天理教手柄山分教会報より「逸話篇を学ぶ」(2024年前半掲載分)

93 八町四方 (2024年1月掲載)

 ある時、教祖は、中南の門屋にあったお居間の南の窓から、竹藪や田圃ばかりの続く外の景色を眺めておられたが、ふと、側の人々に向かい、
「今に、ここら辺り一面に、家が建て詰むのやで。奈良、初瀬七里の間は家が建て続き、一里四方は宿屋で詰まる程に。屋敷の中は、八町四方と成るのやで。」
と、仰せ下された。

 
 天理駅前に大きなホテルが建ちましたね。これだけ詰所があるのに宿泊客なんてあるんだろうかと思っていましたが、駐車場には連日沢山の車が止まっているので驚いています。
 今までずっと「一里四方は宿屋で詰まる」の宿屋とは詰所の事だと思っていました。親里の地図を眺めていると一番北にある越知詰所から南にある平安詰所までがだいたい四キロくらい、おぢばから一番西の亀岡や幅下詰所までが二キロ余、東の山側にある白羽詰所までは少し短い距離ですが、おおよそ一里四方くらいかななどと思っていたのです。でも教祖は詰所のことを宿屋と仰せになるだろうかと疑問に思いました。もちろん詰所は大勢の信者がおぢばがえりの際に宿泊しる場所です。でも、もっとも大きな役割は修養科生や講習生と初めてして多くの人々が修養したり教義の研鑽に励む場所であるはずなのです。そんなことを考えていると他にも疑問がわいてきました。奈良、初瀬七里の間に立て続いている家に住む人々はお道の人ばかりだろうか。八町四方に成ると仰せられた屋敷にはどんな施設があってどんな人々がいるのだろう。学校や病院も入っているんだろうか。そんなことを騒動していて、ふと思いました。
「教祖はなぜ、このようは話をなされたのだろう?」
 決して未来のことを予言できる神様ってすごいだろうと自慢するためにこんな話をなされたのではないはずです。そう思ってしばらくの間、考えました。そうして考えているうちに気づきました。教祖は、私たち人間に未来を夢見させるために、お道や親里の未来を想像させるために、このような話をなさったのではないだろうか。
 今年は元日から大地震が起こり、空港での大きな事故が発生しました。夢見たような未来にならないどころか、思いもよらぬことが起こって右往左往するのが世の常かもしれません。でも、夢を見たその中に、未来への希望がまぎれているように思います。
 新しい年は、決して喜べるような形ではじまることはありませんでしたが、それでも精一杯、素晴らしい未来を想像して、今年も頑張っていきたいと思います。
 
 
54 心で弾け(2024年2月掲載)

 
飯降よしゑは、明治十年十二才の時から三年間、教祖から直き直き三味線をお教え頂いたが、その間いろいろと心がけをお仕込み頂いた。教祖は、
「どうでも、道具は揃えにゃあかんで。」
「稽古出来てなければ、道具の前に坐って、心で弾け。その心を受け取る。」
「よっしゃんえ、三味線の糸、三、二と弾いてみ。一ッと鳴るやろが。そうして、稽古するのや。」
と。

 
 
