忘れられない人の話

 私は基本的に大嘘つきで、なんとも信頼ならない奴だと思う。同じことについてでもその時の気分次第でコロコロ発言を変えるし、思ってもいないことにだって頷こうと思えばどれだけでも頷ける。

 とはいえ、私の中で「これだけはまもろう」と思っているルールがいくつかある。
一つ目は、「自分ができるだけ笑っていられる私でいる」こと。
二つ目は、「自分が誓ったことだけは必ず守る」こと。
三つ目は、「不器用であっても私のためだけの言葉をくれる人を愛する」こと。

 一見、当たり前でふわふわしたルールだと思われるかもしれないけど、このルールが自分の中で成立したのには、ある一人の人物が深く関わっている。
先に言ってしまえば、私はその一人に心の底から惚れ込んでいた。最後に会ってから4,5年は経つというのに、全く「過去の人」なんかに出来そうにない。その人とはもう二度と話せないと思うし、連絡先も消してしまった。今年初めに理由があって自分の連絡先を消してしまった時に出た涙と共に心まで枯れてくれればどれだけ良かったか。結局、「どうか私の知らないどこかで、人並みの幸せを手に入れて欲しい」と祈ってしまうくらい、今も気持ちは変わらない。
 誰に話すものでもない。真実だからこそ誰にも話せない私の心の在り方を独り言のように書き殴りたくなった。それだけの理由で、私は筆をとる。

 その人と話すのは、決まってある駅のホームと、そこから乗る電車の中だった。その人は少し意地悪で、でも優しい人だったのだと思う。時々私を揶揄って、時々私の欲しい言葉をくれて、大半は取るに足りない話をするような関係だった。私が先輩で、彼が後輩。だというのに、同級生みたいな会話ばかりをしていた気がする。勉強の話もしたし、ゲームの話もした。たまにお互いの読む本の話をしたし、学生らしく将来への不安を話すこともあった。
 そのような名付け難い関係の彼と初めて話したのは、朝方のスクールバスが来るまでのわずかな時間だった。その日は目覚めた時からあからさまに天気の悪い日で、弱まることを知りやしない大雨の中、彼が小さなハンドタオル一枚を頭の上に乗せて立っていたのを放置するのがなんとなく嫌で、傘に入れてあげた事がきっかけだった。私にしてみれば、私の目につくところにいる後輩が雨に濡れているのにみんなこぞって携帯を見つめたり本を読んだりと、まるでいじめているかのような図が気に入らなかっただけのことだ。傘に入れて少しでも自分の気が晴れればと思っただけのことだったのに、気付けば帰りのスクールバスを降りてから彼が降りてしまうまでの時間を毎日の様に話す仲になっていた。夕方、橙色に染まった駅のホームで二人で話す時間がとても楽しかった。スクールバスを降りるまではお互いを知らんふりをするような、小さな秘密の関係に年頃らしく心躍ったのもあってか、電車が来るたびに、もう少しだけ遅く来れば良いのにと思ってしまうくらいには、私はあの時間が大好きだった。

