中学高校の思い出話①

 今日、理由があって出身高校に電話をかけ、中学三年から四年間担任をしてくれた先生とお話を少しだけした。中高一貫校の中でも、中学二年段階までの成績上位20名と少しまでが入れる少し特別なクラスに在籍していたので、四年間メンバーは減ることこそあれ固定だった。(卒業時には先生含めて20人のクラスになった)
 いろいろ話した流れで、「ヒューは好奇心の強い子だったからねえ・・・」と言われた。自分では案外そうも思わないが、四年も私の面倒を見てくれた先生が言うのだから、そうなのかもしれない。

 思えば高校時代の私は少しだけ変わった子だったかもしれない。マイペースだっただけかもしれないが。私が変なことを考え、私と特に仲の良かった友人が実行していた気がする。現代社会トレーディングカードゲームなるものを産み出してしまったのは共犯だったかもしれないが。
多分、私が忘れているだけでこういう共犯の事例はいっぱいあるだろうな。それどころかなんなら相手も同じことを思っていそうだ。人のせいにしてはいけない。
 担任の先生と同じ苗字の先生がいたので呼び名をつけたりもしたか。あだ名をつけることについて反対意見を持つ人も多いが、担任と高校一年の頃の副担任が同じ苗字で、呼ぶとどちらも反応するという困った事態になっていたので許して欲しい。下の名前で呼びたいと思う人じゃなかった。可能なら苗字か、全く関係ない呼び名で呼びたい先生方だったのだ。
 担任は英語科主任だったり、なんだかオーラが強かったり、どこか上品な雰囲気が漂っていたからか、「女帝(陛下)」、副担任には名前を三文字に略したあだ名をつけて呼び分けていた。とはいえ担任の方は副担任がいなければ普通に「先生」呼びのことも多かった。女帝呼びは半公認だったし気に入っているようでもあったが。
 余談だが、副担任は、何故か私たちの副担任でなくなった後そのあだ名を本人が略称として名乗り始めた。私が知る限りでは、その先生は基本的にいじられ役で、なおかつ定期的に手痛い目に合っているタイプだった。どこかのクラスの授業で、あまりに嫌われ過ぎて胃に穴が空いたとかいう話も聞いたことがある。世界史の授業を持ってもらっていたからか、顔を見たときに苦労人の相が出ているのを肌で感じたこともある。真面目な人であるという気配は感じていたし、たまに話すと色々心中がうかがえることを話してくれたこともあった。所属歴だけで言えば当時四年目の私の方が長かったこともあり、何となくその苦労がわかったからだろうか。地味に私が気にかけている先生でもあった。呼び名をつけたのも、直接理由は先に述べた通りだが、後々になってそれで良かったと確信することもあった。というのも、その先生を嫌っている人からの陰口での呼び名は身体的特徴を取り出したもので、少なくとも私にとっては不愉快だったからだ。そんな聞くのも不愉快なあだ名で呼ばれるくらいなら、自分がつけた呼び名が広まって良かったと思う。まあ、変な呼ばれ方をするくらいなら採用しようとしただけかもしれないが。
 まあ何がともあれ、こういうキャッチーな略し方を作るのはおそらく少しだけ得意だ。聖歌隊で歌う歌を四文字で略したりなんかを大学の時もやってた気がする。

