見出し画像

天理教手柄山分教会報より「逸話篇を学ぶ」(2023年前半掲載分)

183 悪風というものは (2023年1月掲載)
 
 明治十八、九年頃のこと。お道がドンドン弘まり始めると共に、僧侶、神職その他、世間の反対攻撃もまた次第に猛烈になって来た。信心している人々の中にも、それ等の反対に辛抱し切れなくなって、こちらからも積極的に抗争しては、と言う者も出て来た。その時、摂津国喜連村の林九右衞門という講元が、おぢばへ帰って、このことを相談した。そこで、取次から、教祖に、この点をお伺いすると、お言葉があった。「さあさあ悪風に譬えて話しよう。悪風というものは、いつまでもいつまでも吹きやせんで。吹き荒れている時は、ジッとすくんでいて、止んでから行くがよい。 悪風に向こうたら、つまずくやらこけるやら知れんから、ジッとしていよ。又、止んでからボチボチ行けば、行けん事はないで。」と、お諭し下された。 又、その少し後で、若狭国から、同じようなことで応援を求めて来た時に、お伺いすると、教祖は、「さあ、一時に出たる泥水、ごもく水やで。その中へ、茶碗に一杯の清水を流してみよ。それで澄まそうと思うても、澄みやすまい。」と、お聞かせ下された。一同は、このお言葉に、逸やる胸を抑えた、という。


 年末になると例年「今年の漢字」が発表されます。昨年は、「戦」という字が選ばれました。サッカーのワールドカップや冬季オリンピックの熱戦といった良い意味もあるのですが、一番大きな理由はやはりロシアのウクライナ侵攻だと思います。中国では零コロナ政策に反対して「白紙運動」というものもありました。世界中のこうした、いてもたってもいられなくなるような暗いニュースを聞く時、天理教を信仰する者として、いったいどうすればいいのかと多くの人々が考えたはずです。そしてその時、この御逸話が頭に浮かんだ方々も、きっと大勢いらっしゃることでしょう。でも、本当に「待つ」以外にできることはないのかと、もどかしく思われた方もいらっしゃるのではないでしょうか。私もその一人です。でも、そこで考えました。どうして教祖は、悪風や泥水にたとえられたのだろうと。そうして何度も読み返すうちに、はっと気がついたことがあります。それは目的は何か。ということです。神様の目的は、もちろん陽気ぐらし、人々を幸せにすることです。決して反対する者たちを懲らしめることが目的ではないんです。「止んでからボチボチ行けば、行けん事はないで。」と仰せられる教祖の行く先にあるのは、あくまでも人々の幸せだけなのです。考えてみたら、神様は人間を創造されて以来、何億年もの間ずっと人々の幸せを待ち続けておられるんです。もちろん出来ることがあるならば、すべきですが、大切なことは、目的を見誤ることなく神様の御心を想像して、真剣に平和への祈りを捧げることが、信仰者として一番にすべきことなのかもしれません。この御逸話に出てくる林九右衞門先生を担任として明治28年、喜連村に摂陽支教会の許しを得ましたが、地方庁の認可は何度申請しても下りなかったそうです。結局、認可が下りたのは薮田駒太郎先生の名義で申請された一派独立後の明治41年、林先生が83歳で出直される二年前のことでした。「待つ」というのはつまり、神様を信じるからこと出来ることなのかも知れません。
 
 
 
 
180 惜しみの餅 (2023年2月掲載)
 
ある人が、お餅を供える時、「二升にして置け。」「いや三升にしよう。」と、家の中で言い争いをしてから、「惜しいけど、上げよう。」と、言って、餅を供えたところ、教祖が、箸を持って、召し上がろうとなさると、箸は、激しく跳び上がって、どうしても、召し上がる事が出来なかった、という。

 
 
