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自由であることの苦しみ

制限されている状態だと、人は自由を夢見る。自分もその一人だった。
囲われた箱の中にいると、箱の外に出れないこと、箱の外の景色が見れないことに不満を抱く。箱の中の環境が悪ければ悪いほど、箱の外への希望が募り、箱の外の自由への憧れが募る。

進撃の巨人で言う、大きな壁に囲われ、巨人の脅威から守られている国。
その中で享受する仮初の自由と壁の外で生きる本当の自由の違いと同じだ。

仮初の自由と決別するには、壁の外に出るしかない。

けれど、壁の外で見つけた本当の自由は、想像していた自由と異なるのではないかと言う疑問を最近抱くようになった。

本当の自由は、意外とシンドいということだ。

では、なぜシンドいのか、ずっとわからなかったが、
最近ようやく理解できた。そんな疑問の解決の一助となった本を紹介する。

中野信子 著 「脳の闇」

https://www.amazon.co.jp/脳の闇-新潮新書-中野-信子/dp/4106109832

この中の一説にこう書いてる

自由である、と言うことは、先にも書いたように一般的には良いことだとされているらしい。誰からも制約を受けず、自分の意思で選択し、何かを決めて、自分で責任を取る。理想的な響きだ。が、実は、自由である、ということは、私が勝手に負担を感じているばかりでなく、人間の脳にとって本質的に結構な負担なのだ、
学術的には「認知負荷」と呼ばれる。
選択の自由がない状況のほうがむしろ、負うべき責任や、余計なリスクのことを考えずに済むから、気持ちとしては楽なはずだ。
ヒトは本来、できるだけ不自由でありたいと望んでいる。自ら進んで制約のある状況を選び、檻に入りたがる。むしろ、制約がないと不安を感じ不快感にさいなまれるはずだ。
誰もが本心では、誰かに意思決定を委ねたいと思っている。欲しいのは、自由ではなくて、自分で決めているという実感だけだ。そしてできれば、責任を負いたくない。
人間は、本質的には、自由を回避していながら、それでも自由を求め続けるという葛藤状態のまま生きている。

また、こうも書いてある

中立に物事を見ることそのものにインセンティブは存在しない。だから、脳には元来そんな機能がない。各個体はその個体に適した(あるいは都合の良い)ものの見方をするように自然に方向づけられている。

すなわち、自由で中立を目指すととんでもなく脳は、エネルギーを消費するということだ。よって、脳が疲労し、かなりシンドいこととなる。

楽にある程度の幸せに生きるのであれば、「自由中立」目指すのではく、
制限された環境で、都合の良いものの見方をしながら生きた方が良い。

でも、自由中立の中にしか見えない景色もある。それを、見たくなったら壁の外に飛び出し、脳みそをフル回転させながら、シンドさに耐える必要がある。

良いことがないように見えるが、霞がかる景色の隙間に、時折垣間見える絶景は、私を魅了する。

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