 世間話をするのも辛いような日があった。その日の私は、学校で今でも明確に覚えているほどの辛い事があった。許されるならばどこにいたとしても泣いてしまうような、そんな悪夢のような日だった。それでも自分を慕って話しかけてくる彼との時間は私にとっては大切な時間だった。具体的に何をしゃべったのかはよく覚えていないけど、ふと、軽い世間話にしては重くのしかかる話をしたのだと思う。いつもよりなんとなく静かだった気がする。
 その日の私は彼と目も合わせられないほど、他人の視線に疲れていた。
鏡を見るのも怖い。人と目を合わせるのも怖い。人に見られることが怖い。ただ生きているだけなのに、何かをすれば遠巻きにされ、何もしなければ馬鹿にして笑われる。高校生の私にとっての世界とは、無邪気な悪意だらけだった。良いものをたくさん知っていた。きっと友人にも恵まれていた。先生にも親にも、私が知らないところできっとたくさん守ってもらっていた。なのに、私だけがそれらを信じることができなかった。信じていたつもりだったというのに、心のどこかでそれら全てを疑っていた。その天罰だと言わんばかりに、全ての信頼とか受け取った愛情とか、そういったものの全てが、無邪気な悪意に膝をついた日だった。
 その日の昼のことだ。あまりに忌々しい記憶だからずっと覚えている。その日の私は、仲の良い友人が勉強のストレスで泣きそうなほどボロボロになっていることに気付き、少しでも慰めになるようにと廊下でその子に寄り添って歩いていた。できるだけ明るい話を、されど無遠慮に人を傷つけるような嘘をつかないようにと少しばかりの気を配りながら。すると、後ろから名前も知らない後輩数人が大きな声で「〇〇駅で降りる人ですよね〜〜〜!?」と私に声をかけてきた。理解ができない行動に私は怒るでもなく唖然として何も言い返せなかった。意識が戻ってきたのは隣にいる友人が少しだけ体を震わせて、涙を少しまた溢れ出させたのが視界の端に映った時だった。その時の私がどんな気持ちになったかをきっとあの後輩たちは死ぬまで知ることはないと思う。
 友人の涙を引っ込ませることすらできない自分の無力さ。平気で自分の「面白い」のために他人を食い潰そうとする名前も知らない後輩たちへの怒り。それを誰も止めない学校の人間への強烈な憎しみ。くすくすと聞こえる笑い声への恐怖。私の存在がその瞬間の友人にとって間違いなく「恥」だったという確信。私がいるから受けた辱め、私がいなければ受けることのない恥だったという自責。せめて私がもっと他人に知られないように時間に気をつけて帰宅していればこんなことは起きなかったはずだという後付けが過ぎる後悔。
 私にとって、「そういう」揶揄いは「私が耐えれば済む」だけのことだった。言われるだけなら何を言われても私はあまり気にしなかった。今回のことにしたって、私は公然の面々で最寄り駅を間違えることなく晒されて笑い物にされただけのこと。それで何か危害を加える人がいるでもない。そんな度胸のある人間はきっと他人の住所に近しい個人情報を一般にばら撒きはしないだろう。この類のことは散々言われ慣れたことだ。散々傷ついて、もう痛みも忘れていたようなものだった。したがって、気にしていたとしても、それは私が耐えられる範囲内のものであれば無いに等しいと思っていた。
 だが、それは私だから「そう」だった。追い詰められた友人にとって、「私の場合は耐えれば済む」痛みが「耐えられない」痛みであることに気付くのが遅かった。痛みに慣れるということは、大切な、あるいは大切でなくとも、誰かの痛みに鈍くなってしまうことでもあった。
 全てがどうしようもない感情で埋め尽くされていた。怒り、憎さ、後悔、恐怖、悲しさ、諦め。元から少なからず他人に持っていたものだろうが、極端に増幅されたそれらに対する制御を失い、最後には疲弊だけが残った。その疲弊が私だった。腹の底から冷えた何かが全身を這いずり回る確かな感覚がずっと思考回路にこびりついて離れない。全身が冷やされ切って、恐ろしさに視線を合わせることもできず、彼に適当な返事ばかりをしていた気がする。
 そのような無作法を無作法と咎めることはなく彼は会話を続けてくれた。明るい、それでも無遠慮なものではない、ほのぼのとした日常の話だった。今にしてみれば、それが彼なりの優しさだった。私の中に、何か底冷えするような嫌な感情が蠢いていたのは、彼で無くてもわかっていた様な気がする。それを伝えられない自分も、喋り続ける他に手段を知らなかった彼も、きっと不器用な人だった。
