サムデイズーある日の出来事

第8話

最寄の駅から会場までは、すでに長蛇の列が続いていた。シークレット・サービスや警備員の数が多すぎるような気もしたが、セレブリティたちが乗るブラック・キャブの数を見て納得した。

バレエ界に彗星のごとく現れたという健人・ブリオン少年のニューイヤー公演である。詰め掛けた多くのマスコミは、その今だ明かされない彼の素顔をこぞって暴こうとやっきになっているようだった。

厳重すぎる手荷物検査を受け、ホール内に入った。目に飛び込んだのは、タイムスリップしたかのような豪華な室内装飾と客の姿である。最新のオートクチュールのイブニング・ドレスを着た女性と、燕尾服の男性がオペラグラスを持って一段と高い座席から舞台を見おろす。有名俳優や演出家の姿もちらほら見える。若い演出家は、このホールに備えられた最新の音響設備と舞台装置について、熱心に薀蓄を語っている。

オーケストラの音というものは、奏でられて客席に届くまでに、さまざまなもので吸収されてしまうため、ホール内部や備えられているあらゆるものすべてに、音の反射を促して、観客席に届くような材質が使われている。

舞台装置や照明は、コンピュータで制御され、プリマと相手役が二人で踊るパ・ド・ドゥや、コール・ド・バレエのように多人数で踊るものまでに広範囲に可動し、効果的な照明があてられるということだった。

座席はほぼ満員だ。空席がいくつかあるのは、転売屋から示されたチケットが高額すぎて、客が買うことを諦めたものと推測される。ニューイヤー公演のチケットは、すでに2500フランにまで跳ね上がっていた。

真紅のベルベットに金色の縁飾りのついた緞帳が滑らかに上がる。開演である。バレエの演目の中でもひときわ豪華で、さらにエトワールの超技巧がふくまれる「白鳥の湖」。

青い目の人形のような男女たちが、ジークフリート王子の誕生日を祝い、優美に踊る。実の母の女王から、早急に妃を選ぶようにといわれた王子。気分を変えようと散歩に出かけた湖で、運命のオデット姫(白鳥)と出会う。自分を陥れる悪魔との闘いに臨む王子は勝利し、晴れて姫と結ばれる。

白鳥のオデット役を演じたエトワールの華麗な演技力と技術力、そしてそれを支えたソリスト、そしてすべてのダンサーたちに万感の拍手が贈られた。

そんなステージとは対照的に、会場周辺は警備員や警察官でものものしい。彼らは警察無線でやり取りを続けながら、鋭い視線をホール全体に投げかける。静謐があたりを漂う。生殺与奪の権限すべては、芸事にまつわる守護神にあるといっていい。

第二部「ボレロ」の幕が上がる。

私は思わず身震いをした。

少年は半眼で、深黒というコスチュームを身に纏っている。

物の怪たちに扮したバック・ダンサーの挑発にも全く動じる様子はない。

三拍子に三連符を多用したスネアドラムのリズムは、ファナティックな舞台へと観るものを導く。

フルートそしてクラリネットが主旋律を吹き始めた。それに続きピッコロやファゴット、オーボエ、コーラングエといった木管楽器が続く。彼らの演奏技法アンブシュアは、この日のために、といっていいくらいに楽譜に忠実で、すべてが精確だ。天上の御使いたちへの貢物のようなハープの音色。さらにチェレスタは高音を響かせ、のちに続く金管楽器たちを目覚めさせる。トランペット、アルトサックス、ホルン、チューバ、トロンボーンたちは、未知なる天上界へと我々をいざなう。

突如、一本の光の筋が真上から現れた。悪魔との格闘に勝利したと思われる少年は一転、眩い光明に照らされた。

ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスなどの弦楽器の音は、光の波長と相まってフィナーレに続く協和音を高らかに奏で始める。

正気と狂気、真実と虚構、偽善と偽悪のあらゆる矛盾がはびこるこの世に別れを告げる少年。彼のはるか頭上、天の御座には創造主がおられ、治下の為政者や臣民たちに強い御怒りを示す。

