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妄想爺のとんでも史観 (14) 前方後円墳

妄想爺のとんでも史観 (14)

 前方後円墳

 奈良盆地の湖と湿地帯を穀倉地帯にすべく、大和川を常に難波や瀬戸内海へと流れる川にする。
 湖か湿地帯か草むらか分からないところを、稲(米)や麦、豆、ヒエや粟が収穫できる田畑に変えていく。流通や人の流れが出来る運河をつくる。
 人手が要ります。周りの村や国から沢山の人がやって来ます。交易も盛んになります。
 主に、若狭や越の国から琵琶湖、巨椋池(昔京都南部にあった湖)からの人。出雲や丹後の人は、丹波経由かな?岡山吉備方面からは、淀川を遡り途中から南下。
 そして、一番多くやって来たのは尾張や東海からの人たち。周辺の集落跡から発掘される土器で一番多いのは、その尾張東海地方のそれだそうです。
 亀の瀬を低くし、雨水を常時流す土木工事を担ったグループ。湿地帯へ舟路となる運河を縦横に作るグループ。運河と運河の間を圃場整備するグループ。
 出身地とか、話す言葉の似通った者同士が繋がり、公共事業による大経済都市圏が出来上がって行った気がするのです。
 各地の産物を持ち寄っては、工事関係者へ供与し、完成時の見返りを約束して貰う。
 各地の女性も集まった事でしょう。お酒も造られた事でしょう。可愛い娘さんによる”あんじあんじ”酒。私だって欲しいです。
 それが3世紀の初めごろの事でしょうか?

 沼や湖が干上がると、そこの土地は真っ平でしょうか? 見た目は平らでも堅い所と柔らかい所があります。
 低い所へ高い所の土を持ってきて、平らにしようとしてはいけません。
 埋めた土はそう簡単には堅くなりません。削った高い所の土は直ぐには植物は育ちません。
 表土を集めておいて、高い所を削って行く。出来るだけ低い所に合わせる。暫くは土が硬くなるまで待ちます、何年も。その後表土を戻し、植物栽培が出来るようにしていきます。
 大きな、広い土地の高低差を、水路を走る船を基準に揃えなければ、流通が滞ってしまいます。
 土が余る。どうしよう。集めて置いておこう。丸い山、四角い山。色んな所からの出身者が、馴染みのある形を組み合わせたりします。
 その内、丸い山と四角い山を会わせ、山の斜面に石を張り付けたり。これは崩落防止と補強かな?日の光りが当たると輝き、目印にもなります。
 四角い山の上をテーブル状にして、広い場所を作ります。
 話し合い。宴会。交易場所。大雨の時の避難場所。多目的広場。
 これが前方後円墳。
 ちなみに全国にある4.5000か所の前方後円墳の内、誰かが埋葬されているのは約半分しかありません。
 墓として作ったと言うより、後で丸い方を墓にした。って言うことでしょうか。

 ああでもないこうでもない、試行錯誤を繰り返し、意見の調整をして、トラブルが起きれば仲介を取り、宥めすかし、褒め称え、酒を酌み交わし、女をあてがい、全体を見据え、細部を確認する。
 場所々のリーダー。調整役で厳しくて優しかったリーダー。その人を丸い方へ埋葬し、事あるごとに集まり感謝し、みんなで飲み食いする、前方後円墳。
 各リーダーの中のリーダー。大王おおきみ と呼ばれる様な人物や組織。 それが、物部氏だったと思うのです。後の天皇、皇室と関わりはあるものの、そのものではありません。
 そんな国作りを数年数十年続けていれば、「うちにも来て。」っていう村や国が出ますよね。
 河川整備、耕作地開拓、人心掌握、農事暦の発表、きまりやルールを経験談で教え、取り締まりの為の力を持ち、、、、国の形と仕組み作りが前歩後円墳と共に、広まって行ったと思います。
 大和朝廷による全国統一、、、、、、じゃなく、呼んでくれるところへ行った。
 海を渡り、半島南部にいくつものそれがありますが、彼の地の方々は認めていないようです。

 そういった物を作った人達は、交易も兼ねて貰った物を他の場所で交易したりしても、富の蓄積は一族の派遣費用で飛び、食物備蓄は災害時の為に常に必要で、現代の金持ちの感覚では無いと思うのです。
 一番の宝は、人だったと思います。

ではまた、お会いしましょう。
ごきげんよう。
やまとやじろべえでした。

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