佛神教 三

人々(ひとびと)は、佛(ぶつ)・神(かみ)成(な)れば、敢(あ)えて分(わ)け異(い)る者(もの)に成(な)さずとも良(よ)きが如(ごと)く成(な)るも、佛(ぶつ)は此(こ)れ、用(よう)の有(あ)る為(ため)に造(つく)りしなり。何用(なによう)有(あ)りと云(い)えば、神(かみ)の世(よ)に出(で)る迄(まで)に、一度佛(いちどぶつ)を出(だ)さずば成(な)られざるが為(ため)に此(こ)れ、造(つく)りしなり。又佛界(またぶつかい)は、死人(しびと)の来(く)る所(ところ)無(な)くては成(な)らざる為(ため)。造(つく)りしなり。此(こ)れ其(そ)れ成(な)れば、死人(しびと)皆(みな)此(こ)れ地獄(じごく)と極楽(ごくらく)に皆(みな)来(く)るかと云(い)えば、異(い)なり。其(そ)れ成(な)れば如何(いか)成(な)る所(ところ)に入(い)るやと云(い)えば、此(こ)の所(ところ)は霊(れい)の神(かみ)と申(もう)す神(かみ)の入(い)る所(ところ)なり。其(そ)れを正霊界(せいれいかい)と申(もう)す。霊(れい)の神(かみ)とは如何(いか)なる者(もの)か。正霊(せいれい)とは何(なん)ぞ。霊(れい)の神(かみ)とは正霊(せいれい)とは此(こ)れ、此(こ)の世(よ)に住(す)み、良(よ)い行(おこな)いを成(な)せし高(たか)き霊(れい)の神(かみ)を取(と)りて入(い)りしなり。又(また)此(こ)の霊(れい)の中(なか)に、良(よ)き行(おこな)いを成(な)せし高(たか)き霊(れい)の神(かみ)を取(と)りて入(い)りしなり。又(また)此(こ)の高(たか)き霊(れい)の中(なか)に、良(よ)き行(おこな)いを成(な)し来(く)る人(ひと)も有(あ)り。又(また)悪(あし)き行(おこな)いを成(な)すも、貴人(きじん)又(また)僧(そう)等(ら)に浮(うか)べ貰(もろ)うて来(く)る人(ひと)も有(あ)り。又(また)何程(なにほど)浮(うか)べ貰(もら)うも、浮(うか)ばざる人(ひと)は浮(うか)ばず。此(こ)れ、浮(うか)べざるも浮(うか)ぶ人(ひと)は浮(うか)ぶ。又(また)其(そ)れ成(な)れば、霊(れい)の高(たか)き人(ひと)は徳(とく)成(な)らざるやと思(おも)うも知(し)らず。成(な)れど其(そ)れ異(い)なり。其(そ)れ霊(れい)の低(ひく)きは極楽(ごくらく)に行(い)く成(な)れば同(おな)じなり。此(こ)れ人(ひと)は、神(かみ)に成(なり)し方(ほう)は高(たか)きと思(おも)うも、此(こ)れ極楽(ごくらく)に行(ゆ)けば、佛(ぶつ)の如(ごと)く成(な)るなり。又(また)、又(また)此(こ)の所(ところ)に入(い)ると云(い)うも、唯(ただ)入(はい)れず。良(い)く身(み)を清(きよ)めて入(はい)るなり。此(こ)れ罪(つみ)無(な)くも人(ひと)と云(い)う外(そと)衣(い)を取(とり)し身(み)を清(きよ)め入(い)るなり。成(な)れば其(そ)れ極楽(ごくらく)は罪(つみ)無(な)ければ直(ただ)ちに入(はい)るに良(よ)し。此(こ)れ霊界(れいかい)は苦(くる)し。又(また)大神(おおかみ)の命(めい)に従(したが)い、四方(しほう)に走(はし)り働(はたら)く成(な)れば、正霊界(せいれいかい)は苦(くる)し。又(また)神(かみ)の命(めい)に働(はたら)く成(な)れば、高(たか)き霊(れい)を取(と)るなり。極楽(ごくらく)に行(ゆ)く者(もの)を正霊界(せいれいかい)に連(つ)れ来(く)るも、神(かみ)の役(やく)には立(た)たず。無用(むよう)なり。又(また)此(こ)れ、正霊(せいれい)の為(ため)は何程(なにほど)人(ひと)の為(ため)に成(な)るか計(は)かれざるが如(ごと)し。

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