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天理教手柄山分教会報より「逸話篇を学ぶ」(2018年後半掲載分)

38 東山から    (2018年7月掲載)
 
 明治七年頃、教祖は、よく、次のような歌を口ずさんでおられた、という。
「東山からお出やる月は
 さんさ小車おすがよに
 いよさの水車でドン、ドン、ドン」
 節は、「高い山から」の節であった。


 若い頃、どうしてこのような逸話まで、収める必要があるのか、はなはだ不思議でした。『節は、「高い山から」の節であった。』と、あっても、「高い山から」なんて歌も知らないしと、思っていました。でも、インターネットで調べると、「高い山から」という民謡が、全国のあちらこちらで歌われていたことが解ります。「♪高い山から谷底見れば瓜やなすびの花盛り~」
 節や歌詞が少しずつ違うので、教祖の歌われていた節回しが、いったいどのようなものであったか、私には判別できませんでしたが、御逸話篇が編纂された当時、先人の先生方は、当たり前のように、「高い山から」の節回しをご存じでったのかもしれませんね。まったくこの歌を知らなかった私でも、いろいろな節回しを聞き比べると、きっと、このような節回しだったのだろうなと、想像することくらいはできたように思います。
 この御逸話はつまり、教祖の歌声はどのようなものだったのだろうかと、私達が想像できるきっかけになっているような気がします。毎月、教会報を作らせて頂いていますが、年配の先生方が当たり前のように知っている事でも、今まで聞いた事がなかったというようなことがよくあります。私が当たり前のように覚えている、父や富子祖母、或いは昭栄保育園の記憶も、子供たちにとっては、想像すらできないことがあるかもしれません。どんな些細なことでも、教祖のことを後生に伝えようと努力された先人の先生方のように、私達自身も、今の教会の姿や頑張ってこられた方々のことを、後生に伝える努力を怠ってはいけないように思います。
 
   196 子供の成人    (2018年8月掲載)
 
 教祖の仰せに、
「分からん子供が分からんのやない。親の教が届かんのや。親の教が、隅々まで届いたなら、子供の成人が分かるであろ。」
と、繰り返し繰り返し、聞かして下された。お蔭によって、分からん人も分かり、救からん人も救かり、難儀する人も難儀せぬようの道を、おつけ下されたのである。


 こどもおぢばがえりがはじまると、詰所の中にある私達家族の部屋は、もうひっちゃかめっちゃか。私や家内が忙しいだけでなく、それをいいことに子供たちが好き放題に遊び散らかした上に、まったくと言っていいほど、お片付けをしないからです。
 大声で怒鳴りつけて叱りつけたい衝動に襲われるのですが、そんなときに思い浮かぶのがこの御逸話です。
 毎年、同じように部屋をグチャグチャにする子供たちの顔を思いながら、今年もこの御逸話を読んで、はっとしました。
『子供の成人が分かるであろ。』とあるのです。親の教えが届いて、子供が成人するわけではないのです。子供は、ずっと成人し続けているのに、親である私が気づいていないだけなのです。そう考えると『親の教が届かんのや。親の教が、隅々まで届いたなら』とあるのも、隅々まで、届かないのは私の心が澄んでいないから、私自身に神様の教が隅々まで届いていないということになります。だから子供の成人に気づいていない私がいるだけなのです。
 親神様は、いつでもどんな時も、子供である人間が少しでも陽気ぐらしに近づけるように、成人させてくれているのに、心が澄んでいない私は、子供たちのことを、あれもできていない、これもできていないと、勝手に不満に思っているだけなのかもしれません。みんな、いつも怒ってごめんね。
  にち/\にすむしわかりしむねのうち
  せゑぢんしたいみへてくるぞや(6-15)
 
   130 小さな埃は  (2018年9月掲載)
 
 明治十六年頃のこと。教祖から御命を頂いて、当時二十代の高井直吉は、お屋敷から南三里程の所へ、おたすけに出させて頂いた。身上患いについてお諭しをしていると、先方は、「わしはな、未だかつて悪い事をした覚えはないのや。」と、剣もホロロに喰ってかかって来た。高井は「私は、未だ、その事について、教祖に何も聞かせて頂いておりませんので、今直ぐ帰って、教祖にお伺いして参ります。」と言って、三里の道を走って帰って、教祖にお伺いした。すると、教祖は、
「それはな、どんな新建ちの家でもな、しかも、中に入らんように隙間に目張りしてあってもな、十日も二十日も掃除せなんだら、畳の上に字が書ける程の埃が積もるのやで。鏡にシミあるやろ。大きな埃やったら目につくよってに、掃除するやろ。小さな埃は、目につかんよってに、放って置くやろ。その小さな埃が沁み込んで、鏡にシミが出来るのやで。その話をしておやり。」
と、仰せ下された。高井は、「有難うございました。」とお礼申し上げ、直ぐと三里の道のりを取って返して、先方の人に、「ただ今、こういうように聞かせて頂きました。」と、お取次ぎした。すると、先方は、「よく分かりました。悪い事言って済まなんだ。」と、詫びを入れて、それから信心するようになり、身上の患いは、すっきりと御守護頂いた。

