アニメ平家物語7話背景
ここでは感想というより見ていて知らなかったことやよくわからなかったことを調べてまとめています。
⛔少しネタバレはあるかもしれません。見たくない人はここで離脱してください。
時代
富士川の戦い後~清盛の死までより、1180年11月~1181年2月になります。
毬杖
ホッケーのような遊びで平安後期~鎌倉で子どもの遊びとして広まりました。
南都焼討
以仁王の反乱で以仁王側についた興福寺に敵意はないと和解しようと妹尾兼康を使者に送ります。そのとき軽武装で行き、成るべく平和的に解決するように指示します。ところが興福寺は使者60人の首をはね猿沢池(奈良公園内に現存)に並べたと言われています。但し、これは本当かどうか不明です。
これに清盛は腹を立ててというか、安全保障上からだと思いますが、1180年12月25日重衡を大将に興福寺に軍を派遣しました。戦いは長期化し、夜戦のため民家に火を付けます。それが予想以上に燃え広がり、興福寺と東大寺まで焼失しました。(1181年1月15日)
高倉上皇崩御
高倉上皇の体調が悪くなるので、没後に徳子を法皇の後宮になるよう清盛と時子が伝えます。徳子は後宮になるなら出家すると拒否します。
1181年1月30日21歳で崩御します。
清盛の死
1181年2月4日清盛が亡くなります。死因は「あつち死」高熱です。マラリヤやインフルエンザと言われています。
園城寺、興福寺、東大寺など仏寺を焼いた祟りだと言われました。
徳子の歌った今様
女性には5つの障害があって成仏することはできない。だが「法華経」を唱えれば男子になり(変成男子)成仏できるといった意味です。
登場人物
妹尾兼康 CV 井川秀栄
瀬尾兼康とも書きます。清盛の命で興福寺に講和のため派遣されます。この後、木曽義仲との戦いにも参加します。
御子姫君
清盛の七女。徳子の代わりに後白河法皇の後宮に入った。
ちょっと感想
資盛がびわに屋敷から出て行くように言うシーンは泣けました。平氏ではないびわを巻き込まないためです。
後白河法皇の「しかしのう、そなたはもう無限の泥沼の中に引きずり込まれているのだ」という最後の場面も凄くかっこいい演出でしたね。
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