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黎明の蜜蜂(第7話)

章太郎は駅の近くのスナックでウイスキーのシングルを注文し、一口喉に送り込んだ。熱い液体が食道から胃に流れ込んで血液に溶け込み今日一日張り詰めた神経を弛緩するのを快く感じる。

カウンターしかない小さな店だ。しかしカウンターは、端に座り低い声で話すなら他の客の相手をするバーテンには聞こえないくらい長い。またバーテンも、そういう席を選んで座る客には気を利かせてあまり話しかけてこない。隣の席は手荷物を置いて確保してある。

十分程度してドアが開いた。高島涼子だ。章太郎は肘をついたまま右手を額の高さまで上げて合図する。涼子が静かに隣の席に滑り込んだ。

近寄ってきたバーテンにグラス・ワインを注文する。ワインバーではないので味にはあまり期待はできないが、今日の飲み物は場所代みたいなものだ。
ワインが注がれたグラスが運ばれ、二人は軽く乾杯のしぐさと「お疲れ様」を交換する。

「大手町から乗り換えなしとは言え50分近くも離れたところまでご苦労様」
「いや、こういうところの方が気楽に話もできるし。それに僕の実家もここから遠くないんですよ」
「まあ、そうなの。ではご近所づきあいということで」

涼子はグラスを傾けてワインを口に含む。
「銀行の人たちが誰もいないと確信できるところでお酒を飲みながら好き勝手に話をするのは、何にも増してストレス解消になるわよね」

「いやぁ、大変なんですよ。今日は僕が元部下であることに免じて高島さんに聞いてもらおうと思って」
涼子はそういう章太郎の顔を横から包み込むように見て、肺の底から静かに息を吐くように声を発した。
「いろいろ大変だと思うわ」

言葉以上にその声が、章太郎の胃の腑に沁み込むように感じる。涼子が苦労人であるという背景を承知しているからそう感じるのか、それとも涼子のこれまでの経験がその声に説得力をつけたのかは分からない。

「いやあ。高島さんにそう言われただけで、僕の重い気持ちの半分が取れた気がしますよ」
 「そうだと良いけど。何か話したいことがあったのじゃないの?」
「改めてこれといって何かあった訳ではないですけどね。何かよもやま話でもしたくなって」

「例えば?」
「例えば」
 章太郎は少し言いよどんだ。
「高島さんはもうAT1債の話、聞いていますよね」

「大手銀行だったクレディ・スイスが発行したAT1債のこと? クレディ・スイスが経営破綻しそうになってスイス金融当局の支援付きでUBSと合併させられることになったことが、そのAT1債を無価値にするトリガーとなったっていう話でしょ? 言うならば、当局がある日突然、債券を買った人に向かって、あなたが買った債券は無価値になりました、と宣言したわけね」

 「ひどい話ですよね。債券の利息や元本は、発行体である企業や銀行が潰れない限り保証されるから、そうでない株式よりリスクが低い、だからその分リターンが低くても容認されるというのが常識じゃないですか。でもクレディ・スイスはUBSと合併したから株の価値はいくらかでも残ったのに、AT1債はパアですよ」

「あなたは確かバーゼルⅢの最終調整のころ日銀に出向していて、さらにそこからBISの事務局の方へ派遣されて、スイスにも駐在したでしょう? そこでAT1債の発行についても色々聞くこともあったのではないの?」
 「雑用係ですよ」

 「あら、ご謙遜ね。それに、たとえ雑用係でも会議に出席する日銀プロパーをサポートするために後ろの席についたりするでしょ?発言権はなくても話は聞けるわけだし、発言内容を記録したりするでしょ?雰囲気も分かるわよね」

 

章太郎の脳裏にバーゼルでの会議場での目くるめくような時間がよみがえってくる。章太郎の勤務先であるM銀行からは日銀に出向者を送るという慣例があった。日銀との情報パイプを作るとともに、本人の研鑽にもつながるという目的がある。

章太郎の場合、そこからさらにBISへの短期出向も命じられた。
それに伴う出費は全てM銀行持ちである。M銀行として初めての試みであり、銀行トップの人脈や交渉があって実現したはずだ。章太郎としては、自分はそれだけ期待されているのかと誇らしくもあったし、良い前例を作らなければという責任も感じた。