 当時の私はクラスにいくつかあったグループのいくつかを好き勝手に気分で行き来してたし、クラス外にもなんだかんだ知り合いは多かった。スクールバスで同じバス停で乗り降りするだけの人でも、自分のクラスの後輩とわかると、高二から中三まで学年を問わず機会を見つけては会話を試みたりもしたし。
 とはいえ、私の関わりがあったコミュニティで一番大きかったのは多分「図書室コミュニティ」と呼ばれるものだろう。このコミュニティは金曜日の放課後に1時間と少しの時間開かれていたもので、名前は今に至っても尚知らないけど図書室ではお話しする関係の後輩や先輩、同学年の知り合いが多くいた。その中でも特に仲の良かった先輩とは当時文系理系で別れて勉強を後輩に教えるタッグ状態でもあったし、今もお互いに文学や音楽から始まり、宇宙的なことについても説明し合いながら意見を交わし合える議論仲間みたいなものだ。同級生でも考え方が根本的に合わないタイプだが、だからこそ極めて仲が良いと言える友人がいる。今も定期的にご飯を食べに行く友人もここコミュニティの人だ。男女関係なくなろうと思えばその場の誰とでも会話ができるが、決して教室のようにうるさいわけではなく、落ち着いた良い場所だったと思う。
 そんな「図書室コミュニティ」は私たちの代が卒業して以降、一気になくなってしまったと後輩からは聞く。どうやら人の中継点になってくれるメンバーがいなくなったことが原因らしい。図書館コミュニティは私たちの代を中心として、元から仲の良いメンバーや、居心地の良さに気づいてくれた人が居着いていたから栄えていたのだろう。私と図書委員長を務めた友人とは6年間毎日話す仲だったし、それまで図書室の常連と呼ばれていた人達が自然と仲良くなっていけばあっという間に1つのコミュニティに変わるというだけのことだ。とはいえ私が知る限りでは、クラスで居場所を見出せなくて、でも誰かと話したいから来るという人も学年を問わず何人かはあった。きっと、そういう人たちにとっての「図書室」は、私たちの代の卒業をきっかけになくなってしまったのだろう。私が最も嫌うタイプの孤独が少しでも減らせるので私にとっても喜ばしいコミュニティだっただけに残念な気もする。
 名前も知らない人が突然話に混ざっても受け入れてもらえるコミュニティは実の所かなり構築が難しいと思う。私の通っていた高校では、図書室と生徒指導室が廊下を挟んで隣り合って存在していた。そこまで近いと図書室で起こったことやコミュニティの一つや二つ、知られていそうなものだが、あの場所には完全な自治権のようなものが暗黙であったため、先生方にも干渉されにくい環境だった。さらに、教室の中心にいるような運動部の生徒や、彼らと仲の良い女子はあまり図書室には来ない。さらに、本気で勉強をしたい人は進路指導室へ行く者が多かった。つまるところ、そもそもが逃げ場として成立し得る場所で、だからこそそこに住み着いた常連や、ふらりと流れてきた、先生やクラスメイトを味方と思い切れない人にとって特に居心地の良い場所に変わり得たのだろう。
 こういう、人の海に溺れて孤独に向かいがちな人を受け入れる受け皿としてのコミュニティづくりを、大学のサークル内でも少しだけしていた気がする。この時は、「このままだと潰れちゃう」と確信した子たちにつきっきりでお話をしたり、相談を聞いたり、意見を代弁したりした記憶がある。きっとこういう世話焼きも得意なことなのだろう。とはいえ、これに関しては時が最大の敵なのだが。
 「図書室コミュニティ」で学んだことは「案外、本当に追い詰められている人が本当に求めているのは、解決策ではなく、ただそばにいてくれる人なのかもしれない」ということだ。解決策なんてものがあれば、最初から実行しているはずなのだから。まあ、解決策が単純に全く浮かばないだけだったこともあるが、やっぱり辛い時には正論じゃなくて、隣で手を握ってゆっくり話を聞いてくれる人が欲しい。自分が思うことをストレートに伝えるべきか、何も言わず手を握るべきかのラインは見極めがとても難しい。過ぎたことに対するやるせなさ、消化不良の感情、そういったものは他人ではどうしようもない。「これからのこと」についての悩みならばストレートに伝えるが、「過去のこと」についてのものなら手を握って黙って話を聞くというのが私の見つけたラインである。

 ここまでコミュニティの話をした上ではっきり言うが、私は一つのグループに所属し続けるのがあまり得意ではない。もちろんクラスで仲の良い人たちのグループにはいたが、そこでも別に中心的なメンバーというわけではなかった気がする。しかし不思議な共通点もあって、クラスの仲良しグループでは「おばあちゃん」、大学で入った聖歌隊では「ママ(お母さん)」と呼ばれていた。つまり、所属するグループにおける役割はしっかり持っていたのだ。どうやら私は自分が思うよりお節介で、思うよりも身内と思う人を甘やかす人なのだろう。
 私は一度他人を懐に入れると、いわゆる「激重感情」を持って接してしまうタイプだ。よく言えば愛情深い。そして嫉妬深い。とは言え、一方的にそれをぶつけるのは良くないことだと思えるだけの理解もある。だからこそ、自分のコントロールの効く部分以上に懐に深く入り込まれないように気をつけ、色々な感情の中和点を見つけた結果が「おばあちゃん」や「母」なのだ。
 大切だからこそ、私からは何も言わず、ただそばにいることを選ぶ時もある。同じ理由で、他の人がデリケートな問題だとして言わないであろうことをストレートに伝える時もある。私は悪手だとわかっていても長い目で見た時必要だと思えば手段としてカウントに入れるタイプの人間だと自分で言っている以上、関係が悪くなるとしても言わねばならないと思えば言う。言いたいかは別としても。
何がともあれ私にとっては、時と場合に大いによるとはいえ、私から見た真実を伝えることも、複雑な形ではあるものの、嘘偽りの無い友好の証だ。むしろ見ようによってはこの段階に来て初めて私との交友関係が始まるのかもしれない。その形がたまたま、困った時には何も言わずそばにいたり、時には叱ったりというだけのことだ。
 もし私の懐に入っている自覚がある人で、「こいつの愛重いな」って思ったことがある人は優しく教えて欲しい。その行動は間違いなく全く意図していない素の部分でやっていると思うので・・・。

