人の分け方

これまでは「男」と「女」だったり「日本人」と「外国人」だったり他人や自分自身についてどういう人間か?を見るときにカテゴライズに分けることは簡単だった。例えば男だから男と言われたらそうだと即答でき、女だから女として扱われてなにも疑問を抱かない、そのぐらい簡単だった。だが簡単だったのは自分がそう分類されて生きていることに困ったことがないからだ。困らない人間以外の人間はどこかテレビの中の存在で、マイノリティーは長らく「どこかには居ても同じ空気は吸っていない」ことになっていた。それがここ数年でいろんな人がどんな人間で居ても良くなってきて、まだ市民権を得るには遠いが昔よりは随分と世界は優しくなった。
そんな人への分類に優しくなった世の中で、私の中に存在する人のカテゴライズについて書きたい。なぜならば、人へのカテゴリを増やして増やして自分たちのしっくりくる居場所を作ろうとしているのが今の世の中なのだが、自分のカテゴリを見つけたとしてもそこからズレたときにまた、ジレンマに苦しみ存在への名札を全部捨て最初から始める世の中にもなっていきそうだから、書けるなら今しかないなと思ったからだ。

野球で例えると
サッカー人気の高い地域に生まれてまわりの人間も家族も熱狂的サッカーファンで本人もサッカーがそれなりに好きだったが友達と行った野球の試合を見て野球にハマり家族には言い出し辛くてサッカーを見てるときも野球のこと考えてしまってまわりに合わせるために隠れて野球ファンやっていたがある日カミングアウトしたら「野球もいいよな。今度誘ってよ」とわりかし好意的に受け取られて(今ここ)よかったーと思って野球を積極的に見るようになり野球の中でも阪神タイガースが好きだなとたどり着き阪神ファンとしてゴリゴリに生きてたら読売ジャイアンツの選手に沼ってしまってまわりの阪神ファン仲間には言い出せず隠れキリシタンみたいになっていく、そしてたどり着く先は「満遍なく見る野球好き」そしてまたどこかの球団を好きになって居着くかもしくはサッカーの良さにそこで初めて気づいたり、他のスポーツやカルチャーを好きになる。そんなことが繰り返されていく。自分は青に生まれたが赤だと思いこんで生きてきて、青い全身を赤で塗りつぶしてみたが「これは自分じゃなかった」と思う。だが青い自分の姿が偽物だと感じていた気持ちは本当で、嘘の反対は真ではなくて。そんな自分の色を探す旅を繰り返すのだ。

話はそれたが私が語りたい人間の区分け方は「芸術家の地域の住人」「デザイナーの地域の住人」「ユーザーの地域の住人」の三種類だ。わかりやすく説明するためにこの名称を使っていくのでこの三種類の名称元が今から説明することを常に内包しているわけではないことを書いておきたい。

まずは一本の線を想像してみてほしい。左の端にあるのが「芸術家の地域」で右の端にあるのが「ユーザーの地域」で、真ん中あたりにあるのが「デザイナーの地域」だ。そこに各々が住んでいる。その地域に生まれ育ちその地域から出ずに生涯を完結させる者もいれば引っ越しを繰り返し自分の住みやすい場所に行き着く人もいる。そんな感じだ。

さてまずはこの三種類の属性をバンジージャンプで例えるとしよう。

例えば東京の高層ビルにバンジージャンプが設置されていて誰でも安全に飛べるものとして

「やってみたいけど私がやっても誰も気にも止めないし私が飛ぶところなんて誰も求めてないよね」と悩むのがデザイナーの住人タイプ

「綱なしでバンジージャンプして奇跡的に助かったもののそれを越えるスリルや感動を味わえるバンジージャンプがないことに悔しがる」のが芸術家の住人タイプ

「バンジージャンプって吊橋効果あるかな?好きな子を誘って来てみようかな、とバンジージャンプを利用して成果を得ようとする」のがユーザーの住人タイプ

そんな感じ。
教室でデザイナーの住人か芸術家の住人がイラスト描いてると「絵、うまいね。なにか描いてよぉ」と絵を通してコミュニケーションを図ってくれるのがユーザーの住人。「そんなことないよwでもありがとう」ってはにかんでくるのがデザイナーの住人で「私は気に入ってないから」ってなぜか半ギレなのが芸術家の住人。

そんな感じ。ちなみに私は芸術家の住人に近いと自覚している。
普通に考えたら話しかけただけでなぜか半ギレの芸術家の住人に対してユーザーの住人は困惑だし意味不明だしなんなら怒っていい。しかし世の芸術家の住人タイプがガチギレされずに生き延びているのはデザイナーの住人のおかげであると思っている。デザイナーの住人の悩みはだいたいユーザータイプほどコミュ力高く社会に迎合しているわけでもなく、芸術家タイプほどその世界にのめり込んでいなくて、人の評価ばかりを気にしてしまうあたりだ。自分のやっていることで人に評価されたい、願わくば人に認められたい。だがそれを追い求めていくとキリがなくて、いっそ芸術家タイプのように人の評価なんか気にせず自分の納得いくものを作ることに熱を向けられたら…そんな嫉妬心と己への失望感を抱きながらユーザータイプと芸術家タイプの両方を羨ましく思っているのがデザイナーの住人なのである。
だがしかしこちらからしたらデザイナーの住人はハイブリットで高スペックな人間だ。だってどっちの世界の住人のことも理解してくれるのだからこんなに素晴らしいことはない。

映画=ゲンドウスタイルでスクリーンガン見してテーマや意味合いを汲み取りわからない部分があれば調べて二回目を観に来るもの。

という芸術家タイプと

映画=デートスポット。

というユーザータイプ。

「イケメン俳優出ててかわいかった〜。めっちゃ泣けた」と語るユーザータイプと「イケメン使っとけばいいお涙頂戴映画ばっかり作るせいで映画の質が落ちたわ、黒澤明は生まれん」と語る芸術家タイプ。

世界がこの二種類の人間だけならばユーザータイプの愛想笑いと芸術家タイプの奇声で混沌しか生まれない。この2つの住人が同じ社会で生きてこれるのはこの2つをうまいこと融和させてくれているデザイナータイプのおかげである。
言ってること意味わからん人間と言ってることが浅い人間に挟まれたデザイナーの住人、結局はこの人たちが世の中を上手く回してくれているのだからもっと大切にしようと常日頃から思っている。私はここ数年頑張ってユーザータイプの気持ちもわかろうとユーザー地域に近いデザイナー地域に住んでいたが、なんか違った。なのでまた住みやすい地域を探して芸術家の地域周辺の物件を探そうと思う。ここからまた巣穴を作るのだ。
2022年は自分の住処を見つけたい。

なにを語ろうとしたのかもはや忘れた。
ただ、どんな属性を持って生まれようともどんな土地でどんな属性として生きて、いつまでそこで生きるのかは自由だ。
そんなことを言いたかった。

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