章太郎がスイスに到着した時、BISにはもう一人日銀プロパーの若手が既に出向しており、会議に出席する上司をサポートする役割を与えられていた。章太郎自身は、いわばその先輩の業務を補助しながら経験を積ませてもらう見習いのような立場だった。

その年の会議の一番重要なテーマは、バーゼルⅢと呼ばれる新しい銀行規制の具体的項目の完成だった。

バーゼル規制を制定するバーゼル委員会は、1974年6月、当時の西ドイツのヘルシュタット銀行の破綻を契機として、「多国籍銀行の監督」機能の充実を図るため、各国の中央銀行と銀行監督当局からなる協議の場として設立された。

最初のメンバーはG10諸国が中心である。事務局は、国際決済銀行であり、通貨価値と金融システムの安定を目的として中央銀行の政策と国際協力を支援しているBIS内に置かれた。協議は12カ国でスタートした。

協議の結果を協約にまとめるなどの成果はあったものの、その後に発生した債務危機などを経て、1988年にはバーゼルIが策定される。

バーゼルIでは信用リスクに対する備えを主としており、市場リスクへの備えを組みいれることが課題となっていたとされる。1987年に世界的な株価大暴落があったし、1980年代から90年代前半にかけて多数のS&L経営破綻が起きていたことも背景としてあっただろう。

1996年には市場リスク規制が、2004年にはバーゼルⅡが策定された。いずれもリスク計測の高度化を企図した見直しである。

そのようにして策定されたバーゼルⅡも、2007年から顕在化したサブプライム住宅ローンのリスクに端を発する世界金融危機には無力を露呈し、不備に多くの批判が集まった。そこでさらにバーゼルⅢへとバージョン・アップが図られた。


 
「バーゼルI、Ⅱ、そして今はⅢと次々に制定されてきましたけどね。それはG20の国々の金融のトップが智恵の粋を集めても結局実施する頃には既に機能しなくなっており、バージョン・アップを余儀なくされたということですよね?」

章太郎より3歳年上、気さくで何かと頼りになりそうな同僚に、明日の委員会で上司が使う資料を夜更けに2人で作成していた時に何気なくつぶやいた。
 「金融界も日進月歩というか、日々新しい金融スキームも考案されて、金融テクノロジーの発展と共にリスクの性質や在処も変わっていくからね」
先輩の声はやや素っ気ない。

 「そうとは思いますが」
章太郎は、机上のパソコンに向かったままの先輩の横顔を見た。先輩は、そのままの姿勢で言葉を継ぐ。

 「確かに規制は、それまでに起こった問題を対象として、そういうことが今後起こるリスクを減じるために制定されるのだから、カバーできる範囲がそこまでに限られる。しかし、バーゼル規制が制定されていなかったら、金融市場はもっとひどい事態になっていただろうからね」

 その言葉を聞いて、そのつもりはなかったのに、章太郎の腹の中にたまった空気が低く微かなため息になって出たのを、先輩は気づいたろうか。机上のパソコンに打ち出される文字の速度が一瞬遅くなったが、先輩の表情には何の変化もなかった。

 「さっき回してもらった会議録の要点に修正とコメントを入れておいたから、今取り掛かっている資料が完成したら、手直しお願いします。それがすんだら後は僕がやるので、先に帰ってもらって良いですよ」

今夜の先輩は、なにか章太郎との議論をシャットアウトする構えのように見える。食い下がるのは良くない、と考えて手早く資料作りと手直しも終え「それではお先に失礼します」と静かに席を立った。

 M銀行の費用で借りてもらっているアパートに帰り、冷凍食品を電子レンジで解凍する間にウォッカを一口喉に流し込んだ。ウォッカは好きでもない。

しかし、過度に緊張した脳を手っ取り早く弛緩させる効果は期待できる。だから敢えて何かで割ることもしないで、一口。すきっ腹だと効果が倍増し速攻でやってくるから。

章太郎は、先ほどオフィスでとっさに止めたため息を、ここで初めて腹の底から出し切った。電子レンジが食品温め終了を知らせる。家具付きのこのアパートに備え付けられている皿に移すこともせず、そのまま食卓に運びスマホを見ながら口に運んだ。