 今年は、三年ぶりに御本部のお節会が開催されました。全員が同じ方向を向いて座ったり、雑煮のお代わりが出来なかったりと、いつもと雰囲気は違いましたが、それでも晴れやかな気持ちになりました。詰所でも、今の時期はお餅を頂く機会が多いです。子供たちも器にお湯と餅をいれて電子レンジでチン。きな粉餅やあん餅をおやつ代わりにして美味しそうに食べています。お餅にまつわる御逸話は二つありますが、(もう一つは、7 真心の御供)双方ともに御供に関わるものです。本教だけでなく当時の人々にとって、お餅は神様への感謝を表すにふさわしい大切な御馳走だったのだと容易に想像できますね。でも、この御逸話の難しいのは、お餅を召し上がろうとなされなかった教祖のお心をどのように解釈するべきかということです。御供のことで言い争う人々をご覧になって、不快に思われたのか、悲しまれたのか、可愛そうに思われたのか、或いは、子供たちにたくさんお餅を食べさせてやりたいと思召されたのか。教祖のお心をどのように想像するかで、この御逸話の見える景色が全く違ったもののように思えてきます。どのように考えるのが正解なのか、私にはわかりません。ただ思うのは、私たちが神様に御供をするとき、本当に神様に喜んで頂けているのかな、どうしたら神様は喜んで下さるのかなと少しでも神様のお心を想像することが大切じゃないかなかということです。
 
 
 
20 女児出産 (2023年3月掲載)
 
 慶応四年三月初旬、山中忠七がお屋敷で泊めて頂いて、その翌朝、教祖に朝の御挨拶を申し上げに出ると、教祖は、「忠七さん、昨晩あんたの宅で女の児が出産て、皆、あんたのかえりを待っているから、早よう去んでおやり。」と、仰せになった。 忠七は、未だそんなに早く生まれるとは思っていなかったので、昨夜もお屋敷で泊めてもらった程であったが、このお言葉を頂いて、「さようでございますか。」と、申し上げたものの、半信半疑でいた。が、出産の知らせに来た息子の彦七に会うて、初めてその真実なることを知ると共に、尚その産児が女子であったので、今更の如く教祖のお言葉に恐れ入った。

 
  産まれてきた女の子は、その後どのように育っていったのだろうと調べて驚きました。残念なことに「たま」と名づけられたその女の子は夭折なさっていたからです。夭折された女の子の御逸話と言えば、逸話篇184「悟り方」の梅谷四郎兵衞の娘さんや187「ぢば一つに」にある諸井国三郎先生の娘さんを思い浮かべべます。梅谷先生の娘さんは、「みちゑ」と教祖に名付けて頂かれた方です。諸井先生の娘さんは逸話篇15「をびや許し」でをびや許しを頂かれて産まれてきた方です。勿論、今と違って夭折が珍しくない時代であったかもしれませんが、それでも恐ろしいほどに驚きました。また同34「月日許した」でをびやを頂かれた、加見兵四郎先生の長女きみさんは同167「人助けたら」で両目が見えなくなったところを助けられ、加見先生を本当の信仰へと導かれています。 教祖の目に映る景色は、いったいどれほど遠くまで広がっているのだろうと想像します。私達人間も、自分のことだけを考えていた子供の頃に見ている景色と、親になって子供の事考えるようになって見るそれとは、やはり違います。教祖のような景色を見ることはできませんが、それでも、子供たちの先々の幸せまでも考えてオロオロと心配したり喜んだりしています。「たま」さんは夭折されましたが山中忠七の次女である山田こいそ先生も同101「道寄りせずに」でをびや許しを頂かれています。「この子の成人するにつれて、道も結構になるばかりや。栄えるばかりやで。それで、いくすえ栄えるというので、いくゑと名付けておくで。」 山中忠七先生のお孫さんである、いくゑさんはお母さんである山田こいそ先生と共に誕生満一年のお礼詣りにお屋敷へ帰って教祖から赤衣を頂いておられました。(同121「いとに着物を」) 「忠七さん、昨晩あんたの宅で女の児が出産て、皆、あんたのかえりを待っているから、早よう去んでおやり。」と仰せられる教祖の目には、山中忠七先生のお子さん方やお孫さん、それからもっと沢山の人々の幸せな姿が映っていたのかもしれません。
 

 
198 どんな花でもな (2023年4月掲載)
 
 ある時、清水与之助、梅谷四郎兵衞、平野トラの三名が、教祖の御前に集まって、各自の講社が思うようにいかぬことを語り合うていると、教祖は、「どんな花でもな、咲く年もあれば、咲かぬ年もあるで。一年咲かんでも、又、年が変われば咲くで。」と、お聞かせ下されて、お慰め下された、という。

