サムデイズーある日の出来事

第3話

恐ろしく日の射さない下宿だった。夏でも洞穴のように寒々しく、外が天気かどうかは、隣の家の窓ガラスに光が当たっているかどうかでわかるほどだった。下宿人のベルギー人の画家は、「鉄格子がないだけまだまし」といい、ドイツ人の小説家は「我々の認識を超越して初めて、そこに無限の空間は与えられる」といった。その言葉はどちらも「住めば都」という意味らしかった。

画家は、焼栗を食べながら、「オルセー美術館に行ってみないか」とよく言っていた。私と小説家は揃って「行きたくない」と答える。印象派に興味がないというよりは、画家の薀蓄を聞かされるのにはうんざりだった。

画家セバスチャンはカルチェ・ラタンで観光客向けに似顔絵を描いていた。イタリアで生まれ育ったという彼はいつも陽気だった。金が尽きて野垂れ死ぬということは、自分の辞書にはないらしい。女性に声をかけることも生きがいだった。「僕はブグローと同じ国立高等美術学校で絵を学んだ。『パリの恋人』のようなあなたを一度描いてみたい」という文句ひとつで、彼のアトリエには、連日若い女性が次々と訪れた。画家は、モデルが一番綺麗に描いてほしいところと、コンプレックスを抱いているところを探る。印象派の人物像のように、肌の柔らかな質感と光の加減を描き出すことで短所は長所となり、モデルは晴れて「パリの恋人」となった。

いっぽうのドイツ人の小説家ラザファムは大学を出て、一旦は企業に就職したが、小説家の夢を捨てきれず会社を2年ほどで退職したという経緯がある。彼は朝起きるとすぐに物語を書き始め、空いた時間でさまざまな本を読み、夜にまた執筆をする。無口だったが、画家と違って、深く物事を考えるところや、知識欲が盛んであることが私と性に合っていた。時々彼から受ける哲学や論理学のレクチャーは、大学の講義よりははるかに分かりやすかった。

子どものいない下宿先の女主人カミーユは、若くして夫に先立たれ、一人でここを切り盛りしていた。下宿代を安くしてくれるかわりに、彼女が市場に食材を仕入れに行くときなどは我々三人が重たい荷物を肩に担いで帰った。カミーユはいつも『ラ・マルセイエーズ』を歌いながら料理を作る。予算が限られているときなどは、なたのような牛刀を振るい、もつ煮込みを作った。

「テツロウのお誕生日には、ショート・ロインのパイ包み焼きを作るわね」限られた予算で料理を作りふるまうのが生きがいらしい。

リオレと呼ばれる牛乳で煮込んだ甘い粥のようなデザートを作るときは、ラ・ヴィ・アン・ローズを歌った。私が話しかけると、返事にはメロディがついて返ってきた。その時の会話は二往復が限度だった。どちらからともなく噴き出して終わるからだ。

大学に入学してしばらくして、私は夏休み限定のアルバイトを探した。フランスもある一定の条件付きではあるが、学生ビザでも短期間のアルバイトが可能になった。クラスメートのジャンがボーイのバイトを20ユーロで紹介してくれた。少々高い気もしたが、背に腹は代えられない。バイト先のバーは、パラダイム・シフトにほど近く、ジャズ界隈と呼ばれるロンバール通りから一歩奥に入った裏通りにあった。

店の採用条件は、ポピュラー・ピアノが弾けることだった。幸い私は、幼い頃からピアニストの祖父から手ほどきを受けていたので、人に聴かせるぐらいの腕はあった。「存在と時間」という名前のバーだ。男は煙草をくわえながら私をちらっと見たあと、中に入るように目で促した。

「初めまして。ジャン・ダルコスの紹介で来ました。神威哲郎といいます。これは滞在許可証で、こちらがEDFです」

挨拶もそこそこに、許可証を見せた。フランスでのEDF(公共料金の領収書)は、IDカード以上の効力があると聞く。自分は日本から建築を学びに来ている大学生だと言うと、ふふんと口の端を上げて 「何か弾いてみろ」と男はいう。

スタンウエイのアップライト・ピアノは、プリペアド・ピアノのような堅い音色に調律されていた。その音の好みはオーナーの聴く音楽の即興的独奏カデンツァにも反映されているだろうと考えた私は、ガーシュインのラプソディ・イン・ブルーの独奏部分を弾く。彼は壁にもたれて目を閉じていた。

「なぜその曲にした」

「あなたを見ていたら、この曲が浮かんで来た」と言うと、男はくっくと笑って 

「今晩から店に出られるか」と早速聞いてきたので、一も二もなく「ウィ」と言った。男は続けて、「店番を頼みたい。たぶん今夜は客が来ても一組ぐらいだろうから、適当に飲ませて帰らせろ。借金取りが来たら、”オーナーはいない”と言ってくれ。何かあったらここに電話を」と畳み掛けるように言うと、自分の電話番号を書いた紙と、店のマスター・キーを置いて出て行った。

