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【連作短編小説】「ジャパニーズ・フィフティ・ピープル」(瀬戸 幹人)

 時期外れの人事異動があるらしい。
 幹人がそんな噂を聞いたのは部下の水田からだった。

「なんでも今いる部署でトラブルを起こした人がそこにいられなくなって、違う部署に飛ばされるらしいですよ」

 水田は二十代半ばと若い割にしっかりしていて、さらにどこから情報を仕入れているのか役所内部の情報通でもあった。

「まだ八月半ばなのに、なにがあればこんな時期に異動になるんでしょうね」

 にやりと笑う水田は何かを知っているのかもしれなかったが、幹人は特になにも聞かなかった。その噂話が自分に関係するなど思いもしなかったし、そうでもなければ役所内の噂話にはさほど興味もなかった。
 その二週間後だった、トラブルを起こしたとされる張本人が、幹人が係長を務める広報課広報係にやってきたのは。

「これからお世話になります新人の長谷川繭です。よろしくお願いします!」

 深々と頭を下げる長谷川は、異動元である企画課でトラブルを起こしてきたようにはとても見えなかった。
 新人と言うだけあって水田よりさらに若く、小柄だが芯の強そうな目と短めの髪が印象的だった。

「長谷川さんは広報係でしばらく広報誌作成の業務を手伝ってもらうね。あとは瀬戸係長から指示があると思うから」

 それだけ言って自席に座る課長の高木は明らかに関わりたくなさそうな様子で、その様子が幹人をさらに不安にさせた。

「じゃあ、とりあえず広報係の仕事を説明するから」
「はい、よろしくお願いします!」

 元気よく返事をする長谷川はやはりトラブルを起こすタイプには見えず、幹人は誰にも気づかれないように首を傾げた。


 幹人が自分の感覚が間違えていたことを知ったのは、長谷川が異動してきた翌週のことだった。
 特にトラブルなく一週間ほどが過ぎ、幹人も(おそらく課長の高木も)拍子抜けしていたところだった。

「納得いきません!」

 水田と長谷川がどうも話し込んでいるなと思っていたが、急に長谷川の大きな声がフロアに響いたのだった。

「どうしたの?」

 嫌な予感を覚えながら幹人が聞くと、珍しく立腹した様子の水田が状況を教えてくれた。
 曰く、広報誌には文章の使い方やレイアウトがあらかじめ定められているが、長谷川はその文章よりも伝わりやすい表現があると主張し、いくら水田が『役所の決まりごと』だからと言っても聞かないのだという。しばらく押し問答があり、最終的には長谷川が「納得いきません」と声を荒らげたということだった。
 俺が引き継ぐと水田に目で合図をして、幹人は長谷川から詳しく話を聞いた。
 話を聞くうちに、幹人には長谷川が事前に聞いていたより優秀な新人であることが分かった。
 長谷川の主張することには一理あり、確かに水田が作成した原案から文章とレイアウトを変えることで、伝わりやすさが向上するように思われた。ただ、それだけに惜しかった。

「長谷川さんの言うことはよく分かるけど、文章の作りやレイアウトは、アクセシビリティって言うんだけど、高齢者や障害のある人や色んな人が見ることを想定して役場全体で決まりを作って運用してるんだよ。だから一時的に見やすくなるからってその一部分だけを変えたりはできないんだ」
「でも、私、納得が……」
「この際、長谷川さんの納得は関係ないんだよ」

 少し厳しいかと思ったが、ここで言っておかないといけないと思った。
 長谷川はまだなにか言いたそうだったが、やがて諦めた様子で席に戻っていった。

 しかし、長谷川の主張はこれだけに留まらなかった。
 ことあるごとに自分の意見を主張し、特に水田と衝突した。水田も水田で保守的なところがあるため二人は特に馬が合わないようで、幹人が二人が話しているところを見ることは、ほとんどなくなってしまった。