 
 昔の先生方は、楽譜もないのにどうやって鳴物の練習をなさったのだろう。そんな疑問を抱いたのは、筆者が本部勤務をしていた二十年以上前、香港に初めて訪れた時のことでした。
 鳴物譜には、ひらがなで書かれたみかぐらうたの傍に画数の多い旧字体の難しい漢字がルビとしてふってあったのです。そうして、その譜面を使って練習される方々の熱心さに驚かされました。「どうでも、道具は揃えにゃあかんで。」との言葉は、海外で暮らす大勢の教友の方々が大切にされている言葉であることを知ったのも海外部に入ってからでした。海外に渡られた大勢の先人の先生方が、なんとかおつとめをしたいと、現地で手に入るものを工夫して鳴物を製作された話を聞いたり写真を見たりしたからです。
「三味線の糸、三、二と弾いてみ。一ッと鳴るやろが。そうして、稽古するのや。」
 三味線の先生に教わるでもなく、教祖に教えられた通り、一つ一つの音を探りながら練習なされた飯降よしゑ先生の姿を想像すると、一体私たちはどれほど真剣におつとめの練習をしてきただろうと恥ずかしくなってきます。
「稽古出来てなければ、道具の前に坐って、心で弾け。その心を受け取る。」
 ここまで厳しい言葉をもって神様が受け取ると仰せられた「心で弾け」とはなんでしょう。どうして神様はここまで厳しく真剣に、鳴物を揃えることやおつとめの練習をすることを人間に伝えられたのでしょう。
 楽しむだけなら、もっと楽しい踊りの方が楽しめる気がするのですが、教祖伝には「つとめに、手がぐにや/\するのは、心がぐにや/\して居るからや。一つ手の振り方間違ても、宜敷(よろしく)ない。このつとめで命の切換するのや。大切なつとめやで。」と、もっと厳し言葉の出てきます。 どうしてだろうと考えていたら、やはり「心で弾け」の言葉が引っ掛かりました。心で弾けと仰せられているということは、心の音が神様には聞こえているということです。愚痴を思ったり不平不満を思ったりしながらお勤めをしていても、それも聞こえているということです。おてふりとしながら、全然違うことが心に浮かんでも、それも神様に聞こえているということです。もっと言えば、私たちは普段の生活の中で、心に浮かぶこと全てを神様はお聞きになられている……、そう思ったら、とっても恐ろしくなってきました。
 戦場や病院の呻き声も災害や犯罪や独裁国家の恐ろしい施設での絶望も、全て一秒の絶え間もなく神様は聞いておられるんですよね。
 その声を、少しでも幸せの声にするために神様は私たちにおつとめを教えられているのです。だからこそ、真剣につとめないといけないし、教祖は先人の先生方に厳しい言葉でおつとめの大切さをお教え下さったのだと思います。
 
 
18 理の歌 (2024年3月掲載)
 
 十二下りのお歌が出来た時に、教祖は、
「これが、つとめの歌や。どんな節を付けたらよいか、皆めいめいに、思うように歌うてみよ。」
と、仰せられた。そこで、皆の者が、めいめいに歌うたところ、それを聞いておられた教祖は、
「皆、歌うてくれたが、そういうふうに歌うのではない。こういうふうに歌うのや。」
と、みずから声を張り上げて、お歌い下された。次に、
「この歌は、理の歌やから、理に合わして踊るのや。どういうふうに踊ったらよいか、皆めいめいに、よいと思うように踊ってみよ。」
と、仰せられた。そこで、皆の者が、それぞれに工夫して踊ったところ、教祖は、それをごらんになっていたが、
「皆、踊ってくれたが、誰も理に合うように踊った者はない。こういうふうに踊るのや。ただ踊るのではない。理を振るのや。」
と、仰せられ、みずから立って手振りをして、皆の者に見せてお教え下された。
 こうして、節も手振りも、一応皆の者にやらせてみた上、御みずから手本を示して、お教え下されたのである。
 これは、松尾市兵衞の妻ハルが、語り伝えた話である。

 
 
