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天理教手柄山分教会報より「逸話篇を学ぶ」(2022年前半掲載分)

139 フラフを立てて (2022年1月掲載)
 
 明治十七年一月二十一日(陰暦 前年十二月二十四日)諸井国三郎は、第三回目のおぢば帰りを志し、同行十名と共に出発し、二十二日に豊橋へ着いた。船の出るのが夕方であったので、町中を歩いていると、一軒の提灯屋が目についた。そこで、思い付いて、大幅の天竺木綿を四尺程買い求め、提灯屋に頼んで旗を作らせた。
 その旗は、白地の中央に日の丸を描き、その中に、天輪王講社、と大きく墨書し、その左下に小さく遠江真明組と書いたものであった。一行は、この旗を先頭に立てて、伊勢湾を渡り、泊まりを重ねて、二十六日、丹波市の扇屋庄兵衞方に一泊した。
 翌二十七日朝、六台の人力車を連らね、その先頭の一人乗りにはこの旗を立てて諸井が、つづく五台は、いずれも二人乗りで二人ずつ乗っていた。
 お屋敷の表門通りへ来ると、一人の巡査が、見張りに立っていて、いろいろと訊問したが、返答が明瞭であったため、住所姓名を控えられただけですんだ。
 お屋敷へ到着してみると、教祖が、数日前から、
「ああ、だるいだるい。遠方から子供が来るで。ああ、見える、見える。フラフを立てて来るで。」
と、仰せになっていたので、お側の人々は、何んの事かと思っていたが、この旗を見るに及んで、成る程、教祖には、ごらんになる前から、この旗が見えていたのであるなあ、と感じ入った、という。


 フラフとはオランダから伝わった外来語で旗のことだそうです。当時、当たり前のようにカタカナの外来語が日常の会話の中で使われていたと想像すると、ちょっと不思議な気がしますね。
 今年も残念ながら去年に引き続いて御本部のお節会が中止されました。コロナ禍に入って大きく変わった親里の風景の一つは、団参の旗を見なくなったことかもしれません。お節会に限らず、こどもおぢばがえりであったり、婦人会や学生会の行事大祭であったり、別席段祭であったり、様々な場面で当たり前のようにみることのできた旗のある風景を見ることがなくなっていったことは本当に寂しいことだと思います。
 私の勝手な思い込みで諸井國三郎先生は、インテリで頭の良いアイデアマンのような方だから、大きな旗を立ててお参りすることを思いつかれたのだと想像していました。もちろん、利発な先生だったとは思うのですが、経歴を知ってそれだけではないと驚きました。
 農家の三男として生まれられたのですが、なんとその後、旗本に士官して幕末の動乱期に幕府方の武士として勤めておられるのです。特に水戸で起こった「天狗党の乱」では、歩兵取締として参戦し、大砲や小銃の弾が雨のように飛び交う中で奮戦されたそうです。その事実と知って逸話篇を読み直すと、最初のおぢばがえりで、教祖と力比べをされた逸話もなるほどと思います。(逸話篇118「神の方には」)また、この御逸話にある「返答が明瞭であったため、住所姓名を控えられただけですんだ」という部分も、幕末の動乱を生き抜いて武士としての凛とした威厳や気迫が、その背景にあったのかもと考えさせられました。そして何よりも、旗を立てることの意味合いが大きく変わりました。戦場を駆け回られた武士だったからこそ、「旗」の重みをご存じだったのだと考えさせられたのです。当時、取締りの巡査におびえておられた多くの先生方のお心を、大きくなびくフラフが、どれほど奮い立たせたことでしょう。コロナ禍が一刻も早く終息して、再び多くのフラフが親里に靡く日を待ち望んでいます。
 
125 先が見えんのや (2022年2月掲載)
 
 中山コヨシが、夫重吉のお人好しを頼りなく思い、生家へかえろうと決心した途端、目が見えなくなった。
 それで、飯降おさとを通して伺うてもらうと、教祖は、
「コヨシはなあ、先が見えんのや。そこを、よう諭してやっておくれ。」
と、お言葉を下された。
 これを承って、コヨシは、申し訳なさに、泣けるだけ泣いてお詫びした途端に、目が、又元通りハッキリ見えるようになった。