お茶も淹れず、水で流し込む。酒については、自制しながら効用だけを最大限に活かそうとしている。上手くいっているのかどうか、客観的には分からないが。


 
ふと、我に返った。涼子の眼と会った。どうしたの?と聞いている眼だ。
「いや、僕の場合、短期出向だったし途中で帰国しましたし」
「それでAT1債について聞く機会はなかったの?」
「ないわけではなかったですが、どちらかというと、帰国後ですかね、違和感を感じたのは」

章太郎の重い口ぶりに、涼子は辛抱強く待ちながら相槌を打つ。
「クレディ・スイス銀行の経営がおかしくなって、政府肝煎りでUBS銀行と合併した時、発行していたAT1債の価値が無くなったというニュースを聞いてから?」

「まあ、そうですね。バーゼルⅢではゴーイング・コンサーンとゴーン・コンサーンという概念で自己資本に該当する資産を仕分けましたけど」
「そうだったわね」

「会計では継続企業であることを『ゴーイング・コンサーン』といいますよね。普通株などは、銀行が経営危機に陥った時も、それによって調達された資本を使って当該銀行の事業継続を助けることができるから『ゴーイング・コンサーン・キャピ タル(going-concern capital)』だという訳です」

「一方、銀行が破綻した場合は、 自己資本の提供者である株主に続いて、劣後債の保有者に責任を取ってもらう。つまり、劣後債で調達した資本を使えると、その分、銀行は破綻危機にあっても預金に手をつけずに済む。だから劣後債は、預金者を守る秩序ある破綻を可能にするための資本といえる。この場合、ゴーン(gone) という破綻の意味合いを込めて、『ゴーン・コンサーン・キャピタル(gone-concern capital)』だという訳ね」

「その通り、そういう説明でそういう仕分けになったのです。で、AT1債はその他Tear1、つまりゴーイング・コンサーンの方に仕分けられたんですが」
「クレディ・スイス銀行が立ち行かなくなって政府主導でUBSと合併した時、合併だから倒産ではない。だから株式は価値が残ったのに、AT1債の方は紙切れになったのよね」

「クレディ・スイス銀行はもうだめだって政府が宣言したことによってね」
「通常、弁済順位は高い順から、担保付社債、無担保社債、劣後債、優先株、普通株よね。ということは破綻の場合、その逆の順で弁済不能となる。だから、普通株が紙切れになっていないのに、普通株より弁済順位が高い債券が紙切れになるとは理屈に合わない印象があるわね」

「クレディ・スイス銀行発行のAT1債の契約書にはそうなりますと書いてあったから、それで構わないんだと言いますけどね。契約書通り紙切れになっても、それはその債券を買った方の自己責任だと。でも、何かしっくりきませんよ」

章太郎は、しっくりこないところを具体的に言おうとして、整理しあぐねている。涼子は別の切り口であいづちを打った。
「バーゼル規制を作ったのは、銀行が破綻して世の中が混乱するのを防止したいというそもそもの考え方があったからよね」

「銀行が大きな損失を計上することになった場合、自己資本が小さければ足りない分は預金で補う、つまり預金者が負担をすることになるから」
「自己資本を充実させて万一の場合の損失もその範囲でカバーできれば、預金者に迷惑は及ばず、世の中の混乱も防げる、とね」

「ところがリーマン・ショックは、その防波堤も超えるくらいの“津波”だった。世の中の金融システムを守るためには国レベルの出動を余儀なくされた」
「でも銀行の経営危機を国が救うということは、税金で銀行を救うことになり国民の批判も浴びた。それに、“大きすぎて潰せない”という概念が広まって、銀行関係者のモラルハザードにつながる」

「ええ、それで自助の為の自己資本の充実を、債券発行による資金調達で民間投資家にも担わせることにした。それには一般預金者の保護をするという大義名分はあったと」

「そうね。そういう風な歴史と議論の積み重ねがあった。バーゼル規制は様々な観点から検討されたのよね」
「ええ、国際協調についてもです。自己資本充実のための規制とは、貸し出し残高も自己資本に見合ったレベルに抑え込むことを意味します。すると、自国内でのみ規制を作ると、自国銀行は、規制のない他国の銀行に対してビジネス競争上不利になる。だから、規制強化を行う場合には各国が揃って行う方が望ましい」

