佛神教 二

人死(ひとし)するも、魂(たましい)と申(もう)す者(もの)は、決(けっ)して死(し)する者(もの)に有(あ)らず。幾(いく)萬(まん)年(ねん)も決(けっ)して亡(ほろ)ぶ者(もの)に有(あ)らず。唯人(ただひと)の死(し)すると云(い)うは、此(こ)れ世(よ)を去(さ)り別(べつ)成(な)る所(ところ)に行(ゆ)くを、人(ひと)は死(し)したりと悲(かな)しむ。人(ひと)と云(い)うは敢(もっぱ)ら外(そと)衣(い)に過(す)ぎず。死(し)すると云(い)うは、其(そ)の外(そと)衣(い)を取(と)られるに此(こ)れ同(おな)じ。此(こ)れ人(ひと)は如(い)何(か)に考(かんが)えるも、学(がく)にて成(な)すも、人(ひと)は如何(いか)なる物(もの)か、如何(いか)にして出來(でき)しか。世(よ)は如何(いか)なる者(もの)か、世(よ)は如何(いか)にして出來(でき)し者(しゃ)か。又(また)人(ひと)死(し)すれば如(い)何(か)に成(な)るか等(とう)、此(こ)れ詳(こま)かに知(し)るは神佛(しんぶつ)の外(ほか)無(な)し。神(かみ)は佛(ぶつ)の本(もと)なり。佛(ぶつ)は神(かみ)の分(わか)れなり。此(こ)れ如(い)何(か)にと云(い)えば、神(かみ)の大本(おおもと)は天御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)と申(もう)す神(かみ)なり。
佛(ぶつ)の本(もと)は、三三三(みろく)なり。此(こ)れ此(こ)の三(み)三(ろ)三(く)を、種々(しゅしゅ)に名(な)を変(へん)じ、又(また)教(おしえ)を成(な)すなり。成(な)れば神佛(しんぶつ)は同(おな)じなり。本(もと)は神(かみ)なり。
佛界(ぶつかい)は佛(ぶつ)の居(おわ)す。神界(しんかい)は神(かみ)の居(おわ)す。極楽(ごくらく)は此(こ)れ、世(よ)に居(お)りて良(よ)き行(おこな)いを成(な)せし人(ひと)住(す)む。地獄(じごく)は此(こ)れ、世(よ)に居(お)りて悪(あし)き行(おこな)いを成(な)せし人(ひと)住(す)む。此(こ)れ良(よ)き行(おこな)いを成(な)せば、死(し)して楽(たの)しみを得(え)る者(もの)。又(また)此(こ)れ世(よ)に居(お)りても、悪(あく)の行(おこな)いを成(な)せば心(こころ)は常(つね)に苦(く)に満(み)ち、楽(たの)しみは無(な)し。又(また)良(よ)き行(おこな)いを成(な)せば、良(よ)き心(こころ)を持(も)てば、心(こころ)は常(つね)に楽(たの)しみに満(み)ち、苦(く)無(な)し。成(な)れど今(いま)の世(よ)は、其(そ)の良(よ)き行(おこな)いを末(すえ)迄(まで)保(たも)つ事(こと)出(で)来(き)ざるが如(ごと)し。魔(ま)は迫(せま)り、人(ひと)は笑(わら)い罵(ののし)る。其(そ)の如(ごと)く成(な)れば、自然(しぜん)に悪(あく)に落(お)ちて行(ゆ)くなり。成(な)れど良(よ)き心(こころ)を持(も)ち、良(よ)き行(おこな)いを成(な)さんと思(おも)う者(もの)は、此(こ)れを貫(つらぬ)きて行(ゆ)く様(よう)で無(な)くては成(な)らず。
今(いま)の世(よ)を見(み)よ。神(かみ)の教(おしえ)も佛(ぶつ)の教(おしえ)も、麻(あさ)の乱(みだ)れの如(ごと)し。金(かね)に迷(まよ)い、色香(いろか)に迷(まよ)い、酔(よ)いて実(じつ)に浅間敷(あさましき)限(かぎ)りを我侭(わがまま)に尽(つく)し、目(め)を明(あ)いて見(み)られざるが如(ごと)き様(さま)なり。人(ひと)の如(ごと)き行(おこな)いを行(おこな)いて居(い)る人(ひと)は、実(じつ)に少(すこ)し悪(あく)を成(な)す。

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