映画館で劇場版スタァライトを観ました。

日記です。

劇ァ、公開二周年おめでとうございます。早いですね。公開から配信開始までの半年間、ネタバレに常に怯え続けた留学中の日々が昨日のことのようです。そして、初めて視聴したクリスマスの夜も同様です。イオンシネマでの全国再上映に感謝ですね。ようやく、ようやく、皆さんと同じ土俵に立てました。それを嬉しく思うと同時に、空いていた心の穴の大きさを再認識し、心苦しい思いもあります。

私の話をしましょう。Twitterでも何度か言っていますが、私は心の成長が中学三年生で止まっています。これは半分は冗談で、半分はマジです。以前年齢を入力するような診断サイトで、ごくごく自然に15歳、と入れていたこともありました。しかし、中学どころかもう高校生活も終わっているんですね。気付けば大学一回生です。実際高校三年間が空っぽだったかと聞かれればそうではない、はずなんですが、実感としてあの三年間が自分のものであったのか、と疑問に思ってしまう程度には、自分はまだ中学生なんです。

そんな中での、「列車は必ず次の駅へ では舞台は? 私たちは?」ですよ。「間に合わない!」「見逃してしまったのか」「いや、開幕だ」透き通るように過ぎてしまった我が青春が、音を立てて蘇ってきたような気がしました。いや、それは厳密には復活ではなく、再演だったのだと思います。舞台を作り上げる日々。仲間との協力。そして進路指導、未来への展望。それが地獄のような、前も後もない北米での日々の記憶と重なり合って、あまりにも眩しい。もはや自分が映画で泣いているのか、懐古で涙しているのか判別がつきません。もしくはその両方か。

「私は行かねばならないんだ、あの大海原に」
「遥かなるエルドラド」の台詞とされている一文ですね。宝塚歌劇の「EL DORADO」のようなお話なのでしょうか。しかし違うのは、主人公に新天地を目指すほか生きる道はない、とは感じさせないこと。華恋演じる青年が「友よ、どうして行ってしまうのだ?」と問いかけるところからも、それは窺えます。冒険心、憧れから「私は行かねばならない」のです。
「行かねばならない」。面白いですよね。他者から与えられた使命や強制された行為を表す言葉をして、自分だけの欲望を語る。別に「スタァライト」に限らず、日常的に用いられる表現だと思います。
ではなぜ、自分から生まれ出でたものに、強制力が働いているような言い回しをするのか?それは過去の自分が他者だからではないでしょうか。他者だからこそ、過去の想いは命令に、宿命に、果ては運命にも思える。「生まれながら舞台少女」とは、生まれてからこれまでの「過去」の私たちがそう決めていた、その想いを受けて生まれ変わり続けることを指しているのではないかと感じました。

はて、なんの話だったでしょうか。要するに、過去を見つめ直していたつもりが、今どうするか、これから何をするか、に話が自然と変わってくるんですね。今の自分が、可変式地下鉄舞台に転がる舞台少女たちとなんだか同じなような気もしてきて。どうしたいんでしょう、私は。
演劇でも始めてみましょうか? 笑

さすがに冗談ですが、ただの観客でいることに嫌気が差して、頭が痛くなったのは事実です。上映終盤、やたらと視界の端にがらっとした客席がチラつきました。燃料として焚べられたキリンには、私はなれない。そう思えてしまう。どうしようもなく舞台に身を投じてしまう彼女たちの物語だからこそ、私は過去の自分との約束を台詞に準えてあえて運命と呼びたいし、それを叶えることもまた…そういうことなのだと思います。舞台を作る人たち、舞台に立つ少女、燃料たる我々観客。「劇場版スタァライト」を構成する要素のどれもに、私はなれなかった。とても悔しかったです。

今思い出したのですが、上映後席を立つ人たちがベラベラと喋っているのも悔しかったです。作品の楽しみ方は人それぞれ、とは思うのですが…なんなんでしょうね。多分私はロマンチストなんだと思います。



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