ベーシックインカムを保証として捉えるか、お小遣いとして捉えるか

https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2020/05/post-93377.php

フィンランドでベーシックインカムの社会実験が2年に渡って実施され、その最終報告書が提出された。

自分の私見も踏まえつつ言うと、そもそもベーシックインカムは、失業者や低所得者を中心とした制度設計になっている。

たとえばアルバイトで必死に生活費を工面する人がいたとして、その人に向けて最低限の生活保障費用を国が負担する。すると、いままでギリギリの給料で切り詰めて生活していたのが、多少改善され、ある程度の贅沢が出来るようになり、心も充足される、というものだ。

その補償額はだいたい6〜8万円くらいが妥当なラインとされている。実際フィンランドの実験では約6万円程度の支給だった。イタリアでは6〜7万、日本でも7万円程度が支給額として考案されている。

どれほどの金額なら生活の保証が出来て、心が満たされた生活ができるのか、という論点については、人の価値観や地域性によってだいぶ異なるため、難しいところはある。

その辺は経済学者に任せるとして、経済的な救済という以外に、ポイントになることがある。

それは、そのベーシックインカムとはそもそも、「保証」であるべきなのか、それとも「国からの「お小遣い」とするべきなのか、ということだ。

難しいことは僕はわからない。けど、自分に置き換えて考えた時に、どっちで捉えるか、というので随分と変わってくる。

まず、最低限の生活ができる額を保証しますよと言われると、すごく守られてる気がする。たとえば月7万もらえたとすると、今の社会保障制度を前提に考えると、たとえば風邪をひいたときの病院の自己負担金とか、毎月の食費、光熱費、携帯代くらいは賄える。文明らしい生活をするための活動だ。保証、という響きだと、そういうものにお金を使う意識が働く。

一方で、このお金をお小遣いとして捉えると、これで好きなもの買え!と言われているわけで、何して遊ぼうかなー!という気になる。7万もあれば、1泊2日の旅行もできるし、高級レストランもいける。毎月の飲み会の足しとしては十分な額になる。とにかく、贅沢やリフレッシュに使うことになる

低所得者や貧困層においても、こういう意識の違いは働くと思う。いま最低限の収入でなんとか生活してる人が7万円を手にしたら、保証として捉えて「これで明日も生きられる」と考えるか、お小遣いとして捉えて「自分でも贅沢ができるんだ」と考えるかで、お金の使い方がだいぶ変わる。

これは、僕の持論だが、どっちが良いかという答えは、お小遣いとして捉えたほうが幸せだと思う。

わかりやすい例で例えると、もしあなたが家族を連れてコストコにいったとする。そこで、ついつい楽しくて、1万円くらい消費したとする。

この1万円を、生活費として捉えるか、娯楽費として捉えるかで、この金額の価値が変わる。

生活費として捉えると、ああこんなに無駄に買ってしまった、となるわけで、ちょっと損した気分になる。生活費というのは節約するのが美徳だという意識があり、もらったお金を使おうとしたら、もっと安いものを買えば色んなものが買えるのに、と後悔してしまう。

一方、コストコで家族と楽しい時間を過ごせた!と、ディズニーランドに行ったような気分で捉え、購入した1万円の消費を、エンターテインメントとして捉えることができる。そう考えると、安いものではないだろうか。

消費したお金を、勘定科目の何につけるかによって、心の持ち用はだいぶ変わってくる。

生活費に充てようとする保証として考えてしまうと、そのお金をなんとか節約して工面して使おうと考えてしまう。それだと、心の充足は満たされない。

お小遣いとして使い、贅沢に使ってくださいと言われたら、経済にお金が回ることにもなるし、心も充足する。

贅沢することがなければ、寄付すればいいし、社会活動にあててもいい。

ベーシックインカムを社会保障制度として捉えてしまうと、きっとそういう節約の意識が働き、お金を窮屈に捉えてしまう。それだったら、これは皆さんにお小遣いです!旅行や買い物、レジャーに好きに使ってください!というほうが、素敵なベーシックインカムになるのではないだろうか。




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