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私はインドカレー屋さん(概念としての)になりたい

こんにちは。
あなたの人生のエキストラ、よくいる佐藤です。ライスよりナン派です。

澱【よどみ、おり】

私は仕事でよく人と話す。
まあまあ色々なことを考えながら話す。

単語や語尾のチョイス、内容の正確性、自然なヨイショの挿入、時間管理、あの漫画の続き、気になる子とのLINEなど、雑念も含めて色々考えている。

それを繰り返していくと心の底に何かが溜まる実感がある。
私はそれを「日本的サラリーマンの澱」と名づけた。
今名づけたので明日には忘れているだろう。

異国情緒とサービス精神

自宅の近くにも職場の近くにもインドカレー屋さんが複数ある。

私は「日本的サラリーマンの澱」が溜まるとそのどれかにふらっと立ち寄ることにしている。

店内はガラガラであることが多い。

昼時に入っても客が自分1人なんてことはザラだ。意図せず作られた孤独な空間は人に疲れた私を癒してくれる。一方でガラガラ過ぎて心配にもなる。

そして店員さんの数が多い。

過去に4卓しかない店で私がいる以外の卓全てに店員さん(とその家族?)が鎮座して知らない言語で話していたこともあった。もうほぼ海外じゃん。
確かにガラガラではないが……それはそれで人件費とか心配になる。

インドカレー屋さんと言えばナンだ。
専用の釜で焼くナンは大抵の場合でっかい。
そんなでっかいナンなのにおかわり自由だったりして、なんとか1枚食べ終えようとすると

「ナンのオカワリ、イカガデスカ?」

と聞いてくれる。
インドカレー屋さんにも色々あるがこれだけはどの店も確実に共通している。
帰納法的に考えれば、これがインドカレー屋さんの本質なのかもしれない。

一方で接客は適当なことも少なくない。

店によっては、調理以外はテレビを見たり本を読んだり子どもと遊んだりしている。
本当にやることがないと私が食事をしている様子をひたすら笑顔で眺めて来たりする。

つまり、インドカレー屋さんは
「客のお腹をインド料理で満たす」
というところにサービスのステータスを全振りしていると言える。

インドカレー屋さん(概念としての)

日本では完璧を求める人が多い。
とかカッコつけてみたが、海外経験はほぼ無いので、そのあたり日本が特別かは分からない。
少なくとも私の周りでは、特に自分自身に対して完璧を求める人が多いように思う。

何かを完璧にするというのは容易ではない。

だからこそ本質を見極めてそこに全振りすることは有効なのだ。
それは結果としてただ完璧を目指すよりも少ない労力で、強い目的意識を忘れないまま、完璧っぽい形を成してくれる。少し頑張ったあなたを、パッと見かなり頑張った人、あるいは優秀な人にしてくれる。

お客さんのお腹を満たすことに全てを注げば、実はネパール出身でも、日本語が辿々しくても、立派なインドカレー屋さんになれるのだ。

最後に

日本的サラリーマンの澱に私の心が飲み込まれそうな時、逃げるように立ち寄ったインドカレー屋さんでネパール人のお兄さんが言ってくれる。

「ナンのオカワリ、オマタセシマシタ!
コレ、サービスのマンゴーラッシー☆」

ああ、私おかわりは頼んでない……
そして満腹でのマンゴーラッシーはもはやちょっとつらい……

それでも私はまた来るだろう。
インドカレー屋さんという空間が、私を癒すのに完璧に見えるからだ。

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