日和颯もとい月見真という人

 私がこの名称を使い出したのは、ちょうど第1回目のアンソロジー発行を決めた2020年の春先です。

 アンソロジーを手がけるにあたって、まず作中の「彼」をどう示すのが正解なのか。
 「ツキミシン」という生来の名が発覚したにもかかわらず、今もなお「ソウ」と呼ばれ、親しまれる彼の名前を紹介するにはどう告げるのがベストなのか。

 アンソロジーのタイトルと同じくらい悩んで、参加を募った際、メールでお伝えした表記が「日和颯もとい月見真」でした。以来、生来の「彼」ではあっても、あの時でしか生まれるはずのなかった「彼」をさす場合はこんな名称を使い続けています。
(我が物顔で用いてますが、もしかしたら相互さんが呟いてたもの丸パクリかもしれないです。ごめんなさい)

  さて、そんな具合で先日執筆した誕生日小説における「彼」について、私なりの解釈を記しておこうかなと思い至ったため筆を執ります。


作品として落とし込んだものの背景を執筆者の口から解説するのは俗っぽい……と思われるかもしれませんが、私にとっては解釈も私の作品の一つであるという認識なので、お時間のある方はお付き合いいただければ幸いです。また、この解釈も記事もなにかの「正解」ではなく、私の作品における記録と答え合わせなので、気楽に読んでいただけたら嬉しいです。



ボクになれなかった人


「なれなかった」というフレーズは、私が長い間、それこそ未だに読み返す小説のタイトルを参考にしたものです。一見するとネガティブに思える「なれなかった」というタイトルですが、そういった第一印象を覆すために執筆したのが今作となります。

 作中の彼は、「ヒヨリソウ」という名を騙ってデスゲームに参加しました。理由はゲームで語られたように、「月見真」のままでは彼の勝率が0%のままだったからです。
 では、なぜ騙る名前に「ヒヨリソウ」を使ったのか。それは、彼が接してきた日和颯との過去が関係すると考えられます。
 写真を見ただけで慄くような友達。しかし、その面影を忘れられず、形見のようにマフラーをまといながら日和颯ではないのに彼の名前や口調を使う。
 彼ならばどうするか。「日和颯」なら、僕ではなく「ボク」だったのなら──、と。作中における「僕」と「ボク」の使い分けもここに理由があります。

 「彼」の口から語られる思い出があるのなら、友達という関係に偽りはない。しかし、ただの友達というには歪で、ただの友達と当てはめるにはあまりに密な関係性だった。

 今作の1話、『会えなかった人』ではそんな、ただの友達関係ではなかった二人を第三者の目線から話す人物を配置しました。
 月見真の親しい友人として登場した彼ですが、作中に彼の名前が出てくることはありません。あくまでも彼は、月見真が日和颯という人物だけに囚われていたわけではなく、ただ一人の人間としてあったことを語るためのキャラクターだからです。そして、彼が月見真にとって重要な役割を為さないからそう描いたのではなく、彼と居るよりも先の未来、日和颯と出会った月見真が彼の知る人ではなくなりつつあったから「連絡先を知らなかった」と続くわけです。

 私が解釈する日和颯と月見真の関係、もとい月見真から見た日和颯という人物は、ありていに言えば「ダークヒーロー」となります。比喩をするのなら「傷痕」。
 学生時代で既に「こわい」と評されていた日和颯ですが、月見真はそんな彼が居なくなったことに「さびしい」という感情を抱いていました。
 ただ、思い返すにはあまりにも苦いような、酸っぱいような味がする。ただの友達だったのであれば、写真を見た時に青ざめることもない。しかし、ただの"こわい"友達であったのなら、思い出を語る時に「寂しい」なんて言うはずもなければ、「彼ならこうする」と考えることもできない。
 対等な関係ではなかったのかもしれませんが、互い違いになって理解をし合える道があったからこそ、彼は「ヒヨリソウ」になりきったのです。

 2話の『居られなかった人』では、場面転換に合わせ、起こりえる可能性があった世界を提示しました。
 それが、月見真を「お兄ちゃん」と呼んで素っ気なく接するカンナと兄という役割に何故か馴染む「彼」の話になります。ただ、起こりえる可能性はありましたが、起こりえなかったのが作中の彼らです。
 本編ゲームに「ヒヨリソウ」として相対した実兄を「お兄ちゃん」と呼び親しむカンナもいなければ、普通の妹のようにカンナから振り回される彼もいません。なので、『居られなかった』というタイトルには「僕が側にいられなかった」という意味合いも込められています。
 2話の二人はあえて「普通の兄妹」として、作中やその他メディアミックスにおける二人とも全く異なる関係で描写しています。なぜなら、どれだけ異なっていたとしても、二人の間にある「保護者・被保護者」という前提は覆らないからです。
 「過保護にもなる」「子どもだよまだ」という兄らしい言葉には、普通だったらそう出来たはずなのにできなかったこと、しかし言わずとも「彼」は妹を大事にしていたことを表しています。
 そんな兄としての役割をこなしていた「彼」でしたが、「彼」はここでもカンナから気を遣われます。それは彼らが「"普通"の兄妹」としてある道でも根底は変わらない、変えようがないことを示すためです。  
 そうして、変えようがないストーリーの中で「ヒヨリソウ」となった「彼」の終着点、目指す地点がどこだったのか、に帰結します。

 最終話、『僕になれなかった人』は文字通り、「僕」になれなかった人──日和颯と、日和颯を騙っても自分を捨てきれなかった月見真をさしています。
 「日和颯を騙っていた月見真」は、日和颯があの日置いていった月見真とは異なる存在です。しかし、彼が「ボク」という呼称にどれだけかつての友達を落とし込んでも、月見真としてある彼の生来の優しさは潰えることはありません。また、どれだけ日和颯が過去の月見真を夢想しても、あの日置いていった月見真は、AIのように彼だけを慕ってはくれません。

 日和颯が消えた日を境にして、彼らは収束する場所を永遠に失いました。失った郷愁には、友達という名の居場所も歪な保護者・被保護者のような関係性も残っていません。
 だからこそ、ヒヨリソウはかつての友達に最期のお別れを伝えたかった。月見真のままではなし得なかった未来、関係である今だからこそ、対等な友達として、一方通行なままだった関係を精算するために渡した捨て台詞が「兄さんみたい」だった、という話です。

 理想の「ボク」には結局なれなかった。しかし、理想にはなれなくたって、話をすることはできた。
 悪態に混ぜた彼の本心が、日和颯を融かす拠り所になれたなら──。
 彼らは今度こそ、友達で居られるかもしれない。
 それが"ボクになれなかった"二人の終幕です。


 鯖缶



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