 
 
 大教会の神殿屋根葺替の普請が先月からはじまりました。先月31日に行われた少年会総会も例年とは少し違った雰囲気でしたので、子供たちにとっては例年にまして記憶に残る総会になったかも知れませんね。「どんな花でもな、咲く年もあれば、咲かぬ年もあるで。」このお言葉を、漠然といい時もあれば悪いこともあると教祖が先人の先生方を励まされている御逸話だと思っていました。でもある時、「なぜだろう?」と疑問がわいてきたことがありました。というのも、御本部の直属教会には設立された順番に教会番号というものが振り分けられています。1番は郡山、2番は兵神、3番は山名、4番は船場と続くのですが、この御逸話に出てこられる3人の先生方の講社は、この4番目までにすべて入っているのです。言い換えたならば、この三人の先生方の講社とは、つまりお道で最も早く花開いた講社であるとも言えます。そのことに気づいてから、なんとなく不思議な御逸話だなあと思うようになったのです。「それでは座りづとめを開始しますので、わかぎ、あおばのお兄さんお姉さんたちはそれぞれの場所に座ってください」 少年会は年齢に応じて、めばえ、ふたば、あおば、わかぎとようぼくになるまでの行程に見立てて分けているのですが、少年会総会で育成の先生がアナウンスされた時、ハッと気が付きました。教祖は「芽が出る」という表現ではなく、「花が咲く」と表現されているのです。 それはつまり、いつでも「花が咲く」くらいにまで、私たちやこのお道を育てて下さったいるからではないでしょうか。 教祖140年祭で大輪の花を咲かせたいけれと、今から種を撒いて間に合うだろうかと心配するかもしれませんが、本当はそんなことはないのです。教祖や先人の先生方が、いつ花開いてもいいくらいに、ちゃんと育てて下さっているのです。私たちは、その蕾が花開くと信じて、懸命に三年千日を通ればいいのです。先月、会長様から年祭に向けての心定めを記入する用紙を頂きました。背伸びして書こうとすると難しく思えますが、いつ花が咲いてもおかしくないくらいまで、もうお連れ通り頂いていると思ったら、あとは誠実に心を定めて通らせていただくだけでいいと私は思います。そうして、願わくば、やがて子供たちの花が咲く日が来るように、親として、そのお手伝いができたならばと思うのです。
 
 
 
32 女房の口一つ (2023年5月掲載)
 
 大和国小阪村の松田利平の娘やすは、十代の頃から数年間、教祖の炊事のお手伝いをさせて頂いた。教祖は、「おまえの炊いたものを、持って来てくれると、胸が開くような気がする。」と、言うて、喜んで下された。お食事は、粥で、その中へ大豆を少し入れることになっていた。ひまな時には、教祖と二人だけという時もあった。そんな時、いろいろとお話を聞かせて下されたが、ある時、「やすさんえ、どんな男でも、女房の口次第やで。人から、阿呆やと、言われるような男でも、家にかえって、女房が、貴方おかえりなさい。と、丁寧に扱えば、世間の人も、わし等は、阿呆と言うけれども、女房が、ああやって、丁寧に扱っているところを見ると、あら偉いのやなあ、と言うやろう。亭主の偉くなるのも、阿呆になるのも、女房の口一つやで。」と、お教え下された。 やすは、二十三才の時、教祖のお世話で、庄屋敷村の乾家へ嫁いだ。見合いは、教祖のお居間でさせて頂いた。その時、「神様は、これとあれと、と言われる。それで、こう治まった。治まってから、切ってはいかん。切ったら、切った方から切られますで。」と、仰せられ、手を三度振って、「結構や、結構や、結構や。」と、お言葉を下された。

 
 
 
 