 旦那さんの不足をしただけで間が見えなくなるなんて、なんて恐ろしいことだろうと初めて読んだ時に驚いた御逸話です。将来の事なんて、誰にもわかるはずないのに…。とっくに家内から愛想を尽かされている私は、ついつい家内が身上にならないか心配になってしまいます。
 中山重吉先生は、教祖の長女おまさ様の二男。コヨシ奥様は実家が吉田という苗字の農家で、非常に働き者であられたそうです。
 新婚間もない旦那さんにいろいろと不足していたコヨシ奥様が、実家へ帰ろうと決心したきっかけは、どなたかに頂いた一升の赤飯を重吉先生が一人でぺろりと平らげたからだとか。私も気を付けなければと、この御逸話を勉強しながら反省しました。
 さて、このお二人の結婚に関して、こんな話が残っています。おまさ様が重吉先生の結婚について、二人を連れて教祖のところへご相談に上がられた時のことです。教祖は重吉先生にに向かって、『お前、盆の音頭をとりなされ』と仰り、コヨシ奥様に対しては、『コヨシ、お前は盆の踊りをするのや』と言われたのです。二人は異口同音に「はい」とお答えされました。たちまち盆踊りの華やいだ空気に包まれたのですが二人の呼吸はピッタリ。「十年もの長い間付き合ったような親しさを感じた」と二人とも喜んで結婚することにしたのです。きっと教祖は、二人の一番いいところを見せようとしてこんなことをさせてんだなあと感心したそうなのですが、そこまで調べて、ハッと気づきました。「先が見えん」とは、相手のいいところが見えないということではないでしょうか。相手のいいところを見ている間はバラ色の未来、悪いところに目がいくとその明るい将来が見えなくなります。もしかしたら未来を想像することは、周囲の人々の良いところを探すところから始まるのかもしれませんね。ところで、中山重吉先生と言えば、宿屋を開いて先人の先生方が大勢宿泊されたことでも知られます。夫婦の良いところだけでなく、帰ってこられる信者さん方のいいところを見るようにと考えたならば、それば詰所におらせて頂く私達夫婦にもあてはまることです。しっかり反省しなければと、改めて考えさせられました。
 
 59 まつり (2022年3月掲載)

 明治十一年正月、山中こいそ(註、後の山田いゑ)は、二十八才で教祖の御許にお引き寄せ頂き、お側にお仕えすることになったが、教祖は二十六日の理について、

「まつりというのは、待つ理であるから、二十六日の日は、朝から他の用は、何もするのやないで。この日は、結構や、結構や、と、をや様の御恩を喜ばして頂いておればよいのやで。」
と、お聞かせ下されていた。
 こいそは、赤衣を縫う事と、教祖のお髪を上げる事とを、日課としていたが、赤衣は、教祖が、必ずみずからお裁ちになり、それをこいそにお渡し下さる事になっていた。
 教祖の御許にお仕えして間もない明治十一年四月二十八日、陰暦三月二十六日の朝、お掃除もすませ、まだ時間も早かったので、こいそは、教祖に向かって、「教祖、朝早くから何もせずにいるのは余り勿体のう存じますから、赤衣を縫わして頂きとうございます。」とお願いした。すると教祖は、しばらくお考えなされてから、

「さようかな。」
と、仰せられ、すうすうと赤衣をお裁ちになって、こいそにお渡し下された。
 こいそは、御用が出来たので、喜んで、早速縫いにかかったが、一針二針縫うたかと思うと、俄かにあたりが真暗になって、白昼の事であるのに、黒白も分からぬ真の闇になってしまった。愕然としてこいそは、「教祖」と叫びながら、「勿体ないと思うたのは、かえって理に添わなかったのです。赤衣を縫わして頂くのは、明日の事にさして頂きます。」と、心に定めると、忽ち元の白昼に還って、何んの異状もなくなった。
 後で、この旨を教祖に申し上げると、教祖は、
「こいそさんが、朝から何もせずにいるのは、あまり勿体ない、と言いなはるから、裁ちましたが、やはり二十六日の日は、掃き掃除と拭き掃除だけすれば、おつとめの他は何もする事要らんのやで。してはならんのやで。」
と、仰せ下さった。


昔、こんな話を聞いて驚いたことがあります。「イスラエルには安息日があって、その日はエレベータにも乗れないらしい」
 安息日には労働が禁止されていて、どんなことが労働になるのかも決まっているようです。土を耕したり刈入れしたりすることの他、あくせくすることもいけません。火を起こすことも労働だと考えられていたので、料理をすることはもちろん、そこから拡大解釈されて電気のスイッチ一つ押してはいけません。
 ですから、どんなに階段を上るのが大変で、エレベータが楽だったとしても、エレベータのボタンを押すことが労働に当たるとして禁止されているとのことでした。
 ところで、天理教を信仰する我々は「まつりというのは、待つ理であるから、二十六日の日は、朝から他の用は、何もするのやないで。」という教祖のお言葉をどれほど守っているでしょうか。かくいう私も詰所で勤めさせて頂いているので、26日に何もしないなんて、まず無理なことです。でも、だからこそ、「この日は、結構や、結構や、と、をや様の御恩を喜ばして頂いておればよいのやで。」という言葉の真意を考えていきたいと思うのです。
 月次祭がいつから始まったのを調べたのですが分かりませんでした。ただ御逸話のあった明治11年は、ぢば定めの三年後で、前年の明治10年に女鳴物を教えられたばかり。きっと月次祭を始められて間もなくのことと推測します。そうであるなら単に労働を禁止していると考えるよりも、26日の理やつとめや神一条の精神の大切さを教えられているではと思います。
 神様のお望み下さるのは、世界中の人々が、みんな喜んで神様の捧げる時間ではないでしょうか。他のことはまずおいて神様のことだけを考えて、みんな一緒に喜んで神様に感謝をささげる一瞬、その一瞬を、神様はどれほどお望みになっているだろうかと想像します。世界では、今月また大きな戦争が始まりました。たとえ戦争でなくても、きっと神様の耳には、絶えることなく、誰かの悲鳴や鳴き声が届いていることでしょう。たとえ一瞬でも、神様のお喜び下さる一瞬が神様の耳に届くように、私も、心して毎日、月々のお勤めを真剣に勤めなければならないと思っております。
 
