口数が少ない人の饒舌な心

思い浮かぶすべての言葉が、自分を守る為だけに用意されているようで、落ち着かない。

それでもいいじゃないかと反対側の自分が主張する。それを受けた自分は、その言葉自体が、自己弁解そのものだと思う。

例えば何かを文章にした時点で、意識的にしろ無意識にしろ一つの主張が生じる。方向性が生まれた時点で、もう取り返しがつかない。完全に中立的な立場から生まれる文章などほとんどない。だから私は言葉、特に整った文章などは信頼できないと思うときがある。

何の迷いなく自己主張出来る人間がおかしいというわけではない。と文章を打った時点ですでにそんな人への批判的なニュアンスと、そう出来ない自分への慰めの意味が含まれていることに気づく。

最近は何か疑問に思った、もしくは迷っていることを、Googleなんかでキーワード検索すると、たくさんのブログに書かれた主張を読むことができる。本当に何でも出てくる。

でもそれは正しいから見つかるのではなく、自己弁解したいキーワードを自分で打ったからだ。

慰めてほしいだけ、後押ししてほしいだけの需要が高いから、多くの人が言葉を供給している。

自分が正論だと思う意見は、それが自分にとって正論であるだけではないのか。

だからと言って、本当の意味でポジショントークを排する事ができる人間なんているのか。それは良いことなのか。

自分の立場から意見を発する時は、確かに自分を守るため、言い訳めいた意見であることが多少なりともあるように思う。ただそれは結果として自分のためだけのものではなくなっていくこともある。そしてそこから生まれる意見の多様性や、自分や相手の無知を浮き彫りにする作用についてはどう考えるか。ソクラテスが対話を重視した理由がそこにあるのかな。生物の進化が多様性と偶然性によるものなら、議論の方法としても正しい戦略かも知れない。

一個人の主張が自分の慰めのためだと自覚しながらも、発し続ける事が出来るのかわからない。しかし少なくとも、こんな葛藤に縛られ、動けないでいる人間には現実をどうにかする力なんてない。

ジンテーゼを導き出すためには、こんな駄文をネットの海に流すよりも、この事を誰でもいいから口に出してぶつけてみる方がいいかもしれない。多分引かれるけど。

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