最近のスランプ話

 二月になってから体調を崩しがちになっている。結構真面目に困っている。だというのに体調が悪い時に限って書きたい小説のネタとかたくさん浮かんでくるのは何故なのか。
 そもそも、二月だけですでに三回熱を出しているくらいには心身ともに弱っている。気温差とか、まあメンタル的なあれそれがあるんだけども、それにしたって一ヶ月に三回発熱ってアレだよ、小学生の時にそんな時があった気がするなあレベル。
 体調崩して家に引きこもると、友達が少ないせいもあって孤独に陥って、それで次はメンタルが崩れるという負のループに陥ることってありますよね。あってたまるか。でもあるんだよなあ。

 体調の話はさておき、スランプの話ね。
 一応私、申し訳程度に小説を書いたり歌ったりする人なんですが、体調を壊して喉はガラガラ、浮かぶアイデアは決まって人が死んでしまう話。久しぶりにドイツ語のSCP記事でも翻訳して鑑賞しようかなと思っても全然気分が乗らない。気分まで暗くなってきて余計にえげつないお話が浮かぶようになってくるというループに陥ってしまった。
 書く気は無いので一つネタを言ってしまおうか。
 「死の定義が人に忘れられること」だとした時、人間は死後も生き続けることになるわけです。まあ人の死は二度あるとか言いますし、本当に死ぬときは自分のことを誰も覚えていなくなる時だなんて言いますし。では、肉体が死んだあとも世界にこびりつき続けてしまうその人の二度目の命って、どうなっちゃうんだろうって思った。肉体は死んだのに、死にきれないまま亡霊としていつまでもいつまでも彷徨ってしまう。肉を持った自分は死んでしまったのに、自分だけが時間に取り残されていつまでもいつまでも死ぬことができない。二度目の死を迎えるまで、生き続ける他にない。
 そういうお話。まあ、ある意味無間地獄ですよねえ。自らの行いによって、永遠の攻め苦を味わい続ける。話が浮かんだ段階ではなんだかんだ二度目の死まで浮かんでいるので全く救いのないお話ではないんですが、それはそれで救いがないよなあと思うわけです。

 もう一つの話はタイトルを先に考えた。『夜明けまで』というどこにでもありそうなタイトル。なんなら多分これまでの創作にもこのタイトルありそう。文字通り、ある意味「夜明けまで」におこる全てのお話。これは割とコミカルかも?
 とは言っても、やっぱり主人公は既に死んでる人だし、既に死んでいる人が自分の人生を思い返しながら夜が明けるまでに人の夢に出て挨拶をしていくという話です。主人公は自分がどういう人間だったのかを結構な部分忘れておりまして、他人から見た自分の中に自分を見出し直すという話になっています。この話だけは結構自分の実体験からインスピレーションを受けているところがあるので、書こうと思えば多分今からでも書ける。体調が持ち直したら書いてもいいかも。
 というか、今にしてみたら、『夜明けまで』というタイトルでUntil Dawn思い出しますなあ。暗転ドーンとか言われていても私は結構好きなタイトルです。まあでもゲームの特性を活かしきれていないと言われればそれは否定できない気もしますね。色々と惜しい。だがそれが良い。ホラーゲームのことを語り始めると話が長くなるがそれでも語りたいので、また後ほど。

 最後に浮かんだのは、コンセプトが「世界が最も美しく滅ぶ時」というコンセプトでして、私が最近熱にうなされながら見た夢の通りに世界が滅んだら綺麗だなあと思ったのでそれを形にしようとした。が、なんというか、人類には早い物語になりそうなので一旦却下。
 詩の通りに物事が起こっていくのですが、白い彼岸花が「会いたい」って叫び始めたりするんですよねえ。多分これは彼岸花の花言葉の一つに、「また会う日を楽しみに」というものがあるからですかね。「思うはあなた一人」なんて花言葉もあるので、多分そこから出てきている。
 会いたい人がいる人は必ずその人に会える。ただし、それは生きた姿とは限らない。幻覚かもしれない。死体かもしれない。幽霊かもしれない。それでも、会いたい人に必ず会える。夢や幻だと分かっていても、その人に会いたいと願えるかどうかですね。世界が滅ぶ時、そういう人と一緒にいられたなら、それは幸せなことだと思います。それが夢や幻であっても、それでいいと思えるほどの純粋な、それでいて強い想いを持てる人には幸せかな、と。
 暖かい春のような気温で、見たこともないほど綺麗な青空を見て、大事な人のことを思い返しながら迎える世界の終わりは、きっと美しいんだろうなあ。少なくとも、私が心のどこかでそれを望んでいるのは否定できないんですよね。
 まあ、私の悪夢はいい感じなところで終わって目覚めるんですが、物語としては「世界の終わり」ということで、目覚めることなく意識がシャットアウトしてそのまま全ての人が亡くなります。世界の全てが眠り、そうして誰も目覚めない朝が来る。そういう終わり方です。
 白い彼岸花が叫んだり、ぬいぐるみが手を握ってくれたり、携帯やパソコンなどの電子機器が群をなして焼却炉に飛び込んで行ったり、道路にネモフィラが咲いたりします。自動車は草木に埋もれ、泥のついたスニーカーの泥は洗い落とされ、汚れた手は拭われ、そうして優しいまま世界は終わっていく。本当に摩訶不思議な夢世界です。