133 先を永く (2022年4月掲載)
 
 明治十六年頃、山沢為造にお聞かせ下されたお話に、
「先を短こう思うたら、急がんならん。けれども、先を永く思えば、急ぐ事要らん。」
「早いが早いにならん。遅いが遅いにならん。」
「たんのうは誠。」
と。


 先を永くと、聞いてまず思い浮かぶのは、「誰が来ても神は退かぬ。今は種々と心配するは無理でないけれど、二十年三十年経ったなれば、皆の者成程と思う日が来る程に。」という教祖が月日のやしろとなられる直前の神様のお言葉です。
 教祖伝を読み返してみると、嘉永元年、『教祖五十一歳の頃から、「お針子をとれ。」との、親神の思召のまに/\、数年間、お針の師匠をなされた。』と立教から十年たってやっと、憑きものでも気の違いでもない証拠を示させようとされていたことが分かります。そうして二十年経って、初めて、「四合の米を持ってお礼参りに来る人も出来た。」とでてきます。また三十年を経て「教祖は、親神の思召のまに/\、明治二年正月から筆を執って、親心の真実を書き誌された。これ後日のおふでさきと呼ぶものである。」とあるようにやっと真実の話を筆に記されるようになられるのです。
 自分の信仰を何時からだと、なかなか決めるのは難しいですが、父であった五代会長の出直しからだと考えると、私の場合十年後に本部勤務をさせて頂き、二十年経って詰所勤務を始めさせて頂きました。そうして三十年経って長女が初席を運ばせて頂くことになりました。なかなか先を永く思うことは、難しいですかが、今までの自分自身の歩み方を振り返ると二十年後や三十年後を少しは想像しやすくなるかもしれませんね。
 信仰の元一日に思いを寄せて日々感謝と喜びの心でおつとめをつとめよう!
 手柄山分教会の創立百周年に向けて、会長様はポスターにそう書かれました。
 一人ひとり信仰の元一日は違うと思いますが、その日から十年後二十年後を私たちはどうやって成人してきたのか。それをしっかりと振り返ってみると、これから先の将来をほんの少し想像できるかもしれませんね。毎日一歩ずつ着実に歩みを進めていきたいものです。
 
168 船遊び (2022年5月掲載)
 
 教祖は、ある時、梶本ひさ(註、後の山沢ひさ)に向かって、
「一度船遊びしてみたいなあ。わしが船遊びしたら、二年でも三年でも、帰られぬやろうなあ。」
と、仰せられた。海の外までも親神様の思召しの弘まる日を、見抜き見通されてのお言葉と伝えられる。

 
 ♬世の中は海 人々は小舟 しあわせ探し求めそれぞれの舵を 世界たすけの希望に溢れて ようぼくの船はまた今日も旅に出る
 この御逸話を拝読させて頂いた時、「航海」(詞・曲 孤馬寛)を思い浮かべる方もいらっしゃるのではないでしょうか。
 私も海外部で勤めているころ、海外へ旅立つ人を見送ったり出迎えたりしたときや、海外からの帰参者を歓迎する会などで幾度となく多くの人たちと共に歌いました。ですから、この御逸話は希望に満ち溢れているような御逸話だとずっと思っていました。
 でも今年に入り、ニュースで戦争の映像を目にするたびに、本当にそうだろうか?と、疑問を抱くようになりました。
 「二年でも三年でも、帰られぬやろうなあ。」という教祖のお言葉の向こうにある、教祖がご覧になられている景色には、神様に救けを求める人々の姿がどれ程多く映っていたのだろうかと想像するのです。いったいどれくらいの悲鳴や嗚咽や鳴き声が教祖の耳に届いていたのかと想像するのです。
 先月、天理大学の卒業生だったウクライナ人女性が子供二人をつれて天理に避難してきたニュースを目にしました。驚きました。ウクライナから天理に来ていた方がおられたとは想像すらしていなかったのです。残念ながら飾東大教会三代会長紺谷久則先生の翻訳物の中にウクライナ語はありません。当時はまだソ連の一部であったからだと思います。以前カンボジアから修養科生が来られた時も、カンボジア語の翻訳物がないことに驚きました。長らく内戦が続いていたからだと思います。「わしは世界中のどんな方が帰ってこられても、読めるお道の本がないというようなことはないようにしたいんや」と世界中を飛び回って翻訳者を探されていた三代会長様の目にも舟遊びを願われる教祖の目に映っていた風景と同じ景色が見えていたのかもしれないと想像します。その景色を想像しながら、そして世界中の人々がお道の本を手に取る日を夢見ながら、真剣に神様へ祈りを捧げなければと思うのです。
 