オーナーは、ガド・ブラウンと言い、ロンドン出身で年は29。それ以外のことは、何も分かっていない。初出勤にして、その晩私は一人で客をさばくことになったのだった。

「たまげたな。バーレー・ワインが全部、出ちまったのか?」

「あと、フィッシュ&チップスが5皿」

「いったいどんな客だ?まさかイギリスの国会議員団でも視察に来ていたのか?」ガドはてんで面白くない冗談をいった。

「王室のお忍びの客だったかも知れません」

自分も決して面白いと思えない冗談をいった。

「俺は客がどんな奴でも驚かない。驚くのは、本物の酒を、経費で落とさず自腹で飲む奴だ」

彼は、イギリスが発祥と言われる、エールの中でも一番高級なバーレー・ワイン(常温で10年程度熟成させた、度数も値段も高いビールのこと)を客が自腹で何本も頼んだことに驚いていた。私も初めて接客した相手が裕福な客で、十分すぎるほどのチップを弾んでくれたことが嬉しかった。身なりや振る舞いから、彼らはジェントルだった。

「で、いくらチップをもらったんだ?」

私はぎくっとした。3ユーロですよ、と言うとガドは、ふっ、と冷笑した。

「まあ、初めてにしてはもらえるだけ有難いとしなきゃな」

本当はその5倍の15ユーロだった。

私はその得たお金で早速、フランスでベストセラーの『イギリスにおける悪い癖―思考編』を買った。

たまにガドの機嫌が良い日もある。前の日の店の売り上げが良いのはもちろん、愛人のセレーヌが店にやって来る日だ。彼女に初めて会ったときから、私は一瞬で心を捕らえられた。

小猫のように光る大きな瞳、はにかむと赤くなる頬、細い首筋など、どれもが男の守護本能をかき立てた。柔らかな栗色の巻き毛は笑うたびに揺れる。ムスク・ローズの香り漂う、大きく開かれた胸の谷間には、男の視線を一瞬で吸い込んでしまうような、底知れぬブラックホールがあるようだった。

私が女性に対し、「虚栄心や利己心が渦巻く社会という谷底に突き落としでもしたらどうなってしまうのだろう」という歪んだ気持ちを持ったのも生まれて初めてのことだった。

夏休みが終わり、大学へ戻った。腑抜けのようになって講義を聞いた。ガドの三番目の女だという、セレーヌという女のことを思い出していた。彼女は決まって三日月の晩に店を訪れ、私の弾くピアノを聴いた。店が終わると彼女は私を月あかりの下に連れ出し、そっとキスをした。

「君の名前は?」

「……セレーヌ」

「セレーヌ。月の女神。素敵な名前だ」

「そう?月にまつわる名前が出てくる物語は、悲しい結末が多いから、自分の名前はあまり好きではないの。この名前をつけてくれた父とも、結局、生き別れたわ。日本に『かぐや姫』というおとぎ噺があるでしょう?」

「ああ」

「どう思う?」

「確かに悲しい結末だ」私は半ば諦めたようにいった。

「わたしもそのうち月にかえるかも知れないわ」

「絶対に、かえさない」私はセレーヌを強く抱き締めいった。

ガドに「セレーヌには近づくな」といわれればいわれるほど私の行動は大胆になっていく。彼女が喜ぶことは何でもしてあげたかったし、するつもりだった。愛のことばが欲しいときは必要なことばを。名前を刻んだリングをプレゼントもした。空に昇る三日月を指輪の上に乗せて、月の指輪だと、はしゃいでいたセレーヌ。

私は彼女とどうにかして一緒に暮らせないものかと、一人もんもんと想いわずらう日々が続いた。

ある夜、下宿に戻ると、画家が待っていた。

「行こう」画家は言った。

「どこに」私は不審がった。

「まあ、ついてこいよ」

街に出た。人通りの多いシテ島からセーヌ河にかかるアルコル橋を渡り、ライトアップされたノートル・ダム大聖堂の前に出た。

ゴシック建築のこの寺院はフランス革命後、自由を望む市民により、破壊と略奪が繰り返されて来た悲劇の教会として名高い。歴史や自然知に対する畏怖など、人間のエゴの前では、なす術もない。「いったいどこまで行く気だ」苛立ち、前を歩く画家の背中に叫んだ。

見ろ、と画家はほの暗い公園の街灯の下を目で促した。

セレーヌだった。

だらしなく太って、いかにも成金風の男と一緒だ。彼女の目は虚ろだった。

「どうやら、コカイン中毒のようだ。手を引いたほうがいい」

画家は淡々と私に事実を告げた。虚栄心や利己心が渦巻く社会という谷底に、すでに落ちてしまった彼女の前にはただ、崩壊という地獄が待つのみだった。質屋にむかった。

画家は「見覚えがあるだろう?」といった。私が彼女に贈った金の指輪が薄暗いショーケースの隅に置かれている。

「どう思う?」画家はいった。

「どうって?」

「君の気持ちさ」

「なんとも思わないね。カネに換えたきゃ換えたらいい」言葉とは裏腹に、どこかにつかまっていないと気を失って倒れそうだった。

「心が広いな」

「彼女に贈ったものだ。何をしようと彼女の勝手だ」

「つくづくおめでたい奴だな、君は」

「じゃあ、なんていえば君は納得するんだ?」私はいった。

「『今すぐ目の前のショーウインドーのガラスをけ破り、並べてある指輪を取り出して、情けない自分もろとも炉の中に放り込みたい気持ちだ』だろ?」画家は私の肩をぽんと叩いていった。

「くだらん。帰ろう」

目の前の景色はどんどん歪んで足もとはおぼつかなくなり、私はその場に座り込んだ。そして目からは次々と涙が溢れ出て石畳を濡らした。まったくの茶番劇だった。