 話は変わるが、重いで思い出すこともある。中学二年生の頃の担任の先生の期待というか、そういうものが後々の私にまで影響を及ぼしたなんてことがあった。その先生もやはりいじられ役で苦労人の相が出ていた。私が大学一年の時、文化祭を覗きに行って顔を見た時には、「もはや別人では?」レベルで随分と老け込んでいたのを覚えている。中学生をメインに担当する先生は老けるのが早い気がするというのは私の思い込みだろうか。まぁ私が中学生の時でさえ、治安は良くは無いものだったから、大変なのだろう。
 終業式の日、もしくはその前日くらいのことだったと思うが、先生がクラスのメンバー一人一人とちょっと話をしたいと言い出した。一人ずつ廊下に行き、先生と短時間お話をして教室に戻ってくる。何を話しているのかは知らないが、重要な話では無いだろうと思うくらいには短時間だった気がする。
 そして私の番の時、先生は私に開口一番で「(ヒューの名前)と〇〇(クラスメイトくん)だけがうちのクラスの正義だった」と言った。他にも色々突っ込みたいことはあったが、なぜだかこの言葉は高校卒業間近までモヤモヤとした形で私の脳に焼き付くことになった。
 というのも、当時の私的にも、正義になった記憶はなかったのだ。だというのに、従順で成績もそこそこ優秀、頼まれれば隣の席の友人に勉強を教えたし、弁論大会の原稿を書く手伝いもした。内容こそよく覚えていないが、気に食わないことがあれば正面切って噛み付いたこともあった。とはいえ、それらは私の中の不愉快メーターに従って、私の気持ち一つでやったことなので、正義という大役を押し付けられてもなあ、と思った。私が思わないところで何か良いことをしていたのかもしれないが、やはり気まぐれや不愉快メーターに従っただけなので正義ではない。何かを言いつけられてもそれに異論がなかったり、面白そうだと思えば自分の仕事として受け持つこともあるだろう。
 実際、先生に直接頼まれて、赤点を取った友人に勉強を教えたことがあった。面倒だなとも思った。だが、その友人の面白いところは点数で測れないところにあるというのに、周りはそれに気付かず皆彼のことを変人な上に馬鹿者扱いしていた。だから、その彼に点数を抜かされる奴の顔を拝んでやりたいと思った。それだけの理由で引き受けた。結果、彼は次の期末テストで83点を取った。前回の倍以上の点数で、前回まであからさまに彼を馬鹿にしていた人間に吠え面をかかせるには十分な点数だっただろう。これだけで、私にとっては面倒以上の面白さがあった。
私は基本的に、自分の決めた不愉快メーターや気まぐれに大いに従う人間で、自分が嫌だったら正しいことでもやらないような人間だ。たまたまあらゆるものに恵まれたから、今の私の気まぐれや不愉快メーターは大抵は良いように作動してくれているが、育った環境次第では喜んで悪事を犯したかもしれない。他人が喜びを持ってくれることを少なからず「不愉快でなく心地よい」と評価する人間に育ったから、そのような環境に居たから成立するだけの、風が吹けば飛んでいくような善悪だ。だからこそ、正義という枠組みに対して妙にモヤモヤした。
 教員が一生徒に正義像を押し付けるのは違うと高校卒業も間近になって再度思った。人間の正義は誰かに押し付けられて出来るものであってはいけないと思う。「法に触れなければ必ずその行いは正しく、義のあること」だとは思わない。この辺の、いわゆる倫理観の話は始めればそれだけで無限に続きそうなのでいずれ。
 結局のところ、法とかそういうものによってではなく、「何を正しいと思い、何を義のある行動とするか」は自分の人生をかけて考え続けなくてはいけないものじゃないかと今の私は思っている。だからこそ、人間の集合体であるクラスの正義を、先生が二人の人物に固定してしまったという点が不服だったのかもしれない。

