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わたしが生まれた朝に

わたしの父親はどうかしてる人間だったので、「もし誤って落としてしまったら、俺もそのまま一緒に飛び込もう」と思って、東尋坊の崖っぷちで一歳のわたしを『高い高いキャッチ』したそうです。あの時父親がミスってたらいまのわたしは居ないんだなと、ふとした時に思ってはゾッとしたりホッとしたりなんとも言えない気持ちになります。

妹のお腹に子供がいたとき、押したら風船みたいに破れるんじゃないかと心配で「さわっていい?」って自分から聞いてみた癖に、さわるのを躊躇った。でも結局好奇心に負けておっかなびっくり触れて、「今蹴ったよ」と言われてもそれをたしかめるためにまた手を伸ばすのはちょっとこわかった。
産まれてきた時は、赤ちゃんてこんなに可愛いんだ、とびっくりしたし、なんだか理由もなく胸が詰まって、わたしが産んだ訳でもないのに泣いちゃったら恥ずかしいよなと思って、家族にバレないように喉が痛いのをじっと我慢して、赤ん坊の真っ黒い目がどこか宙を見るのを黙って眺めていた。
妹は合わせて三度妊娠をしたけど、膨らみすぎた腹は三度見ても慣れなかったし、その中に在るのが人間だという実感は湧かなかった。出てきてからもしばらくはそうだった。七つまでは神様の領域と言うし、人と呼ぶには頼りない。
そんな不思議ないきものでしかなかったのに、いま、たとえきょうだいの物であっても盗んではいけないだとか、バレなかったとしても悪いことをしてはいけないんだとか、倫理観を教え込むために、自分でもあまり信じてない神様の存在なんかを説いてみたりしている。どうもぴんときていない様子でわたしの説教を五月蝿そうに聞き流す。腹が立つ。でも、わたしもそうやってわたしになってきたんだろうな、と時折思う。最近やっとシルエットがはっきり造られつつある、わたしという型。

人との関わり合いって、安らぎや楽しさだけの為にあるんじゃなくって、自分の形を知るためにもあるのかもしれないなと、ふと知る機会がありました。
わたしはいまだに、『なんとなくダルいから』という理由で父からのご飯の誘いを嘘をついて誤魔化して断ってしまったことを思い出すと、涙が止まらなくなる。
ほんとうに辛いので思い返したくないのに、ちょっと寂しそうな父の背中や横顔なんかがさっと脳裏に浮かぶ。ごめんなさいとかそういう謝罪の言葉は不思議と浮かばなくて、ただ、私が感じ取れる筈もない父の寂しさを空想してはどうしようもなくなって、体から力が抜けていく。
でもついこの前、母に「あんたには子供おらんから想像しにくいやろうけど、〇〇(姪)が同じことしたとしても、そん時はこいつ嘘つきやがって!ってムカつくやろうけど、でも憎んだりはしやんやろ」って言われて、あ、ほんま、その通りや、って憑き物が落ちた。わたしは父のことを想っているようで、やっぱり自分の罪悪感しか見てない。こうやって自分の立ち位置を知ることもあるんだなって、何を当たり前のことをと思うけど、びっくりした。まだ涙は溢れるし、胸が痛くなるけど、前みたいに目線が自分の内側にばかり向いていない気もする。外側に向けた方が自分の形がよく分かる。

胎動、というのをわたしは結局、三回目の妹の妊娠ですら感じ取れなかったけど、おっかなびっくりで引っ込めたわたしの手を、妹が掴んで、ほら、って少しだけ強く押し付けてきたとき。動いてるのかはやっぱり分からなかったけど、でも、子供を宿して膨らんだ腹というのは、わたしが想像していたよりも強くてハリのあるもので、ちょっと押したくらいではどうということもないみたい、と分かった。
そんな感じで、人間てわたしが思ってるより大丈夫だし、だから勿論わたしも大丈夫であって、これからも大丈夫なままで生きていけるのかも。恋をしなくても、信仰を失くしても、誰にも悩みを打ち明けられなくても、秘密があっても、罪悪感が消えなくても、大丈夫。おそらく。
生きてることに特に理由も使命もないし、わたしは何者でもないけど、それでいいんだなとやっと納得しつつあるかもしれません。
自分のことを自分で決めたり考えるのは疲れるけど、占いにも人生相談にも頼らずに生きている最近は、却って不安が薄れてきました。
嫌われることへの本能的な恐怖は消えないけど、恐怖感や不安にお尻を叩かれて走ることはなくなったかなあ。
いつも楽しそうな人になりたいです。
わたしが生まれた朝に喜んでくれた人たちの為に、幸せでいなきゃなあ。


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