(なぜ目の中のちりを取ろうともせず、お前たちが思う世界だけが真実であるというのか。なぜ真理は闇の中へと葬り去り、白日のもとに晒すことをしないのか。お前たちはすべてを知っているというが、何も知りえてはいない。私はお前たちが子々孫々繁栄するようにと心を配り、情けを掛けてきたが、時すでに遅し。私はこの世界を滅ぼす。お前たちやお前たちの子々孫々、二度と私の名前を口に出来ないように)

警備をしていた警察官の無線に、

「たった今、ルドリー空港が何者かによって爆破された」という知らせが入った瞬間、大音響とともに大爆発が起こった。

ドンセナ・ホールのエントランスではオレンジ色の火柱が上がった。ファサードの一部の窓ガラスは風圧で粉々に割れ、大量のガラスの破片が降った。出入り口にいた客や係員は爆風で吹き飛ばされ、動かなくなっていた。周囲の鉄柵は折れ曲がり、天井には大きな穴が開いた。いったい何が起きたのか分からなかったのだが、コンクリートの柱の鉄筋が中心まで切断されているのを見れば、かなり強力な爆弾が爆発した可能性があった。恐怖でパニックに陥った客は出入り口をめざして殺到した。二発目の爆弾が数メートル先のエレベータ付近で爆発した。崩れた柱と壁は、ホール自体の強度を脆弱なものにしていて、ここにいるのは危険だと察知した。舞台上の少年の姿は塵で視界を閉ざされ、伺い知ることはできない。

「おい!こっちだ!」誰かが自分を呼んだ。男の先には非常口らしき出口が見える。私は男に言われるままに、その方向に進んだ。階段を降り、怒号飛び交う外に出た。

「テツロウ、久しぶりだな」

行方不明だった”存在と時間”のマスター、ガド・ブラウンだった。

「ガド!なぜこんなところに!」

「詳しい話は後だ。とにかくこっちへ」

甲冑のように強固なボディアーマー、腰には御太刀のような自動拳銃を帯びている。彼は私の身体に触れ、「ケガはしていないようだな」と淡々といった。

救急車のけたたましい音と、泣き声、悲鳴でドンセナ・ホールは騒然としていた。私は訳が分からず、ただ呆然とガドを見た。彼は以前の彼ではなかった。こんな大きな事件に遭遇しても、どこか泰然としていて落ち着いている。いったい彼の身になにがあったというのだろう。 

「ガド、今までどこで何を?」

私はガドと再会できた喜びより、彼の変貌ぶりが気になった。

「ずっとロンドンにいた」彼はいった。

その深いグレーの瞳からガドの過去を探り当てようと、「”存在と時間”であった殺人事件のことは?」とたたみかけるように聞いた。

「知っている。でもやったのは俺じゃない」

「だったら、なぜ逃げたりなど」

「逃げてはいない。セレーヌを殺した犯人を追っていた。そのうち本部から帰還命令が出てイギリスへ戻った」彼は瓦礫の一片を掴み放ると、こちらに向き直っていった。

「――本部?」

「ガド・ブラウンは偽名で、俺の本当の名は、ニール・マクドネル。イギリス秘密情報部のエージェントだ。”存在と時間”で諜報活動をしていたが、スパイから命をつけ狙われていた。フレーズは俺を庇って、健人・ブリオンの仲間に、殺された」

そしてガド、いや諜報工作員及びSCO(イギリス特殊部隊)の隊長、ニール・マクドネルは信じがたいことを私に告げた。

一昨年から続く、ロンドンでのテロ未遂事件や、ルドリー空港、そしてこのドンセナ・ホールの爆破すべてに、少年たちが関わっているかも知れないというのだ。

「何かの、冗談だろう?」

私はいった。

「冗談だというのなら」ニールはドンセナ・ホールの大ホールがあった場所を指差す。

瓦礫の奥の、今まさに崩れようとしている舞台には彼が、その傍らには青白い顔をした女が立っている。さきほどのステージで白鳥スワンを踊ったエトワールだった。

二人はサブ・マシンガンを持ち、腰には自爆するための爆薬らしきものを帯びている。SCOの一部はホリゾント幕や、スノコと呼ばれる舞台の天井の隅々にすでに配備されていた。