8 一寸身上に (2022年6月掲載)
 
 文久元年、西田コトは、五月六日の日に、歯が痛いので、千束の稲荷さんへ詣ろうと思って家を出た。千束なら、斜に北へ行かねばならぬのに、何気なく東の方へ行くと、別所の奥田という家へ嫁入っている同年輩の人に、道路上でパッタリと出会った。そこで、「どこへ行きなさる。」という話から、「庄屋敷へ詣ったら、どんな病気でも皆、救けて下さる。」という事を聞き、早速お詣りした。すると、夕方であったが、教祖は、
「よう帰って来たな。待っていたで。」
と、仰せられ、更に、
「一寸身上に知らせた。」
とて、神様のお話をお聞かせ下され、ハッタイ粉の御供を下された。お話を承って家へかえる頃には、歯痛はもう全く治っていた。が、そのまま四、五日詣らずにいると、今度は、目が悪くなって来た。激しく疼いて来たのである。それで、早速お詣りして伺うと、
「身上に知らせたのやで。」
とて、有難いお話を、だんだんと聞かせて頂き、拝んで頂くと、かえる頃には、治っていた。
 それから、三日間程、弁当持ちでお屋敷のお掃除に通わせて頂いた。こうして信心させて頂くようになった。この年コトは三十二才であった。

 
 神様の仰る「一寸」とはどれくらいのことなんだろうと考えたことはありませんか。みかぐらうたの第二節「ちょとはなし」のちょっとは決してちょっとした話には思えません。どう考えても大切なお話です。
 たとえば一人分の料理を作った時と十人分の料理を作った時とでは、ちょっとお塩が足りないなという際の塩の量は当然作るようによって大きく変わってきます。だから世界中を救けたいと願われる神様のちょっとは非常に大きくなるのかな、などと考えたこともあります。でも、それならば、なぜ神様はわざわざ「ちょっと」という表現を使われたのだろう?いろいろと考えてもなかなかいい答えがみつかりませんでした。
 教会報の締切が近づいてきたその日も、家内と一緒にご本部に参拝をして、おつとめをしながら、そのことを考えていました。ふと心に浮かんだのは、譬えちょっとでも多くても、神様の御心は、全部大切なのだから量は関係ないのかも……?ということでした。でもやっぱりわざわざちょっとっていう必要はあるのかな。なかなか答えが見つかりません。そうして詰所に戻ろうとしたときでした。「あのう、神殿に参拝したいんですけど、どう行けばいいんですか」 三重県からこられた未信者のご夫婦でした。古事記や日本書紀に興味があって奈良にこられて、有名な天理のラーメンを食べようと探していたら、道に迷ってここへきたのだそうです。なんでもご主人が子供の頃に「こどもおぢばがえり」に参加したことがあるらしく、懐かしくなっていらっしゃったのだとか。もちろんおせっかい好きの家内がそれを見逃す訳もなく……。私はしどろもどろになりながらも神殿教祖殿、祖霊殿と案内をつとめさせていただきました。その時「ちょっと」とはそういうことだったのかと」分かった気がしました。神様は子供である人間に、自分の思いで行動してほしいと待っておられるから「ちょっと」なんだと。御心を全部言葉にして、絶対にこうしなさい、ではなくて、ほのかに感じたヒントから子供が自分で考えて素晴らしい答えを導き出すのを待っておられるんだと思ったのです。教祖130年祭を控えた三年千日の期間中、「みちのとも」には「わが指針これにあり」と題された連載がありました。ご本部の先生方が大切にしておられる言葉を色紙に書いておられるのですが、立教178年10月号には、ご子孫にあたる本部員の西田伊太郎先生が「末代」と書かれていました。「ちょっとした身上」に神様の御心を知り、それを末代にまで繋げていこうとすることが、もしかしたら本当の信仰なのかもしれませんね。
 

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