使命とは

昔からこう思う時がある。

「自分にはきっとすごい力がある」

‥と。

〝きっとこのスポーツでとんでもない選手になって脚光を浴びることになる。〟

そして、ある時気づく。ただの妄想だったと。

〝きっとこの仕事ですごいことを成し遂げることになる。〟

ある時気づく。自分はそんなにすごくないと。

何かを始めるときに必ず〝自分自身に過度な期待をしてしまう〟

それは、自分が生まれた意味を追求しているからなのだと思っていた。
自分が生きているのは、きっと何か意味があるはずだ。この出会いは、この経験は、必ず意味があり自分には〝自分にしか成しえない使命がある〟そう思っていた。

最近、子育てで悩んでいた。

「ウチの子は発達障害かもしれない。」

思い当たる節は数多くある。

色々な文献を読んでみた。

そして、いくつか行動に移した。

ある程度の成果も見えてきた。

「そうか。オレは自分の子どもを導くために生まれてきたんだ。」

親としての使命感は確信に変わり、やる気が湧き上がる感覚を覚えた。

そして、発達障害について学ぶことに強い意欲と、やりがいを感じてきた。

そして気づいた。

自分自身がADHDなのかもしれない。。。と。

子育てのために勉強すればするほど、自分がよく当てはまる。当てはまり過ぎて笑えるほど。

子どものための勉強は自分を見つめ直すきっかけになった。

今思えば昔から自分の思考はこうだ。

「自分は〝何かしらのすごい者〟になるべく生まれた」と言う万能感。
その感覚で全ての思考が動き出して、脳内でひも付けが始まる。

「理解されないのは、みんなが〝普通〟で自分の思考は高いレベルの一部の者にしか理解ができないから仕方がない。〝普通程度〟ではダメ。ならば自分は〝変態〟でいい。」

自分のことを〝変態〟と位置付けていた。
他人を否定するのではなく、自分を少し高い位に脳内で持ち上げて、周りが嫉妬しないように自分に〝変態というレッテル〟を貼り付けていた。

使命なんてものはそもそも存在せず

あるのは自分が生きているという事実。

「誰かのために」はいつも動機のどこかに「自分のために」が存在する。

だから、自分のために自分の命を悔いのないよう燃焼し、その結果周囲にもたらす影響が〝悪く〟ならないよう、行動に矜持を持たなければいけない。と思った。

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