 普段よりも聞くに堪えないような、あまりにくだらない話を聞いた私がようやくため息をつくように口元を少しだけ笑みの形に歪めた時、彼は私に向かって「笑っていた方が先輩らしいですよ」と穏やかな声で言った。それまでに聴いたことがないような穏やかな声だった気がする。当時の私には、あまりに穏やかな声だったのが不愉快で、「お前に何がわかるんだ」と、とにかくむしゃくしゃした気持ちで彼の方を睨みつけてやろうした。
 その日初めてまっすぐ見つめた彼は、顔の半分を正面の窓から差し込む夕焼けの橙色に染めながら私のことを見ていた。焼き焦げそうなほどの感情を瞳に込めて。私にかけたい言葉は色々あったのだろうけど、何も言わず。だから私もそのまま何も言えなくなってしまった。彼が私のことを馬鹿にするでもなく、遠巻きにするでもなく、心配してくれていることを何よりも深く感じ取ったから。いつものからかうような感情とは正反対のそれ。それまでに何度も感じてきたそれにかち合った視線を下手にずらすこともできず。視線の端の窓の外は景色が流れているはずなのに、確かに時が止まったかのような時間だった。
 そのまま見つめあっているうちに、私の苛立ちが急に馬鹿らしくなった。もちろん、あったことを水に流す気もなければ、どうしようもない感情を抑えることもできない。きっと、怒りも憎しみも悲しみも後悔も、一生私から離れていくことはない。それでも、それら全部引っ掴んで笑っている私の方が、彼にとっては「私らしかった」のだろう。そう思うと、自分ではどうしようもない悪感情だけに囚われている私が馬鹿らしく見えてきた。それだけのことだった。
 その後に何を話したのかは全く覚えていない。何年も経った今、記憶に残っているのは視線と、「笑っていた方が私らしい」という言葉、差し込む橙色の光だけ。
 この話以前にもこれ以降も、彼とのちょっとしたエピソードはたくさんあった。自分の方が睡眠時間が短いのに私の睡眠時間を誰よりも心配してくれたり、寒い日には暖かくするように言ってくれたり。大半は忘れてしまったが、断片的に思い出せる記憶はそのどれもがきらめきと優しさで満ちている。
 きっと、あの時彼が私の心の冷えに気付かなければ、私の冷えた手をとらなければ、優しさもきらめきも一生知らないまま死んでいったかもしれない。あるかどうかも分からない明日に向かって生きていく私たちは、いつだって何かを取りこぼしてしまうのだから。その中でも、決して取りこぼしてはいけないものを取りこぼしてしまっていたかもしれない。
 その出来事からもう五年か六年は時が過ぎた。声も忘れた。写真のひとつも撮っていないから顔も忘れた。最後に話した言葉も忘れた。多くの思い出を忘れてしまった。今残っているはずの思い出もどこまでが事実で、どこからが私の頭の中に作られた空想の彼とのものなのかもわからない。それなのに、あの日電車の窓から差し込んだ夕陽の橙色と、視線の強さだけは確かにあったのだと思う。あの橙色に溶かし込まれた何かに私はずっと心を奪われ続けていて、今も忘れられないのだから。10%の恋心と70%の愛情、20%の感謝と隙間に流れる僅かな恨みで構成された何かに私は生かされているし、囚われている。
 高校卒業を目前にした時でも、彼への感情に名前をつけることはできないままだった。好きは好きだった。恋と言われれば恋だった。だが、そのどれもに納得ができなかった。それに、どんな名前を与えようと彼に私の気持ちを伝える気はなかったから、名前をつける気もなかった。名前をつけて仕舞えば後悔すると思った。というのも、彼と私の関係は私が高校を卒業すれば縁がなくなってしまうと確信していた。彼との縁は、長いかもしれない人生の中で、その時しか交われない種の人間の縁だった。だから私の気持ちを伝えたところでその先なんて存在していなかったし、大切に思っているという言葉の一つで、彼の心を縛るのが嫌だった。
 あるいは逆に、彼に自分の心を知られることを恐れて逃げたのかもしれない。自分を好きでいられるほど、私は真面目に生きてはこなかった。人を心から好きになれるほど、人間を好きにはなれずに生きてきた。人に馬鹿にされたり、時には恐れられたりする生き方をしてきた。友人にも家族にもきっと恵まれた。ただ私だけが、恵まれた自分を受け入れることができなかった。結果として、対処不可能の冷えた感情が一人歩きし、自我を持って私の名前を持って生きていた。つまり、私は一匹の化け物だった。化け物を己と呼ぶか、己を化け物と称するか。その程度の違いしか自己に見出せないほど、「自分を生きる主体としての人間である」という自覚に欠けていた。そんな怪物のような自分が人間を好きになるのだと知られたくなかったのかもしれない。私には恋をする少女になるより前に、人間の土俵に立つことが怖かった。その時の感情だけで好きだと伝えられるほど、私は人間ではなかったのだから。