 
 香港出張所に勤めていた二十年前、人間関係に悩んでいた私は、精神的にしんどいことが重なって、朝も起きられなくなってことがありました。マンションの一戸のうち、大きなリビングにああたる部分が神殿部分で、それ以外の部屋に、所長夫妻や日本語学校の先生と共に私達家族も暮らしていました。あの頃、私は自分自身のことしか考えられなくて、勝手にしんどいと悩んでいましたが、本当につらかったのは家内だったと思います。でも、家内は私を責めることもなく、出張所の方々や香港の信者さん方と夫である私との間で、いつも笑顔で朗らかに振舞ってくれていました。そのお陰で、家内がいろんな方々と繋いでいてくれたお陰で、何年も経った今でも、おぢばに帰って来られた方々に、気持ちよく声をかけていただけています。 子供たちが学校へ行かなかったり、朝起きなかったりしたとき、私はつい大きな声で怒鳴ってしまうのですが、時々、自分自身、朝が起きられなかった日があったじゃないか、家内のおかげでいまがあるんだよなと反省します。「亭主の偉くなるのも、阿呆になるのも、女房の口一つやで。」と教祖は仰せになられていますが、偉くなれない私のような亭主でも、やっぱり家内の言葉一つで、なんとかここまで、立ててもらえているんだよなあと、この御逸話を読むたびに反省している次第です。
 
 
 
41 末代にかけて (2023年6月掲載)
 
 ある時、教祖は、豊田村の仲田儀三郎の宅へお越しになり、家のまわりをお歩きになり、「しっかり踏み込め、しっかり踏み込め。末代にかけて、しっかり踏み込め。」と、口ずさみながらお歩きになって後、仲田に対して、「この屋敷は、神が入り込み、地固めしたのや。どんなに貧乏しても、手放してはならんで。信心は、末代にかけて続けるのやで。」と、仰せになった。 後日、儀三郎の孫吉蔵の代に、村からの話で、土地の一部を交換せねばならぬこととなり、話も進んで来た時、急に吉蔵の顔に面疔が出来て、顔が腫れ上がってしまった。それで、家中の者が驚いていろいろと思案し、額を寄せて相談したところ、年寄り達の口から、教祖が地固めをして下された土地であることが語られ、早速、親神様にお詫び申し上げ、村へは断りを言うたところ、身上の患いは、鮮やかにすっきりとお救け頂いた。

 
 
  今年一月、当時教養掛をつとめておられた先生から、「ちょっとPCで地図を出してほしい」と頼まれました。大教会の諭達巡教の講師でお越しになる中田善亮先生の送迎をするためでした。「御本部から、こんなに近いところなんですね」北大路から昔ながらの細い道を北へと入っていくのですが、直線距離ならば、お墓地のある豊田山までの距離の半分ほどです。もしかしたら、おぢばから最も近い場所にある教会かもしれません。どうして、神様は他の先人の先生方ではなく、仲田儀三郎先生のお宅を地固めされたのでしょうか。同じ豊田町にあった辻忠作先生宅でもなく、櫟本の飯降伊蔵先生宅でもありません。大豆越の山中忠七忠七先生宅は地固めこそならせていませんが、「永代の物種」を頂かれています。どうしてだろうなと考えていて、ふと気づいたのは、中田先生宅と、山中先生宅は、現在教会になられているということです。しかも、真柱の後継者である中山大亮先生は、中田家からこられています。教祖の目には、そんな未来のこと、もっと言えば、それこそ末代までのこと見えていたのかもしれません。そんなことを考えていて、ふと気づいたことがあります。「末代にかけて」や「永代の物種」の御逸話は決して、仲田家や山中家に対してだけのことばではなく、全ての教会に対しての言葉であるとも受け取ることができるのではないでしょうか、ということです。中田善亮先生は「末代にかけて、しっかり踏み込め。」とは「しっかり伏せ込め」という意味とも悟れるのではないか。つまり、将来への地固めだと思うのである。と述べられています。(〝逸話のこころ〟たずねて ―現在に生きる教祖の教え 88頁)もしかしたら、教会のお許しを頂くということは、神様に地固めしていただいて、永代の物種を頂くということかもしれませんね。 今月4日、(部内教会の)〇〇分教会四代会長就任奉告祭がつとめられました。教祖のように末代の事が分かるわけではありませんが、それでも夢見ることはできると思います。手柄山つながる人々が、末代までつながっていくように、私もそのうちの一人として、しっかりと伏せ込んで行かなければと思っております。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?