっているそれが今突然に訪れたことが理由だった。ピンクブラウンの長い髪の彼女がこの賑やかな飲み屋街で、俯きながらこちらに向かってゆっくりと歩いてくる。
しかし、大輝はいつものように一時の幸福に浸ることはできなかった。それは起きた場所が普段と違うからでも、酒に酔って胃や頭の調子がすぐれなかったからでもなく、彼女が明らかに泣いていたからだった。
「どうしたんですか?」と声をかけられるわけでもない。相手は自分のことなんて知らないのだから。そう思った大輝がその場にただ立ち尽くしていたのは自然なことだったが、そこが偶然にもいい位置だったのだろうか、彼女が伏せていた視線を上げると、二人は目が合った。
彼女は、足も止めた。その瞬間に大輝は「多分この人は俺のことが誰だかわかった」と確信を得た。毎週通っているコーヒーチェーン店のスタッフが、たまたまそこにいて少しびっくりしていたと、そう思った。
そう思ったのにもかかわらず、大輝は何も言わなかった。言えなかったのだ。そして1秒、2秒の間の後に、当然のように彼女は元の方向に視線を戻して、元のスピードで歩き始めた。大輝はその姿を目で追わないように、いくつもの『何か』を誤魔化しながら、10秒、20秒の間の後に振り返って彼女の小さな背中を見送った。
その夏、大輝にはもう同じイベントは訪れなかった。
コーヒーチェーン店で小銭とレジスターの音を鳴らし続けながら、単位やその晩の飲み会や就活に関心を持ちながら、あの数秒の間に『部外者でいること』を選んだ自分を悔いては少し胸を痛めながら、マニュアル通りの『ありがとうございました』と作り笑いでそれを隠した。
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