 だから自分の感情に名前をつけることも伝えることもせずに私は高校を卒業して、大学生になった。大学に通い始めてすぐに聖歌隊に入ったのは、入学式の時に歌声をきいて、「入らなきゃ」と謎の確信を持ったからである。珍しく迷うことなしに所属を選んだのだから、これも何かに導かれていたに違いない。
 大学に入ってからの四年間は、簡潔に言えば彼への気持ちをどう受け入れるかを考え続ける四年間だった。贅沢な四年間だったに違いない。ありとあらゆることがあったのだから。どの過程においても、聖歌と私の感情は、私にとっては切り離せないものになった。
 大きな関心ごとはいくつかあったが、一番は「私らしいとは何か」である。彼がくれた言葉を私なりに大切にするために、私はこの問いに長く悩むことになる。
 そのために最初に考えたのは、私と他人との関係についてである。私からすれば、他人という概念そのものに対してそれなりの悪感情がある。たくさん傷つけられた。たくさん傷つけた。それでも両者ともにまだ太々しく生きている。誰かと生きることで誰かを孤独に追いやってしまう皮肉な生き物だ。いつまで経っても逆境からの華々しい逆転劇が面白いと愛されてしまうような進歩のない生き物だ。
 きっと今でさえ、そんな生き物に自分の弱い本心なんぞ見せるものか、と思っている。弱みを、柔さを見せた人から傷つけられていくのは、私の人生においては間違いなく真実だった。何度も何度も傷ついた。傷つけた。守れなかった。守ろうともしなかった。
 それでも私にとっての真実はいつも、記憶の中の彼の言葉にその真偽を問いただされた。他人を嫌い、憎み、拒み、そうして誰もいなくなった果ての笑顔を、彼は「私らしい」と言ってくれるだろうか?と。どう考えたってその問いの答えは否定だった。
 絶対に受け入れたくない、それでも心のどこかでわかっていた。もうとっくに理解していたそれに向き合おうと思った頃には、もう一年の冬になっていた。自分の団体が教会で行うクリスマスコンサートの準備が大詰めになり始めた頃だった。
 私はもうずっと前から、私は私に向けられる優しさを知っていた。家族、友人に恵まれていることをずっと知っていたのだから。だからこそ、他人を嫌いと言っても、心のどこかで憎んでいても、拒みたくても、きっと人を好きになってしまう。人間を嫌いになることなんて、できっこないのだ。
 この真実が、何よりも自分でわかっていたことでありながら、そうであってほしくなくて、どうしても受け入れることができなかったものだった。人になれないなら、他人を好きになってしまう私の心は嘘であって欲しかった。せめて、純粋な化け物でいさせて欲しかった。しかし結局、私は化け物にもなれていなかった。
