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個性的な教師に生まれ変わろう

●個性を出す勇気を

同じであることは安心を生む。
個性を出すことには勇気がいる。
安心を得るためにきまりやマニュアルを求める。
「そんなもの必要ない」と主張することには、さらに勇気がいる。

それでも、教育においてみんな同じ方法をとること…、
とっているふりをすることについては批判的に考えている。
それを主張するのには、勇気がいるのだけれど。

「普通じゃないよね」は悪口になる。
「みんなやってないから」は、やらない言い訳になる。
「普通」は誰が決めたのか、
「みんな」とは一体誰なのかと思う。

●個性ある素敵な先生たち

教師にカリスマや名人先生はいらないけれど、
教師には個性あふれる名物先生は必要だ。

昔は、日本には個性ある教師であふれていた。

期末テストの問題づくりが間に合わなくて校内放送で問題を出していた美術の先生、
いつも教卓の上にあぐらをかいて授業をしていた歴史の先生、
子どもがひろってきた子犬をヒミツに教室で2,3日飼っていた先生、

みんな個性があり,みんなが大好きだった先生だ。
そして全員、授業が上手でわかりやすく、面白くてたまらなかった先生だ。
そんな先生たちが活躍できる学校現場でありたい。

脱線して授業とは関係ない話題になってしまう先生が好きだった。
子どもたちはそんな先生が困っている時には協力して助けた。
しかし最近ではそういった先生は保護者からも子どもたちからも批判されがちだ。
授業を遅れずに隣のクラスと足並みをそろえて教えるのが第一の任務になった。
せちがらい世の中になってしまった。

みんな同じことをやっていては逆に教育の質は下がる。
もともと世代も経験も、そして力量がちがうところに同じことをしようとすると
差がつくのはあたり前だからだ。

同じであることを批判するのは勇気がいる。
若い人たちに、個性ある素敵な教師になってほしいので、
勇気をふりしぼって主張する。

●学校スタンダードとは

今は、ほとんどの学校で「学校スタンダード」が設けられている。

<小学校で見られるスタンダードの例>

【学習について】
使うノートや、行頭から文字を何マス下げるかなどを、学年ごとに規定。それをすべての生徒で統一するように、教員にも指導する

【生活について】・登校から下校まで、学校において目指すべきふるまいを、文字やイラストで明示
・授業中の机の上に置く物の、置き方を統一する

【持ち物について】
・筆箱に入れる鉛筆の種類、本数、その他文房具の種類を、例えば「赤鉛筆1本、青鉛筆1本、定規は透明なもの1つ」などと決める
・道具箱に入れるものについても同様に規定

教師むけ、子どもむけ、保護者むけに「学校スタンダード」が示されている。「スタンダード」を直訳すれば「標準」。しかしそれはいつしか最低限の約束ではなくなり「ねばならないきまり」として存在している学校が多い。そして「子どものスタンダード」は中高校では理不尽な校則となって再登場するのである。

教師むけの「授業スタンダード」は授業の流れや発問や板書の仕方など授業展開を中心にしめされたもの。目的によって使うチョークの色や板書文字のサイズ、手をあげさせ方や注意の仕方まで細かくマニュアル化されたものも存在する。それと同調主義が一緒になり教師の指導の自由を奪っていることもある。

学年の足並みをそろえる理由は、どのクラスも平等にといった理由。全校で揃えるのは、学年が変わっても子どもが不安にならないようにという配慮。

教師の指導方法を統一させるのは、若い人たちのニーズと、どの子にもどの教師も同じように教えられる事の保障が大切だからであろう。

しかし残念ながら、統一させようとすればするほど、教師の指導の差はむしろ広がり、不公平感やそれに伴う教師に対する不満が大きくなっている。

それは、世代や経験のちがう教師が同じことをしようとすると、当然差が出てくる…、と言う当たり前の理由だ。表向きだけ、見た目だけの平等は空回りするだけだという典型的な例だ。

私の経験上、個性は力量をカバーできる。

●問題点はなんなのか

学校スタンダードによる問題点として、教師の実践の自由を奪うこと以上に重要なことがある。それは、同じことができない子、個性ある子をあぶり出し、排除することにつながることである。

障害のある公立小中学生のうち、通常学級に在籍しながら必要に応じて別室などで授業を受ける「通級指導」の2017年度の対象者は前年度から1万635人増の10万8946人となり過去最多を更新したことが29日、文部科学省の調査で分かった。調査を始めた1993年度から24年連続の増加で、初めて10万人を超えた。

文科省は「発達障害の認知が広まり、一人ひとりの障害に合わせて個別に指導する必要性への理解が広まっている」とみているが……、本当だろうか。

私は、子どもたち同士の中に、高度な?コミュニケーションスキルが求められ、それについていけない子、自ら降りてしまう子が増えているのではないかという疑いを持っている。

「高度なコミュニケーション」とは、空気を読みながら
 ・強い意見に同調し、
 ・時にはおちゃらけ、
 ・意図的に誰かをいじり、
 ・時には自分がいじられるように仕向け、
 ・そのために必要以上に悪ふざけができる 
  自分を演出するようなコミュニケーションである。

「学校スタンダード」に代表されるような、学校現場の、一斉・一律・競争の縛りがきつくなり、そこについていけなくなったり、身体を通して異議申し立てをしたり、自ら降りたりする子が急増しているのではないか、ということである。

●ゆずれないこだわりを一つ以上持つこと

教師が「学校スタンダード」の中で自分らしさを見失い、個性ある教師として子どもたちの前に登場できなくなってきている。そんな、没個性の時代を乗り越え、自分を見失うことなく子どもたちの前に立つためにはどうしたら良いのだろうか。

それは、教師として『これだけはゆずれない』というものを一つ以上持つことである。しおざきは、日刊通信を発行することを学生の時から心に決めていた。その実践が書かれた本に強く心を惹かれたからである。

ところが、教師になって最初に言われたことは、「足並みをそろえる」こと。ひとつの学級だけ、しかも教師一年目の新米が、毎日学級通信を発行するなどもってのほかだった。

しかし私は、それだけはゆずらなかった。それぞれが持っている教師としての武器を最大限に発揮することが子どものためになることを、当時のつたない言葉で必死になって説明した。幸い、まわりが理解してくれる先生が多かったこともあり、なんと定年するまでの37年間、日刊通信を発行し続けることができたのである。

ダメ教師だった自分が、唯一、誇れることである。

(*ᴗˬᴗ)⁾⁾

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