「彼らは、神との合一により、その奥義を体現するという宗教組織の構成員だ。異端扱いを受けて迫害された彼らゆえの、報復だろう。よくある話だ」そういうとニールは自動拳銃のトリガーに指を掛けた。

「待ってくれ。彼らには何か事情があるにちがいない。少し話をさせてくれないか?」私はいった。

「説得するだけ無駄だぜ。語りえぬものには、沈黙をしなければならないと考える俺たちと、神を妄信する彼らに、妥協点など見つかるはずがない」

「彼らにこの事件を引き起こした理由があるのかも知れない。私はそれを知りたい」

「われわれは国家の威信と国民の安全のために命を掛けてやっている。そこに情けは一切、必要はない」私は彼の持つトリガーに触れる指から視線は離さずに、そして少年の方に向き直り、いった。

「テツロウっ!撃たれたいのかっ!」ニールは私を制止しようと叫んだ。

「健人・ブリオン-田口。君は、この自然界に起こるあらゆる事象や法則を、君たち自身の勝手なふるまいで、壊そうとするつもりか?」SCOたちは、じりじりと少年たちに近づく。

「『この世界には絶対などない。科学者に必要なことは、この大いなる自然界から謙虚に、そして実直に何かを学ぶという姿勢である』亡くなった君の父である田口博士の言葉だ。もちろん君は覚えているだろう?」少年の顔色がわずかに変わる。

「なぜ、僕の父のことを――」

「大量破壊兵器の転用に物理学が利用されることに反対を唱えたことで、田口博士は殺された。君はそんな容赦ないナショナリズムに対して復讐を誓い、テロを実行した。そうだね?」私は瓦礫の上をゆっくりと歩く。

瞬きすらせず真っ直ぐに少年を見据える。彼が構えるサブ・マシンガンの銃口は、私の心臓のすぐ前の位置にある。

「近寄るな!それ以上近寄ったら、僕はあんたを、撃つ!!」

「君に引き金は引けない。君は私を撃つことはできない」
私は彼のサブ・マシンガンに軽く手を触れいった。

「絶対的な強い神のような存在にではなく、相対的で弱い立場の我々に目を向けておられた田口博士が、対立するものや敵対するものを言葉による対話ではなく、力によって排除しようとすることを果たして望むだろうか」

彼の目から一すじの涙がこぼれた。

「私はこの現実世界で、これからを生きて行く。対話によって。もちろん君も一緒に、だ」彼らはその場で身柄を拘束された。

「テツロウの言葉が、彼に銃を棄てさせるなんてな。お前良かったら、うちの隊に入らないか?厚待遇は保証はするぜ」ニールは皮肉な笑いを浮かべいった。   

(我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか)

飛行機内のテレビでは、印象派美術館のコマーシャルが流れていた。私はテレビで映し出されたゴーギャンの絵画「人間の生から死」をぼんやり見ていた。時折流れるニュースには、連続テロ事件の続報が流れた。初老のコメンテーターは(今の若者たちの考えていることがまったく理解できない)と憤っている。私の席の隣に座るアメリカ人のビジネスマンが寝付けのコニャックをひと口含んでいった。「ようやく人心地ついた。次回からはトランジットではなく、直行便を使うようにしよう。ところで、あなたの家は日本のどのあたりに?」

「神戸です。神戸はご存知ですか?」

「もちろん。私の故郷とともにどちらも美しい街だ。特に坂から見る夜景はあの町の夜景のように素晴らしいね」と彼は窓の外を指差した。東欧の小さな町だろうか、まるで無数の星が天上から落ちて街中にちりばめられたように、家々の灯りが淡く慎ましく瞬いている。私は窓に顔を押しあてた。夜間飛行の魅力は、こんな風に、誰かが星と見紛うほどの美しい町の灯りを見つけ、流れ星に祈るように、彼らの幸せを空から願うところにある。

おやすみ。よい夢を。明日もきっといい日になりますように。私はそう祈り、そして眠った。    

            ――完―――