 同時に、どうしようもない、やるせない感情の中にいるからこそ、他人の善意の眩しさが私にはわかっていた。人が取りこぼしてしまったもののきらめきがよく見えたからだ。光の中にあるひとつまみの闇は存外小さいものだが、暗闇から見るひとつまみの光はとてつもなく大きい。だからこそ、誰かが取りこぼしてしまったり、この世界では生きていけないからと捨ててしまったものの暖かさや輝きも、心が泣き出すほどわかった。
 その年のコンサート曲に「何かを話すことも、歌うこともなく別れよう」と、子を殺されることを嘆く母の歌があった。胸の中には、せめて子が苦しむことなくいられるようにと静かに子を寝かしつける母の歌が常に響いていた。常に、王の命令によって、殺されるだけなのに自分の子を手放さなければならない母の気持ちは如何なるものだろうと考えていたからだろう。
 きっと、運命を呪い王を憎んだ。きっと、何よりも悲しんだ。きっと、諦めるしかなかった。他にも、きっと、の続きに出てくる感情がどれだけでも出てきた。しかし、彼女たちには自分の憎しみや悲しみ、諦めの感情を超えるほどの子への愛と神への信頼があったから、泣き叫びたい気持ちを堪えて、子に優しく語りかけるように子守唄を届けたのだと曖昧ながらに感じた。神に信頼を置けない不信仰な私には真相はわからない。
 だが、曲が私に伝える痛みが、どうしようもない感情に潰されかけていた過去の自分に重なって泣き声をあげていた。受け入れたくないはずの、でもよく知っているはずの感情を、心の一番柔らかいところ何度も何度も突き立てられた気がして、歌うたびに痛みに悶え苦しんだ。何度も何度もそれを繰り返し、堪えかねて小さな涙が出そうになったその時になって、私は高校の頃の悪夢の日を思い返した。
 私があの悪夢の日にするべきだったのは、一人で痛みに耐えることでもなく、後悔や憎しみ、悲しみといったどうしようもない感情に身を委ねるのではなく、どうしようもなく痛いのだと誰よりも知りながら、隣にいた友人の涙を拭い、手を握ってやることだったと気が付いた。
 一度泣いて仕舞えば、次々と涙は出てきた。ありとあらゆることを思い出しては一晩と少しを泣き明かし、大学の授業を休んで夜まで寝た後になってようやく、やるせなさや後悔を、他人を受け入れないことで自分を守ろうとしていた自分に向けることをやめられた気がした。
 その感触は、その年の学校行事で行われるクリスマスミサの練習で歌った聖歌の題名に「闇に住む民は光を見た」というものがあったことによって確かなものになった。そのタイトルは、まさに私のためにあるようなものだった。他人を延々と憎むことに腐心していた自分が、彼に出会ってまさしく今に至るまでの「光を見た」からである。
「私はあの瞬間きっと彼に愛されていたし、私も彼を愛したのだ」と、名付けを一度は拒んだ感情に改めて名前をつけることを拒まなかった。痛みも苦しみも、憎しみも悲しみも、そういったものを全部引っ掴んで、それでも「笑っている方が私らしい」のならば、私が愛した人がそう言うならば、これからもそういう私で居たいと思った。それが、私が彼に返せる人らしい、僅かな愛だと思った。