「皆、踊ってくれたが、誰も理に合うように踊った者はない。こういうふうに踊るのや。ただ踊るのではない。理を振るのや。」
 教祖のお言葉に「理を振る」とはどういうことだろう。「理」とは何だろうと考えた方も大勢おられると思います。その言葉の意味を最も深く考えられたのが、松尾市兵衛先生の奥様、ハル先生であったからこそ、この御逸話篇に名前がでてくるのではないかと私は思います。
 松尾先生ご夫妻の入信は、元治元年と書かれたものと慶応二年と書かれたものの二種類があったので、どちらが正しいのかわかりませんでした。どちらにしても三女の出産のときに難産となり産後の肥立ちが悪かったのを救けられ、そして入信後まもなく、教祖から直接おてふりを教わったそうです。
 教祖は明治6年に飯降伊蔵先生にかんろだいのひながたの制作を命じられ、翌7年に赤衣を召され、8年にぢば定めをなされるのですが、その前、つまり明治5年に75日の断食を行われています。きっと「つとめの完成」の為に、この断食が必要であったと思うのですが、この断食の最中に松尾家へおたすけに赴かれました。長男楢蔵さんが結核を患われたのだそうです。勉強が好きで将来大阪や京都へ勉強に行きたいと考えておられたそうです。市兵衛先生も非常に可愛がられていたようで、ハル先生は「もっと他の子供たちも同じように可愛がってくれたら」と思うほどだったそうです。
 お屋敷の人々は教祖が断食中であることを理由に、一旦は市兵衛先生の願い出を断られました。が、それでもと再度お願いをされ、教祖がおたすけに赴かれることになったようです。ご滞在中の間、市兵衛先生夫妻は精一杯に教祖をおもてなしなされるのですが、どうも空回りされていたようにも感じられます。
 教祖にお喜びいただきたいと精一杯の御馳走を作られますが、教祖は断食中ですので水と塩しか召し上がられません。服装も粗相のないように一張羅の絹の羽織を着て御挨拶に上がられますが、木綿の普段着でよいと言われていまします。そんな中、教祖が最もお喜びになられたのは、仰せ通りに、お社を祀られたことでした。
 長男の楢蔵さんは、その後一旦は元気になられたのですが、結局は二年後の明治七年に出直されてしまいました。教祖が、お大和神社へ行って、どういう神様であるかを尋ねてこいと仲田義三郎先生と市兵衛先生に仰せられたのは、長男楢蔵さんが亡くなられてそのわずか数か月後のことです。そうして、翌年の明治8年にぢば定めが行われたのでした。 御主人の市兵衛先生はその数年後、おふでさきに
    にちへに神の心わせゑたとて
    人ぢう十人そろいなけねば (六号20)
    十人のなかに三人かたうでわ
    火水風ともしりそくとしれ (六号21)
「註 かたうでは、片腕の意。東若井の松尾市兵衞、竜田の乾勘兵衞、大西の北野勘兵衞の出直しを見て、当時の人々は、このお歌に思い当たったという。」とあるように40代の若さで出直されています。反対に、ハル先生は大正12年5月1日、89歳まで長生きをされているということです。 きっと松尾ハル先生は、晩年まで大勢の方々に教祖から直接教わったおてふりを、お教え下さっていたのだと思います。そうしてそのときに、御逸話にあるような教祖のお言葉をお伝えくださっていたのだろうと想像しています。「理を振る」とはどういうことだろう。「理」とは何だろう。考えれば考えるほど難しく思えるのですが、ハル先生の人生の中に、そのヒントがあるように思うのです。
 
 
 
 
 
 
120 千に一つも (2024年4月掲載)
 
 明治十六年の春頃、山沢為造の左の耳が、大層腫れた時に、教祖から、
「伏せ込み、伏せ込みという。伏せ込みが、いつの事のように思うている。つい見えて来るで。これを、よう聞き分け。」
との言葉を聞かせて頂いた。又、
「神が、一度言うて置いた事は、千に一つも違わんで。言うて置いた通りの道になって来るねで。」
と、聞かせて頂いた。それで、先に父の身上からお聞かせ頂いたお言葉を思い起こし、父の信仰を受けつがねばならぬと、堅く心に決めていたところ、母なり兄から、「早く身の決まりをつけよ。」とすすめられ、この旨を申し上げてお伺いすると、教祖は、
「これより向こう満三年の間、内の兄を神と思うて働きなされ。然らば、こちらへ来て働いた理に受け取る。」
と、お聞かせ下された。

 
 
