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考える人の話

職業が性格をそうさせたのか、性格が職業に合ったのか。それは今ではわからなくなってしまったが、僕は自分のことを『深く考える人間』だと思っている。自分自身のことをそのように捉えている人はそれなりに多いだろうとも思う。僕の場合は正解がないことを延々と考えるのは向いていないが、正解を導けるという確信があればとことん考え抜ける。

僕らのような『考える人間』はまず『特に何もしないで上手くいくケース』を全く想像できない。何か一つでも膨らませた想定とそれに対するアプローチを手元に揃えていないと、不安で不安で仕方がなくなる。正解が勝手に目の前に降りてくることを、想像できないどころか嫌っている節さえあり、もしもそうなってしまった場合は正解からの逆算に時間を使ってしまう。結局考えてしまうということだ。

それが良いか悪いかは完全にケースバイケースだが、僕らは常に『考え過ぎだよ』と諭されてしまうし、それに慰められたり腹を立てたりした後、当然のようにまた次の考え事に入る。事実として僕らは悪い意味で完全に『考え過ぎ』だ。

僕らは常に『結果は1つしか出ない』という事実に苦しむ。1つの物事に対して100個の正解を見つけていても、成功という結果は基本的にいつも1つだ。割に合わない。でも考えてしまう。僕らがその特性を発揮できるのは、難解である物事を長い時間をかけて紐解いたときと、考え慣れていることによって瞬時に答えが出せるときの両極端なケースにしかない。最も多いケースである『ごくごく普通のこと』に対しては僕らは非常に平凡になる。でも考えてしまう。やはり割に合わない。

僕らは隙間を埋めることに躍起になっている。論理の穴を常に探していて、如何様なケースで破綻してしまうかという想定を常に巡らせている。大抵の人が『ここでよし』と立てた旗よりも、ずっと奥に旗を立ててしまう。一番奥まで行かないと立てる気にもなれないこともある。失敗を想像するのが上手いのかもしれない。心配性だとよく言われることだろう。

それでも考えることをやめられない。何故ならそれが好きだから。たとえ自分よりも考えない人と結果的に同じ答えしか出せなくて、考えすぎた時間の分だけ損をしてしまったとしても、やめられない。評価が同じになったとしても、やめられない。
『AだからBでCなんだ』と言い切りたいし、『AだからBでCとなる』という事実が見えたときとても嬉しい。張り巡らせた予防線、いつ出番が来るとわからなくとも用意していたものが、その効果を発揮した稀有なシーンに快感を得る。だからやめられない。

そして、たった1つしか出ない結果のために、割に合わないと知りながらも、とてつもなく多くのことを考えて正解に向かっていっていることを見抜かれると、とても嬉しい。僕は自分のそういうところを見透かしてくれるような人のためにこれからも色々なことを考えて生きていきたい。

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