 こうしてできたルールが、一つ目の「自分ができるだけ笑っていられる自分でいる」と、二つ目のルール、「自分が誓ったことだけは必ず守る」である。どうすれば私が笑っていられるのかはそのうち考える。もし、何か良い案が浮かんだ時、大嘘つきの私が決して破らない、約束自体を守るためのルールにしようと思って決めたルールだった。

 三つ目のルールは、私が聖歌隊の執行、つまりは三年になった年にできたルールだ。コロナ禍があったとはいえ、後輩と対面で会うこともできるようになった。私が実際に出会った後輩たちは皆可愛らしく素直で、本格的に活動ができるようになった夏以降は、どうやってこれから指導しようかな、と常に考えるようになった。
 しかし一方で、私が所属している聖歌隊は決して暇な団体ではなく、自分の勉強と合わせてみるとスケジュールの管理が厳しいと思われる子が多くいたことも把握していた。それを仕方がないと、音楽系の団体ならば当然のことだと認識している執行がいることも。
私は自分の経験から、私なら耐えられる痛みでも、誰もがそれに耐えられるわけではないということをよく知っていた。耐えられない痛みこそ、誰にも語れない。誰かが気づいてあげないと、その人は知らぬ間に孤独になってしまう。置いていかれてしまう。孤独は、人から何もかもを奪い去ってしまう。人の中にいてこそ浮き彫りになる孤独は、山奥に一人で籠る時の孤独よりもずっと寒い。
 だからこそ、後輩にとって自分が相談しやすい先輩になることを私の目標にした。自分のパートの後輩はもちろん、接することのある後輩にはいつも気を配った。それしかできないのが苦しいと思うこともあったが、待つことでしかできない対話があることも事実だった。
 そんな中、秋すぎからボイストレーニングを行うことになった。最初に持ったのは二人で、一人一コマ使えるようになっていた。この時の私は、少し厳し目に指導しようと思っていた。何せ、春学期は対面でのボイストレーニングができていない上、コンサートまでにある程度仕上げようと思うとかなりのハイペースになってしまう。それに、自分は教えるのがあまり得意ではないと思っていたから、必要なことだけをぱっぱと教えてしまう方が良いと思った。
 しかし、 11月になって新たな後輩が入り、二人で一コマになった途端、私の考えは変わった。私のボイストレーニングは最初にブレイクタイムとして、ご飯を食べたりお菓子を食べたりお話をする時間を設けていたが、そこでの後輩同士の会話を聞けば聞くほど、不器用な子達だと思ったからだ。聞いている私の方が笑ってしまうような会話を飽きることなく毎週している後輩たちが、私にとって可愛らしく見えてきた。
その一方で、トレーニングが始まってから体を動かせば何度でも唸り、声を出し始めればああじゃないこうじゃないと真剣にボイストレーニングを毎週重ねる。不器用ながら毎日少しずつ前進していく後輩たちが、どこか不器用に私を慮った彼に重なって、後輩としてはもちろん、人間として可愛らしく見えてきた。気付いた時にはボイストレーニングの時間は一週間で一番楽しみな時間になり、二人は我が子のように可愛い存在になった。母を慕うように自分を慕う彼女たちに、自分の持つ知識、技を伝えることに、手段よりも先に気持ちが出る様になった。
 私が引退する時、彼女たちはもちろん、他の後輩からも「先輩がいたから頑張れた」という言葉をもらった。他の人には言いづらかった相談を私にしてくれた子、楽譜の読み方を食堂で教えた子、こっそり二人で練習した子、係の引き継ぎをした子などたくさんいる。みんなの言葉で私の行いは無駄ではなかったという確信を持てただけ、十分以上の成果があった。ここに書き切れないほどの思い入れができてしまった。たくさん笑ったし、たくさん人を好きになった。何度も泣きはしたし怒りもしたけど、その倍は笑ったはずだ。きっと、この私を彼は知っていたのだろう。彼なら、知っていてもおかしくない。

 そこから私は、どこか彼や彼女たちに似た不器用さんが、私に伝えたい言葉を伝えようとしてくれるなら、それを正面から受け取ると決めた。それが、私にできる一番の愛情の伝え方だと思った。これが第三のルールに繋がる。核にはもう随分と遠い記憶の彼と、私の手を握ってくれた彼女たちがいる。

 これからもルールは増えるかもしれないけど、その一番の核になった彼は、今も私の手の届かない場所で生きているはずだ。私ももう彼の夢を見ることもないのだろう。あの時の思い出から、もうずっと遠い場所で生きているのだから。
 もし、彼に伝える言葉があるなら、多分こうなる。
私の知らないところで、人並みの幸せを手に入れて欲しい。
これまでも、今も、きっとこれからもそれを願い続けてる。


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