褒められたい

先日バイト中に気付いたのだが、私はどうやら人一倍褒められたいらしい。他人の平均など知る余地がないのであれだが、私から見た感じ、別にみんな激しくそういった欲求を爆発させているようには思えない。もし単純に私が人より劣っていて褒められる機会が少なく、常人なら満たされるはずの褒めを求めて彷徨っているのだとしたら、それはとても悲しいと思う。
では、お前は褒められるために何かしているか、例えば、私がTwitterで頻繁に目にする褒めといえば優れた創作物に対する賞賛などだが、優れたものを作るなどの行為や、努力をしているのか、と聞かれれば、はっきりと、「ノー」と言うほかないほど、特にこれといって生産的活動はしていない。自信ありげに言うことではないが、ただの事実である。これに関してはまた別に書こうと思っているが、何かしらのアーチストを目指しているくせに私はどうやら何かを作ることが別に好きではないらしい。
だからといって、別にパンピーが生産的創作活動をしているわけではないと思う。ずっとTikTokみてるだけだろ。(こういうところが良くないのかもしれない)そういう俗世的(?)というか、一般人の目線までグレードを落とせば、電車では積極的に席を譲るし、風で倒れている自転車があれば起こすし、スーパーで変な場所に置かれた商品を正しい棚に戻すし、ポイ捨ては拾って家で処分するし、落とし物はできるだけ届けている。こういうのを誇るのは本当にダサいという感じがするのだが、褒められたい気持ちの方が勝ってTwitterに書いたりしてしまう。でも別にそんな小さいことの積み重ねで褒められたりしないし(誰も私を長期的な観点で見ていないから)、しかし火事から命懸けで子どもを助けるなどすればあるいは?と最悪なことに思いが巡る。本当に汚い欲求だと思う。何か作り上げたもので褒められるために、夢中で努力すれば良いのかもしれないが、残念ながら私は大変に怠惰だ。というより今この瞬間以外の時間に目を向けること自体がとても苦手だ。長期的なものの見方が全くできない。だからいつも今この瞬間にうまく絵が描けないことにストレスを感じて筆を放り投げてしまう。今の全力をぶつけても別に絵がうまくないので評価はもらえない。根が腐っているなと思う。こんな文章を煮ているうちに私より絵が下手だったあの絵描きはとてもうまくなってフォロワーが2000を超えている。全く何故に絵など描き始めようと思ったのか。
そういえば別に全く褒められないわけでもなく、祖母の傘寿の記念に詩を贈った時に褒められたことがあった。伯母が筆文字を書くのがうまいので一筆(?)したためてもらい、額装したものを用意したのだが、孫からというのもあって泣くほど喜んでいらした。私も泣きかけていたが、我慢した。人のために何かするとはこんなに気持ちがいいのか、とその時は溢れんばかりの善性が実際に体から漏れていただろうが、よく思い出してみればあれは単純に尊敬する人から褒められた嬉しさだ。とはいえ毎日人に詩を贈って泣くほど喜んでもらえるほど良いものが作れるならそれはもう詩人だし、それで生活していけよと思うので、何か別の手立てがほしいところだ。当面は自分の自堕落な性分と戦うしかないのだろうが。今見通した感じ最大の見込み点は冬コミだ。良い本を作って褒められるぞ!


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