 余談ですが。ネモフィラの花言葉には「あなたをゆるす」というものがあり、ついでに私が一生忘れられないくらい愛した人の誕生花でもあります。人や車が過ぎ去っていくだけの道路にネモフィラが咲き乱れるっていうのは、私の人生やその生き方、考え方を許されるってことなのかなって思っちゃったり。きっと人より罪深い生き方をしてきた私が。
 真面目な話ですけど、人を許すのって難しいんですよ。何年かかっても恨んでしまうものは恨んでしまうし、嫌いなものは嫌いだし。でも、今日世界が終わるのなら、ちょっとは許してもいいかなって気持ちが出るかもしれないし、自分が誰かに許されたのなら自分も一人くらい許していいかなって気持ちになるかも。
 何が言いたいかっていうと、人間って自分から人を許すことが多分すごく苦手。許したい気持ちもほんの少しはあるかもしれないし、許した方が自分も楽になることは重々分かっているのに、それでも人を許せない。許さないことでしか奮い立てない気持ちもある。憎むことでしか保てない自分がいる。少なくとも私には居る。
 でも、そういう気持ちすらも「ここまでよく頑張ったね」って許されちゃったら、もうそれまでと同じように憎み続けることもできない気がして。許すまではいかないかもだけど、何かは変わってしまう。憎むことにこだわり続けてしまった自分に気づいちゃうって多分そういうこと。許されたら人に手を下しにいく人もいるかもしれないけど、私は臆病者で、私の中で絶対のルールに違反するから多分しない。
 そういうのもあって、ネモフィラが道路に隙間なく咲くっていうのは、見方によっては対私特攻の「憎しみからの解放手段」なんですよね。多分、物語内の全ての人が夢の中でそれぞれの捨てられない何かを許されているのかも。たまたま、物語の視点主がそういう表現だっただけで。

 電子機器が焼却炉にダイブするのも多分、加速していくだけの人生にすごく疲れているんだと思う。誰かといつでも繋がれる代わりに、誰を切り捨てるかをいつでも選べる時代になったなあってネット社会を見て思っている私がいて、自分はいつでも切り捨てられる側であり切り捨てる側であるという事実に勝手に苦しんでいる。大切に抱えていたい思い出も、時の加速の中に微睡んで薄れてしまう。
 人生には綺麗でハズレのないレールみたいなものがあって、そこから飛び降りたが最後、もう追いつけやしない。レールの上を走り続けるのもすごく疲れるのだろうけど、私はそれを外れたところから見ていて疲れている。多分、世界が終わる夢を見たのだって、私がめちゃめちゃ精神的に疲労しているところもある。だから、無責任にも電子機器が焼却炉にダイブしたり、自動車が植物に覆われて使えなくなったりしている。自覚がない領域で、生きることに疲れ果てているのかななんて。

 あとはそうだなあ、SCPの「リリーの提言」みを感じるなあとも思っています。真面目に結構似ている。雰囲気が。多分私的にも印象に残っている作品だったからかも。リリーの提言に夢の世界の不思議な感じが混ざった感じですね。結局、メモは作ったけど人類には早い物語じゃないか?と思ったので機会があれば書く程度にしようかなあと。でもいずれ必ず書きたい。

 このように、私の頭の中にあるアイデアはどれも世界が滅んだり人が死んだりしている。暗い。もっとポップな話が作りてえなあ。しかもアイデア浮かぶだけで体調的なあれこれから執筆作業にもいけてない。生産性0の話って感じ。そういう気分の意味でもスランプ。


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