 詰所にいるせいか山澤先生とお聞きしてまず思い浮かべるのは、おてふり概要を書かれた山沢為次先生です。為造先生はそのお父様でいらっしゃいます。 
 さて、先生は安政四年(1857年)の生まれですから、この御逸話は山沢先生が二十七歳くらいのことだと思われます。お父様の良助先生が熱心に信仰なされていたので、子供の頃から何度もお屋敷に足を運ばれていたそうです。
 頭の良い方であったようで、堺にあった師範学校へ入られたそうですが脚気を患われて志半ばで帰郷されました。その後たすかりたい一心でお屋敷に通われるのですが、なかなか体調がよくなりません。辻忠作先生に相談されると「それでええのや。今、もしあんたの身上が鮮やかに御守護を頂いたら、またすぐ学校へ行きたくなるやろう。神様はあんたに道の理を仕込みたいうえから、こうして引き留めて下さっているのや」と諭されたそうです。でも山澤先生は先生になる夢を捨てきれません。師範学校には専修科というものがあって、短期間の授業を受けるだけで小学校の代用教員の資格がもらえると知り、その試験を受けられたそうです。でも、その頃に父である良助先生が重い身上を患われます。コレラであったようです。そうして為造先生も先生になる夢を捨ててお道一条で通る決心をなさるのですが、この御逸話は、そのころの御逸話になります。
 この御逸話の三年後、為造先生は教祖の孫のひさ様と結婚なさるのですが、それはつまり教祖がお姿を隠される一年前のことです。「神が、一度言うて置いた事は、千に一つも違わんで。」やがて為造先生がこの道の中心人物の一人として人々を引っ張っていく、未来の先生のお姿をご覧になられての、教祖のお言葉かもしれませんね。
 
142 狭いのが楽しみ(2024年5月掲載)
 
 深谷源次郎が、なんでもどうでもこの結構な教を弘めさせて頂かねば、と、ますます勇んであちらこちらとにをいがけにおたすけにと歩かせて頂いていた頃の話。当時、源次郎は、もう着物はない、炭はない、親神様のお働きを見せて頂かねば、その日食べるものもない、という中を、心を倒しもせずに運ばして頂いていると、教祖はいつも、
「狭いのが楽しみやで。小さいからというて不足にしてはいかん。小さいものから理が積もって大きいなるのや。松の木でも、小さい時があるのやで。小さいのを楽しんでくれ。末で大きい芽が吹くで。」
と、仰せ下された。

 
 
 
 
 どうして、小さいの前に、狭いという言葉がくるんだろう?と、不思議に思っていたのは、もしかしたら筆者が八人兄弟の大家族で育ったからかもしれません。少しぐらい小さな部屋でも、憧れの一人部屋なら狭いなどと思わないような気がしていたからです。と書き始めたのは、小さいに対して大きくなるという表現は出てきたけれど、狭いに対して広くなるというお言葉が出てこないからです。
 最初はどれほど、小さくても頑張ればだんだんと大きくなるんだよという非常に分かりやすいのですが、どうして小さいの前に狭いという言葉がくるのか、疑問に思ったのです。
 でも僕はどんな時に狭いと感じていたかと考えて気づきました。私にとって狭いと感じていた時は、子供が不登校の間だったからです。このさき、どうなるんだろう。子供の心配ばかりしていたら、なんとなく部屋ゴロゴロしている子供が鬱陶しく思えて狭い部屋に思えていたのです。でも、この春、高校の寮へとうつっていき、ほっとして見ると、狭くなっていたのは部屋ではなくて、自分の心だったのではと気づきました。
 御存じの方が多いと思いますが、深谷源次郎先生は、河原町大教会の初代会長様です。少年会の絵本にも「けっこう源さん」の名前で登場する一番喜ぶのが上手な先生です。そうして河原町大教会といえば、もっとも沢山の教会が枝分かれしていった、大きく広がっていった教会です。その先生に、教祖は「小さいからというて不足にしてはいかん。」と仰せされているのです。「狭いのが楽しみ」とは、もしかしたら、狭くなった心を、楽しみへと変えていくことの大切さを仰せになられているのかなあと思います。深谷源次郎先生は晩年、病人は喜ばさにゃ神様の御守護はない。いずますようではたすからん。陽気に神が入り込んでくださるのや」と繰り返し人々に語られていたそうです。(『〝逸話の心〟たずねて』257頁より) 私も、心配ばかりしないで、楽しんで子育てができるような広い心を持てる親になりたいなあと反省しました。