 
 夏休みが終わりました。我が家では子供たちが、たまりに溜まった宿題を、お母さんに叱られながらしていました。もっと、毎日こつこつと頑張っておけばと言いそうになったときに、浮かんだのが、この御逸話です。
 高井猶吉先生は文久元年(1861)の生まれと聞かせて頂いているので、明治16年(1883)は22才の頃の話ということになります。まだまだ血気な盛りですから、三里の道のりを走ると言っても、それほどのことと思われるかもしれませんが、高井先生は二才の時に大けがをされていて、実家の農業を継がずに、桶屋へ奉公に出されるほど、足が不自由であったそうです。それなのに、ちょっと解らないことがあっただけで、三里の道を少しも邪魔くさいと感じる事もなく、自分の考えで適当に話す事もなく、走って教祖の元へ伺いに行かれているのです。
 普段、子供たちの散らかした部屋や食べた後の食器を片づけることなく、邪魔くさがって、ついつい家内が戻ってくるまで放っておこうする私は、恥ずかしさで顔が真っ赤になってしまいそうです。
 「教祖から聞かせて頂いた話を、わしは何回でも同じ話をする。自分の考えや勝手な言い廻しは一言も入っていない」と後年、語られていたそうです。(天理教事典より)
 この御逸話の翌年、不思議な夢を見た高井先生は、その夢も様子を教祖にお伝えすると、「まだ、早いと思うたけど、先に渡しておく。結構な徳を頂くのやで」と「息のさづけ」を頂かれたそうです。小さな埃の心遣いを、いつも邪魔くさがることなく、小まめに掃除するような高井先生であったからこそ「息のさづけ」が頂けたのかもしれませんね。
 
   74 神の理を立てる (2018年10月掲載)
 
 明治十三年秋の頃、教祖は、つとめをすることを、大層厳しくお急き込み下された。警察の見張、干渉の激しい時であったから、人々が躊躇していると、教祖は、
「人間の義理を病んで神の道を潰すは、道であろうまい。人間の理を立ていでも、神の理を立てるは道であろう。さあ、神の理を潰して人間の理を立てるか、人間の理を立てず神の理を立てるか。これ、二つ一つの返答をせよ。」
と、刻限を以て、厳しくお急き込み下された。。
 そこで、皆々相談の上、「心を定めておつとめをさしてもらおう。」ということになった。
 ところが、おつとめの手は、めいめいに稽古も出来ていたが、かぐらづとめの人衆は、未だ誰彼と言うて定まってはいなかったので、これもお決め頂いて、勤めさせて頂くことになった。
 又、女鳴物は、三味線は飯降よしゑ、胡弓は上田ナライト、琴は辻とめぎくの三人が、教祖からお定め頂いていたが、男鳴物の方は、未だ手合わせも稽古も出来ていないし、俄かのことであるから、どうしたら宜しきやと、種々相談もしたが、人間の心で勝手には出来ないという上から、教祖に、この旨をお伺い申し上げた。すると、教祖は、
「さあさあ鳴物々々という。今のところは、一が二になり、二が三になっても、神がゆるす。皆、勤める者の心の調子を神が受け取るねで。これよう聞き分け。」
という意味のお言葉を下されたので、皆、安心して、勇んで勤めた。山沢為造は、十二下りのてをどりに出させて頂いた。場所は、つとめ場所の北の上段の間の、南につづく八畳の間であった。


 私毎で恐縮ですが、自分自身がリズム音痴だと知ったのは、中学三年生の夏休みです。すりがねの打ち方が、ずいぶんとずれていたらしいのです。もっと小さな頃、小学校の低学年くらいに、注意されて直された記憶があるのですが、中学生ともなると、誰からも注意されなくなっていました。だから間違っているという自覚すらなかったのです。違うと知ったのは、こどもおぢばがえりの教区ひのきしんに参加したからでした。父が教区で勤めて下さっていたおかげかもしれません。御本部の朝の学びで、すりがねを勤めさせて頂くことになったのでした。十一下り目、十二下り目でした。前日の練習の時、少年会の先生があまりの下手くそさに驚いて、何度も何度も繰り返し、教えて下さいました。でも、何がどう違うのか、私にはまったく分からないままでしたから、全然なおらりません。私にだけ、泣きそうになるくらい、繰り返し教えて下さいました。内心、誰かと鳴物を交代させるか、或いは私と誰かを交代させたらいいのにとも思うくらいだったのですが、先生は、何度も何度も、根気よく教えて下さいました。翌朝、無事勤めさせて頂いた後、「よく頑張った」と褒めて頂いた事は、人生の宝物の一つになっています。何よりもあの時、教祖殿御用場で感じた「音が揃うって気持ちいいな」という、不思議な感覚は、今でも忘れることができません。
「皆、勤める者の心の調子を神が受け取るねで。これよう聞き分け。」
 これを書きながら、今、私は、あの時と同じくらい真剣に、毎日のおつとめをしているだろうかと思い返し、急に恥ずかしくなってきました。
 しっかりと反省して、真剣におつとめをつとめなければと、改めて考えさせられました。
 