 重い話をしたから、最後に愉快な教師陣の話をしようか。母校の教師陣は癖が強く、ネタには事欠かないのだ。
 その中でも群を抜いて、中学一年の頃の理科の先生はとんでもない先生だった。中学一年生の私視点でも「ヤバい先生」という評価だったが、今の視点なら「なんであの人教員になれたんだろう、採用したの誰?」になるだろう。
 当時、理科の授業は毎回理科室で行われていた。席順は出席番号順で四人を1テーブルにつかせる形式だった。従って前列が男子、後列が女子になっていた。しかしある日突然先生は理科室内での席替えを行うと言い始めた。なのに席替えが終われば男子は全員後列、女子は全員前列に持ってこられ、男子はみんな不満げにヤジを飛ばし始め、先生も「お前らがうるさいからだ!」とか言い返し始めた。いい歳したおじいちゃんの先生が中学一年生と張り合っているのを見るのは、なんだか呆れてしまうような、笑ってしまうような気持ちになった。
 しかし、何度目だったかの「なんで男子後ろなんですかー!?」というヤジが飛んだ途端、その先生は大声でキレながら、
「俺は女子が見たいんだ!!!!!」
と言い放った。この瞬間、女子だけでなく、男子まで口を閉ざして理科室内が凍りついた。それはそうなるわ。出るところ出たら勝てたかもしれないとは今でも思う。よく逮捕されなかったな。
 その先生についてのエピソードはまだまだある。
 三学期だったと思うが、突然先生が「石の標本を作るから箱代の105円を渡せ」と言ってきたことがあった。今にしてみれば教材費という概念をすっ飛ばしているこの時点でおかしいのだが、当時中学一年生で真面目の面を被っていたとはいえ、比較的純粋だった私は友人と共に105円を先生に渡した。面白半分ではあったが。ちなみに、クラスには105円を渡さない強気で賢い学生もいた。
 結果だけ言うと、やっぱりというかなんというか、105円は高校を卒業しても帰って来なかった。教材費から出ない謎の箱に105円を取られた。普通にこれは犯罪である。105円は大学を卒業した今も帰ってきていない。というかそもそも、その先生が今生きてるのかもわからない。かなりお年を召していたから。
 105円とかいう微妙な金額を詐欺られたわけだが、ぶっちゃけ私はほとんど怒っていない。友人は最後まで怒っていたが、詐欺体験と一年間散々笑わせていただいた代金と思えば安いもんと思った。そのくらい様々な衝撃事件をを引き起こしてくれた先生だった。実験器具の入った箱を落として中身を全部割った事件。回されたヨウ素デンプン反応かなにかを見せるための容れ物を返却しに理科室前方に来たクラスメイトをツッパリで室内後方に追いやって立たせた挙句、その時に制服に飛んだ溶液のクリーニング代と言って文句を言いに行った学生に3000円だかを投げつけたらしい事件。いつまで経っても人の名前を全く覚えない事件。テスト時間に質問がないか確認しにきたはいいものの、人の答案を覗いて「それはちょっと違うなあ」とかいう微妙なヒントを残して去っていく事件など・・・。ここには書けない事件も含め、毎日のように何かをやらかしてくれたので、退屈はしなかった。
 字面だけ見ても当時の我が母校の治安が心配になる。実際治安はアレだった。なにせ、この先生はネットで名前検索されて画像を見つけられてしまった結果、その画像を使ったクソコラグランプリが開催されてしまったのだから。その先生は多分気付いていないはずだが、当時はクラスどころか学年で大いに盛り上がっていた。中学一年生の治安が如何程なものかはわからないが、うちの学校の場合、よくはなかったのは言われずとも察することができるだろう。
 正直、こんな先生が中学一年の頃に現れてしまったので、先生という存在に対しても「どんな人が出てきてもこの人よりマシだったら共存の可能性はある」とまで思えるようになった。まあ、別の方向で共存できないなあと思う先生が出てきただけだったが。なんにせよ人間は限界を超えてこそ成長していくのか?と思ってしまうような成長だった。こんな形で気付きたくなかったが。

 この人ほどではないが、我が校には癖の強い先生がかなり居た気がする。古文の授業で「ペプシコの株を買え」と学生に資産形成の指導をするコテコテ関西弁教師もいたし、あまりに独特な発音で"definitely"と"above sea level"のフレーズをクラスメイト全員に一発で叩き込んだ英語の先生もいた。二次関数を自らの肉体で立派に(?)表現する数学の先生もいたし、ホテルとかに置いてあるような呼び鈴を常に持ち歩いて授業をする社会の先生もいた。10人も居ない静かな教室での生徒の呼びかけが全然聞こえないレベルの耳の遠さを持つ数学の先生もいた。(尚、この先生はテストで角度を求める問題を出した際、過程を書かないと0点にすると宣言してたので、「直感で30°」と書いたら丸をくれた先生でもある)。他にも思い出せばたくさんヤバい人はいた。あまりに多くて書ききれないから書かないだけ。おかげで、私は癖の強い人間にしれっと囲まれても生き残れるくらい逞しくなってしまった。もはや私の方が癖の強い人間になっているのかもしれないが。
何度だって言うけど、本当に採用基準どうなってんだうちの母校。
私に子供ができることがあれば絶対母校にだけは行かせない。神に誓う。

 他にもいろいろ母校については語りたいくらいだが、ちょっと脳内で整理が追いつかないので今日はここまで。多分次母校に関わる時じゃないと書かないと思うけど。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?