「いやもう参ったよ」

 幹人がビールを流し込んでから言うと、佐々木は答えた。

「例の新人? 噂には聞いてるけど強烈らしいね」
「やっぱそっちでも噂になってる? 企画課が何ヶ月かで放り出すだけのことはあるよ」

 金曜の夜、幹人は同期で財政課の係長である佐々木 卓と役場近くの居酒屋まで飲みに来ていた。同期入庁の二人は入庁当初から気が合いよく飲みに来ていた。

「『納得いきません!』だろ。あれ入庁して三ヶ月目で町長にも言ったらしいよ。それが原因でそっちに飛ばされたって。ついたあだ名が『納得ちゃん』。聞いたことない?」

 そういえば水田がそんなあだ名を言っていた気がする。納得ちゃん、確かに彼女にピッタリのあだ名かもしれない。

「でもさ、俺、あの子のこと見てるとちょっと羨ましく思えるときあるよ」
「……って言うと?」
「俺と彼女、どう考えても正論を言ってるのは俺なんだよ。そうじゃなきゃ係長なんて務まらない」
「ああ」
「だけど、ほんとに町民の方を向いて仕事してるのってどっちなんだろうってさ、あのひたむきさを見てたら、そんな風に思うことがあるよ」
「敏腕係長様ともあろうお方が、新人に当てられちゃって」
「役所の花形の財政係のエースがからかうなよ」

 二人は笑って、残ったビールを流し込んだ。

「お前の言ってること、分かるよ」小さくゲップをしてから佐々木は言った。「昔は俺も、お前も、皆、そうだったのかもな」


 ある日、幹人にとって意外だったことに長谷川が限界を迎えた。
 月曜日のまだ午前十時前のことだった。フロアから誰かが泣いている声がすると思ったら、正面を見据えたまま長谷川が大粒の涙を流して泣いていた。

「ど、どうしたの? 体調悪くなっちゃった?」

 長谷川は首を振るだけで、何も答えてはくれなかった。

「とりあえず話聞くからこっちおいで」

 幹人が促すと長谷川は席を立ったので、とりあえず空いている会議室に入ると、長谷川は堰を切ったようにさらに激しく泣き始めた。

「どうしたの? 仕事、辛い?」

 幹人が尋ねると、長谷川は小さく何度か頷いてから言った。

「自分なりに、いろいろ考えて、役場をもっと良くしたいって、思ってるんですけど、全然上手くいかなくて一一」

 時々しゃくりあげながら、長谷川は手で顔を覆ったまま言う。

「前にいた企画課でも、『新人なんだから提案なんかせずに今あるルールに従え』って。でも、私、そんなの納得いかなくて、悔しくて、つい言い返しちゃって、そしたら、それから皆、素っ気なくなって……。気をつけようって思ったけど、ここでも私、同じことしてますよね。きっと私、この仕事、向いてないんです」

 長谷川の手からは涙が次々と零れていった。幹人は涙を拭ってあげたくなるのを堪えて、一言だけ言った。

「長谷川さんの気持ち、分かるよ」

 それは幹人の心の底から漏れ出た言葉だった。
 若い頃は、理不尽なことや納得できないことがそれこそ山のようにあった。
 ただ、時間や人員の制約や政治的な判断によってそのどれもを解決できないことを知った。
 悔しい、納得できない、いつしかそんな感情を抱くことは全くと言っていいほどなくなっていた。思えば係長の昇格が決まったのもそんなタイミングだった。

「俺にも分かる。少なくとも、俺にも昔は分かってはいたんだ」

 長谷川は涙と鼻水で濡れた酷い顔で、きょとんとした表情をしていた。それは幹人の言った言葉に驚いている様子だった。

「いろんなやり方はこれから覚えていく必要はあるかもしれないけど、俺は長谷川さんより公務員に向いてる人、いないと思うよ。辞めたらもったいないよ」

「あ、ありがとう、ございます」長谷川は深く頭を下げ、またしゃくりあげて泣いた。幹人は長谷川が落ち着くまで、それを見ていることしかできなかった。

 長谷川が加賀屋町役場を辞めたのはその三ヶ月後のことだった。
『納得ちゃん』が辞めてほっとしたという職員も多いと聞いたし、直接幹人にそのような声を掛けてくる職員もいた。
 ただ、幹人はただもったいないとだけ思った。
 長谷川と再び会う機会があるか分からないが、そのときには長谷川に言いたい言葉があった。

「俺もまた言えたよ、『納得いきません!』ってさ」

 幹人は今もその言葉を言う機会を伺っていた。




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