   48 待ってた、待ってた  (2018年11月掲載)
 
 明治九年十一月九日(陰暦九月二十四日)午後二時頃、上田嘉治郎が、萱生の天神祭に出かけようとした時、機を織っていた娘のナライトが、突然、「布留の石上さんが、総髪のような髪をして、降りて来はる。怖い。」と言うて泣き出した。いろいろと手当てを尽したが、何んの効能もなかったので、隣りの西浦弥平のにをいがけで信心するうち、次第によくなり、翌月、おぢばへ帰って、教祖にお目にかからせて頂いたところ、
「待ってた、待ってた。五代前に命のすたるところを救けてくれた叔母やで。」
と、有難いお言葉を頂き、三日の間に、すっきりお救け頂いた。時に、ナライト十四才であった。

 
 先日、長女の別席願書と席札を書かせて頂きました。天理高校への提出は年明けですが、少しでも早くと思うのは、きっと親バカだからでしょう。詰所におらせて頂いているので、子供たちの願書を書く事ができ、本当に有り難いと思います。
 ところで、別席とは、どうして別席というのか疑問に思われた方はおられませんか。私も疑問に思って、以前、調べたことがあります。
 分かったのは、まず「本席」の意味がちゃんと分かっていなかったことでした。それまで私は漠然と、飯降伊蔵先生が本席と呼ばれる所以は、扇の伺いによっておさしづを出されていたからだと思っていました。それも間違いとまでは言えませんが、第一義には、人々におさづけの理を渡される席が「本席」なのだそうです。飯降伊蔵先生はおやさまが現身を隠された後、存命の理をを受けて人々におさづけの理を渡されました。ですから、その後、おさしづによって、本席という立場になられたのです。そしておさづけの理を頂けるような心にならせて頂く為に、本席とは別に席を設けてお話を聞かせて頂くことを別席というのだそうです。また、おさづけの理を頂いた後、おさづけを取次ぐための心構えを聞かせて頂く席を仮席というのだそうです。
 上田ナライト先生は、おさしづにより飯降伊蔵先生の後を受けて、おさづけの理をお渡し下さるようになった先生です。
「待ってた、待ってた」
教祖の言葉の向こう側には、集いくる大勢の子供たちが、おさづけの理を頂いて、ようぼくとなり、次々に成人して人助けに励む、そんな光景があるのかもしれません。
 
    35 赤衣  (2018年12月掲載)
 
 教祖が、初めて赤衣をお召しになったのは、明治七年十二月二十六日(陰暦十一月十八日)であった。教祖が、急に、
「赤衣を着る。」
と、仰せ出されたので、その日の朝から、まつゑとこかんが、奈良へ布地を買いに出かけて、昼頃に帰って来た。それで、ちょうどその時、お屋敷へ手伝いに来ていた、西尾ナラギク(註、後の桝井おさめ)、桝井マス(註、後の村田すま)、仲田かじなどの女達も手伝うて、教祖が、
「出来上がり次第に着る。」
と、仰せになっているので、大急ぎで仕立てたから、その日の夕方には出来上がり、その夜は、早速、赤衣の着初めをなされた。赤衣を召された教祖が、壇の上にお坐りになり、その日詰めていた人々が、お祝いの味醂を頂戴した、という。

 
 『「あかぎ」ではなく「あかき」と濁りません。』
 昔、ある先生に注意されてからは、気をつけて読むようになりました。確かに着物の「着」ならば「おつとめ着」のように「ぎ」と濁る事もありますが、「衣」を「ぎ」と濁る事は少ないかもしれませんね。
 ところで、教祖はどうして赤衣を召されるようになったのでしょう?疑問に思われた方はおられませんか。私も、どうしてだろうと考えて調べたことがあるのですが、未だに答えは分かりません。
 ただおさづけを取り次いだり、或いは教祖伝御用場に参拝したりして、教祖を想像するとき、やっぱりまず思い浮かべるのは赤衣ではないでしょうか。
 それから明治七年12月26日という日にも理由があるのかもしれません。明治五年に75日の断食をされたあと、別火別鍋。翌明治6年には甘露台のひながたが出来、明治七年に入ると、かぐらづとめの面が出来上がります。こうして「つとめ」の準備が出来てきた時に教祖がなされたことは、仲田儀三郎、松尾市兵衞の両名に対して、「大和神社へ行き、どういう神で御座ると、尋ねておいで。」ということでした。結果として教祖は、当時、最も恐れ多いと思われていた山村御殿へと連れて行かれるのですが、その日が12月23日。その3日後に教祖は赤衣を召されたのです。そうして翌明治8年、満を持して行われたのが、「ぢば定め」でした。
 そう考えていくと、人々に、「どういう神様」と教えたかったのは、「親神様」のことであり、「ぢばの理」や「教祖の立場」を人々に示し、そうして何よりもそれは、「つとめの完成」の為に、大きく関わってくるような気がするのです。
 

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