 
85 子供には重荷(2024年6月掲載)
 
 明治十四年晩春のこと。ここ数年来、歯の根に蜂の巣のように穴があき、骨にとどいて、日夜泣き暮らしていた松井けい(註、当時三十一才)は、たまたま家の前を通りかかった鋳掛屋夫婦のにをいがけで、教えられた通り、茶碗に水を汲んで、
 なむてんりわうのみこと
と唱えて、これを頂くと、忽ち痛みは鎮まり、二、三日のうちに、年来の悩みがすっきり全快する、というふしぎなたすけを頂いた。
 そのお礼詣りに、磯城郡耳成村木原から、三里の道のりを歩いて、おぢばへ帰り、教祖にお目通りした。教祖は、三升の鏡餅を背負うて来た、当時八才の長男忠作に、お目をとめられて、
「よう、帰って来たなあ。子供には重荷やなあ。」
と、お言葉を下された。
 忠作は、このお言葉を胸に刻んで、生涯忘れず、いかなる中も通りきって、たすけ一条に進ませて頂いた。

 
 
 梅雨ですね。傘を差しながら御本部で参らせて頂いたとき、ふと雨水を貯める用水鉢に目が行きました。この用水鉢は大正・昭和普請の際、明城大教会が献納されのだそうです。 今月は、その明城大教会の基礎を作られた松井けい先生と息子さんの松井忠作先生の御逸話です。
「よう、帰って来たなあ。子供には重荷やなあ。」
 このお言葉は、もちろんお二人に教祖がおかけになった言葉ですが、受け取る側の二人、お母さんのけい先生と息子である忠作先生では、受け取り方が違うように思います。
 八歳の忠作先生は、もちろん自分が頑張って運んだのですから、しんどかったことや頑張ったころを分かってもらって、褒めてもらって手放しに嬉しい気持ちでいっぱいのはずです。ですから忠作先生が生涯忘れなかったのは、その教祖に喜んで頂けたという純粋な喜びなのです。対して母親であるけい先生はどうでしょう。もちろん可愛い我が子が頑張って褒められたのですから、うれしい気持ちもあると思います。
 でも、それだけでしょうか。
 お母様のけい先生も、身上の悩み以外に、心にも大きな重荷を背負っておられたのではないかと思うのです。それはたぶん御主人のことです。というのも、松井家は本来裕福な農家であったにも関わらず、忠作先生が十八歳で家督を継ぐ頃にはほぼ一文無しになっていたそうなのです。ですからきっと、けい先生は、教祖の言葉で、心が軽くなったのではと推測するのです。そうして母親であるけい先生の喜びはきっと息子である忠作先生に伝わったと思うのです。ですから忠作先生にとっても一生忘れられない言葉となり、喜びとなったのだと思うのです。
  ところで「重荷」という言葉をきいて、私には分からないでいることがあります。それはいろんな先生方の講話にでてくることなのですが、「神様は背負えない荷物や苦労はお与えにならない」という意味の言葉です。似たような意味の言葉を聞かれた方は多いと思います。もちろん自分から苦労を求めて頑張っている人にとっては素晴らしい言葉に思います。でも、本当に心が折れそうになったとき、教祖はそんなことを仰せになるかなあと思うのです。なぜなら神様の目には多くの心が折れてしまった人が見ていると思うからです。戦争や悪政や災害など、どうしようもない境遇の中でもがいている人々の姿が見えていると思うのです。ですから、決して神さまは自分の背負えるだけの苦労や重荷を与えて下さっているのではなくて、どれほどの苦労や苦しみに出会ったときでも、なんとか自分で背負えるようにと神様は応援して下さっているのだと思います。
 「子供には重荷やなあ。」それは、たぶん私たちが苦しくて投げ出したくなるようなとき、そばで教祖が応援して下さっている言葉なのかもしれません。私たち一人ひとり、すべての人間は神様の子供なのですから。
 
 
 
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?