「それで国際間の協議の下、バーゼル規制が策定される。銀行を守らなければならない。それは一般預金者を守るため。でも、銀行のビジネスを遮らない範囲での規制にする、やっぱり銀行を守らなければならないから。その方向で規制を充実させる。それは普通、分かりやすい話なんでしょうね」

と言われて今度は章太郎が涼子の顔をじっと見た。
「つまり、分かりやすい理屈展開ってことは」
と言って、また言葉を探す。

「つまり、そこには我々が当たり前としてその上に立っている前提があるということですか」
「そうね。物事がどこか腑に落ちないときは、私たちが当たり前のこととして改めて考えもしないことについて、その核心にまで立ち返って考えてみるのは有用だと思う」

章太郎は、目前の空間を凝視する。
「この場合、銀行は守られなくてはならないってことについてですか」
「それは何故なんでしょう」

「それはだって、高島さんもさっき」
と言いかけて、章太郎は宙を見たままつぶやく。

「そういう風に社会、経済の仕組みが出来上がっているから。その社会、経済の血ともいえる金を回す役割を銀行が担っているから」
「そうね」

「その仕組みには政府機能と銀行機能ががっちり組み込まれている。だからその重要な器官である銀行が破綻すると社会が壊れる」
「そう。でも政府機能も銀行機能も人間が作り出したものだわね」

「そりゃそうですが。つまり、その、核心って」
章太郎は涼子の顔を見る。涼子はあえて黙って章太郎の視線を受け止めるだけである。

「そこがそもそも違っているのに、それを守ろうとしているということですか、仰りたいのは」
「間違っているとか正しいとかという話ではないけれど。でも、人間の活動は、経済活動も含めて、この地球とか大きく言えば宇宙を含めた自然の中で行われているでしょ?」

えらく大きな話が出て来たな、と章太郎は感じたがそのまま聞く。
「その中にいるすべての生き物に共通しているのは、自己増殖の欲と言えるかしらね。一つの種の進化上の成功はDNAの複製によって測られるというでしょ? でも、そのための活動は基本的には自然を収奪することによって成り立っているわよね」

「確かに」
「他の生物に比べて人間は、はるかに効率の良い自然の収奪システムを作り上げた」
「つまり、それが、今我々が暮らしている社会や経済を動かしているメカニズムですね」

「その表象の一つとして銀行機能があり、そしてそれは政府機能と一体化して発展した」
「そういう収奪システムの効率化によって人類の発展が促進された」
「そう。人口爆発とも言われるほど人類のDNA増殖は進んだわね」

「でも、その結果、今や地球の人口は飽和状態だし、自然は収奪され過ぎて破壊が進み地球は危機的状況に陥っている。もう限界なんだな」
「そうよね。皆それに気が付いて環境保護運動などは本気で取り組まれるようになってきたけれど。そういう結果をもたらすことになったそもそもの枠組みについては、根本的に考え直すということなく社会や経済の運営を続けている」

「確かに、そう言われれば、そうかも知れません」
そうつぶやくが、次の瞬間、章太郎は自分の声のトーンが思わず一段上がったのを自覚した。

「しかし、その効率的収奪システムを構築している社会や経済と一言で言っても、それって、もう人類そのものと言っていいくらいですよね。経済一つをとっても、例えば制度、株式会社制度だって、それを取り巻く金融だって、全てが頑強な建物構造のようにがっちり組み合わさっていますよ」

その声の波長は涼子には何の影響も与えなかったらしい。変わらず静かで落ち着いた声で続ける。
「そう、その通りと思えるわね。もっと言えば、例えば経済成長を測るのに使っている指標はGDPでしょ? それを見て、やぁ景気が良いだの不況だのと取り沙汰し、それが選挙に影響するから政治だってそれを指標に回っているわ」

「本当に、政治という表象だけでなく、もう主義や思想や、はるか哲学や宗教にいたるまで、その構造と一体化しているというか、それを支える背景をなしている。その中にある銀行システムなんだ。そこに綻びができるということは、その構造の中心部にひびが入るようなものだ」
「だから、皆で必死にひび割れを補強しようとする。それは、良かれと思う善意の動機に基づく高尚な努力だわ」

