二人の監督

2021年11月4日。
同じ日に二人のNPB監督が始動した。
かたやミスタードラゴンズこと立浪和義さん。
かたや球界の大スター新庄剛志さん。
伝説と呼ばれる選手も怪物と呼ばれる選手もいる球界で後にも先にも立浪和義以上のミスタードラゴンズを名乗れる人間はおらず、また新庄剛志のようにスターという存在を華やかに着飾れる人間もいない。双方とも唯一無二の存在だ。
就任当初から選手に対して「髪を切って黒髪にしてヒゲも剃ってください」と号令を出し些か時代遅れではないのか?という声が聞こえた立浪監督と赤いスーツに襟を立てて自らをBIGBOSSと名乗り型破りな就任会見を行った新庄剛志監督。
正反対のようでいてとても似ている二人が監督になったニュースを見て私は面白くなってきたなとときめいた。この二人が同時に監督になったことがどうして面白く感じたのかをつらつらと書いていきたい。なお、私はこの二人のファンというわけではないのでそれほど詳しくはない。本来であれば隅々まで二人についての情報を調べあげてから執筆をしていくことが筋なのだが、今回は漠然としたイメージで二人の監督を語りたいのでここ数日のネットニュースを読むぐらいに情報収集は抑えた。では、語っていく。


監督は球団のリーダーであり見える部分にいるトップなのだから、まずは現代の望むリーダー像から考えていきたい。コロナ禍で顕著になったものは個々人の価値観や行政の限界など数多くあるが、その中に「リーダーへの飢え」があった。各都道府県の首長や国の長である総理大臣に向ける人々の目は「信望」であったり「疑念」であったり「悪魔」を見る目であったり「聖人君子」を見る目であったりと多種多様であった。そしてその目のひとつひとつには強いリーダーへの飢えがあった。自分たちを生かし慈しみ良き方向に先導し自分たちのために、未来のために身を犠牲にしてすべてを背負ってくれて、体も心も壊さずに役目を終えるまではマトモな思考回路をしている、そんなリーダーがほしい。頭脳も精神力も経済力も体力も、化け物級でないと無理な話なのだが人並みのことで人並みに情を持つかっこいいリーダーをひたすらに求めた。数多の人間の生活が根底から崩されないように先を見据えつつ民を操縦し現状を生かさなければいけなかった。コロナ禍の日本国内だけでもどんなリーダーが注目され衰退し注目されず評価もされなかったのかはそれを見てきた現代人が一番よくわかっていることだろうと思う。

つまり私がなにを言いたいか

リーダー決めるって大変なのよ

プロ野球の監督は役人じゃないから民のことは背負ってはいないけど、それでも選手の生活もコーチの生活もスタッフの生活も背負っている。勝利が重なりいい結果になれば観客も増え街に活気も出てくる。負けが続けば客足も途絶え批判を受け続けることになる。そういう立場のリーダーだ。チームを勝たせなければいけない、ファンの気持ちも考えなければいけない、球界の人間関係も考えなければいけない。親会社のこともタニマチのことも考えなければいけない。そういった一見して面倒臭いものすべてを頭に入れて期待され選ばれたのがファイターズにとっては新庄剛志だったしドラゴンズにとっては立浪和義だった。


立浪監督は選手たちに言った「最後にもう一つ。今日から気持ちがいいあいさつをできるように。ドラゴンズの選手はしっかりあいさつができるな、と思われるように。そこもしっかり徹底してください」
新庄剛志監督は選手たちに言った「やっぱり人間性というものは大事。人の悪口を言わない、いただきます、ありがとうございました、を言える選手を育てていきたい」

キャラクターの違う二人だが、言っていることは似ていた。
当たり前のことを当たり前にできない、礼節や義理というものがわかっていないと
「相手に舐められる」

「相手を舐めていると思われる」
そのどちらかだ。

立浪さんは選手時代に故星野監督にそういったものを教えられてきたのだろうと思った。立浪さんが引退されて解説者をする際にテレビ局の関係者に喋るのが仕事になるのでそれを勉強できる本はないか?と聞いたと聞く。そんなことを聞いてくる人は立浪さん以外にはいなかった。立浪さんはアナウンサーのような喋る仕事も舐めてかかっていなかったし自分の解説を聞く視聴者にも敬意を払っていた。選手がテレビ放送の録画を見て勉強していると聞くと、選手に対するアドバイスを口にした。怖いイメージが先行するけれど、ドラゴンズの監督になった人はそういう人間だ。


新庄剛志はスターであり続けるためにただただ目立ちたがり屋なだけの人間でいるわけにはいかなかった。目立つというのは光り輝いているだけのようでいて、これほど悪意や敵意のターゲットになりやすいものはない。スターであり自由であり新庄で居続けるためには普通の人が面倒くさくて置き去りにするものをひとつひとつ大切にして敬意を払って、そうして生き残ってきた。上辺だけ真似た目立ちたいだけの人間は誰も第2の新庄剛志にはなれなかった。


「負けたのは選手の責任じゃなくて俺が悪い」
各球団で使い古されてきたフレーズだからもうこの言葉では責任を背負うことは難しい。

髪型もヒゲもルールを決め選手に対して厳しく規律を定めた。
だから負けが込んだら「監督が厳しくしたせい」「時代に合わないことをしたからだ」となる。

就任会見に派手な格好で現れて選手よりも目立った。
だから負けが込んだら「監督が遊び半分だから」「派手なことより勝てよ」となる。

「背負うから、野球選手としてやれることやりなさい」

厳しいのも目立つのも、きっとそういうことだ。

私には、このチームもキャラクターも違う二人の監督が、監督というものを同じように背負ってそれぞれのやり方でやっていこうとしているように見えた。

だから、楽しみだ。


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