「だが、そもそもその効率的収奪システムの対象である地球自体が、もう人類の収奪を鷹揚に受け入れる余力を失っているんだ。しかし、それに気が付いていないのか、気が付いていても打つ手がないとあきらめているのか、根本的なところには誰も手を付けない」

「そう。だから膿んだできものの上から絆創膏を貼るような施策ばかりになる」
「その一つの表れがAT1債だという訳ですね」

「私にはそう見える」
「溜まった膿が噴き出すのを防ごうと考え出す小手先の絆創膏は、屁理屈で傷を塗り固めるようで掴みどころがない」

グラスに残ったウイスキーを飲み干し、章太郎は続けた。
「2007、2008年に起きた金融危機では、Too big to failという言葉が出た。つまり大きすぎて潰せないとなって、世界の金融システムの中核をなす巨大銀行を公的資金をつぎ込んで救済した」

「あまりにも大きく、相互依存関係にある企業 、特に金融機関は破綻すれば広範な経済システムへの壊滅的打撃に繋がりかねないため、破綻の瀬戸際に立った時に政府の支援が必要となってしまうのね」

「しかし、その措置は国民からの強い批判を招いた。なんで強欲者が高い報酬を得て働く金融機関を、国民の血税で救わなくてはならないんだとね。それは少し感情論かもしれないが、危機に瀕すれば公費で救済されるとなれば、金融機関もリスクに対する姿勢が緩み、モラルハザードが起きかねない」

「そういう反省があり、金融危機以降、G20のFSB(金融安定理事会, Financial Stability Board)を軸に、金融システムに影響を与える金融機関、すなわち、「システム上重要な金融機関」に対して様々な規制が導入されたのね」

「具体的には、G20首脳は、2011年11月、カンヌ・サミットにおいて、グローバルなシステム上重要な金融機関に関する政策枠組みを合意。その後の規制改革の中で、システム上重要な金融機関に対して、追加的な資本を求めるとともに、秩序ある破綻を可能にするための制度が整備された訳ですよ」
「その辺りが、ゴーイング・コンサーンとゴーン・コンサーンの概念の導入点ね」 

「危機に陥った金融機関への公費投入を避けるには、金融機関をもっと頑強にして、そもそも危機に陥らないようにしなければならない。その為には自己資本の拡充だ。それを民間資金で行えば、危機に陥った時には、公費でなく、その資金で救済できる。資金を提供した民間投資家は犠牲になるが、契約に法律上の問題がない限り、損も自己責任。誰も文句なく金融システムも守れるという訳です」

「それが正当だという主張は、これまでの金融の発展と共に整備されてきた理論で強固に武装されている」
「だから、もやもや感があっても、それを突き崩すのが難しい」

「でも、そういう人間の作った理屈をいくら主張しても、たまった膿が解消されるわけではないわ」
章太郎は、ぎょっとした眼で涼子を見た。

「高島さんは、また金融危機が来ると思ってるのですか?」
「私は預言者でも、未来学者でもないわ。でも、ここ何十年かを見ているだけでも、金融危機は何度かあった。その度にカンフル剤を打つかの如く金融緩和を行い、時には公的資金も使って危機からの脱出を図る。金融危機で経済がダメージを被るのを防ぐため金融緩和、財政出動、ありとあらゆることをしてきたわね」

「そりゃあ、政府だって中央銀行だって、経済成長が停滞、ましてやマイナスになるなんて政策の失敗と見なされますからね。放っておくわけにいかない」
「それで、あらゆる手段で経済成長のかさ上げをして。でも危機は繰り返してきたわね。それを見ると、そもそも収奪される余力のなくなってきた地球には無理なGDP成長率を、我々が期待してきたからではないかと思えるのよ」

「無理なレベルの成長率を、あるべき姿として実現しようとする。だから、無理なレベルの金融緩和、財政投融資を行う。そういう中で金融危機のリスクも高まる。危機の顕在化、銀行破綻を防ぐための手段の一環としてAT1債が生まれた。膿の溜まったできものに貼る絆創膏だ。妙案のようでありながら、本当に妙ですよ」

章太郎は笑った。そしてふと、BISに出向していた時に一度だけ、バーゼル委員会に出席していた日銀の上司と交わした会話を思いだした。

                       (第8話に続く)
黎明の蜜蜂(第8話)|芳松静恵 (note.com)

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