見出し画像

みかぐらうたって何だろう? 

みかぐらうたって何だろう?
 
「どうして、おつとめをしなくちゃいけないの?」
 子供の頃、何度そんなことを思ったでしょう。
 だって朝づとめは、眠たくて起きられないし、夕づとめの時間は大好きなテレビアニメを放映する時間と重なるのですから。まだビデオデッキもなくテレビ番組を録画するという発想すらなかったころのことです。どうして我が家だけこんなことをしなくちゃいけないんだとおつも不満に思っていました。
 でも成長するにしたがって、おつとめは「しなくてはいけないもの」から「当たり前のように毎日するもの」へと変わりました。そうして、いつの間にか当たり前になったがために、子供の頃に抱いていた不満も忘れてしまっていたように思います。
 でも、やがて結婚をして子供が出来て、その子供たちが成長するにつれて、やっぱり子供の頃に抱いていた難問にぶつかるのです。
「どうして、おつとめをしなくちゃいけないの?」
 子供たちに尋ねられても、
「しなくちゃいけないものは、しなくちゃいけないんだ」
とか
「このつとめは命の切り替えをする大切なつとめなの」
とか、
 分かったような言葉で、教えるフリをしているだけです。
 親であるはずの私がちゃんと分かっていないのに、子供たちに理解させられるはずもありません。もちろん、父や母やいろんな先生方から教えて頂いて知っている部分もあります。本を読んだり授業で習ったりして得た知識もあるはずです。でも、本当に分かっていると胸を張れるでしょうか。
 
 もう一度
「おつとめをしなさい」
と、子供たちを注意する自分自身の心に問いかけました。
 
「どうしておつとめをしたら、子供たちが幸せになれるのですか」
 私は、本当のことを何もわかっていないままに、おつとめをしていることに気づいたのです。
 それで、改めておつとめの地歌を勉強することにしました。
 すると、いきなり難問にぶち当たったのです。
 
第一節
 
  あしきをはらうてたすけたまへ
  てんりわうのみこと
  
(悪しきを払って助けて下さい。天理王命)

 第一節では人間たちが、何度も助けて下さいという神様にお願いしています。しかも、21回も繰り返して、何度も何度も、神様に対してお願いをするのです。
悪しきを払うしぐさが、自分の胸を掃除するしぐさにみえることから、あしきとは自分の心の掃除をすることだとお教え下さる先生もいます。
 もちろん、病気やケガ、事故やもっと大きな戦争や災害などの災いごとを「あしき」と仰せになっているという考え方もできます。いずれにしても、何度も何度も助けて下さいと神様にお願いをしているという点では、変わりません。そうして、そう祈る人間に対して、第二節で神様はこう仰せられるのです。
 
 
第二節
 
  ちよとはなしかみのいふこと
  きいてくれあしきのことは
  いはんでなこのよのぢいと
  てんとをかたどりてふうふを
  こしらへきたるでなこれハこの
  よのはじめだし

 
 ちょっと話をするから聞いておくれ。悪いことは言わないからと前置きをして、神様は人々に話されるのは、「この世界は地と天とを手本にして、夫婦を作り育ててきました。これがこの世界のはじめだしなのです。」と元はじまりのお話なのです。
 
 どうして、助けて下さいという人間に対して「元はじまりの話」をするのか私にはまったく分かりませんでした。どう考えても全然違う話に思えたのです。  
 
 でも、ある時、この疑問が氷解しました。
 
 子供たちのお土産にケーキを買って帰ったときのことです。
 珍しく大きな丸いホールのケーキを買ったので、どれくらい子供たちが喜ぶだろうなとワクワクしながら家へ帰りました。もちろん子供たちの前で箱を開けると、子供たちは大喜びです。私も買ってきてよかったなあと思いました。
 でも、良かったはそこまでです。
 いざ食べようと切り分け始めると、残念なことに喧嘩が始まったのです。
「なんで私のは小さいの!」
「ずるい!お姉ちゃんだけチョコがたくさい!」
「そっちの方が美味しそうでしょ!」
 最後には小さな妹が泣き出してしまいました。
「コラ!やめなさい!なんで喧嘩ばっかりするの!お父ちゃん、せっかくみんなが喜ぶと思ってケーキを買ってきたのに!なんで美味しく食べられへんの!」
 思わず大きな声を上げてしまいました。
そうして不満そうな子供たちをみつめて言葉を探している時にハッとしたのです。
 
 もしかしたら、神様も同じなんじゃないだろうか。
 神様は人間たちが幸せに暮らすのを見て一緒に楽しもうとこの世界を心を込めて創造され、そして気の遠くなるような年月をかけて私たちをお育てくださいました。そして今もなお、人間たちが幸せになれるように心を込めてご守護を下されているのです。
 なのに、人間たちは
「なんで私だけ!」
「なんであっちだけ!」
と、ケーキの大きさで喧嘩する子供たちのように、自分のことだけを、それもほんの一瞬の些細なことだけを考えて嘆いています。
 一人ひとりがみんなのことをちょっと思いやったら、すぐに人間たちは幸せになれるのにです。
 
 そう気づいてみかぐらうたの第三節を読み返しました。
 
  あしきをはらうてたすけ
  せきこむいちれつすまして
  かんろだい

(悪しきを払って 救済を急き込む 一列を澄まして 甘露台)

そうです。
「いちれつすまして かんろだい」の「いちれつ」とは、つまりみんなということなのです。
 そう考えると、なんとなくおつとめをする意味が分かったような気がしました。
おつとめは単に、お願い事をしたり、神様に感謝を述べる時間ではなく、神様の御心を想像する時間なのです。
 今、神様はどんなことを思召されているのだろう。どうすれば神様に喜んで頂けるのだろうか。そうして毎日、この世界を創造され、今もなおずっと御守護をし続けて下さる神様に心をよせる時間をつくることで、私たちは少しずつ幸せに近づけるようになると思うのです。
 そうして、もう一つ大切な考え方があります。第一節で何度も助けて下さいという人間たちに対して、神様は第二節で、元始まりのお話をされました。そうして第三節では人間たちが神様に対して、一列の心を澄ましてかんろだいを据えられるようにしますから、どうか助けて下さいと願っています。もちろんお願いではあるのですが、考え方によれば、これは神様と人間との約束でもあるのです。神様の心を理解して、みんなの心をきれいにしますと、神様に約束をしているのです。毎日、朝夕神様のお心を想像して、そうして神様と約束をする。だからこそ、おつとめは大切なのだと思います。
 
 では、第四節には何が書かれているのでしょうか。
 
第四節

 みかぐらうたの第四節はよろづよ八首ともよばれ、おふでさきの冒頭八首とほぼ同じ内容が書かれています。
 昔、ある先生から、これは立教の宣言であると教えて頂いたことがありますが、私も神様がこの道とつけられた神様の思いが書かれているのだと思います。
 
  よろづよのせかい一れつみはらせど
  むねのわかりたものはない
  そのはずやといてきかしたことハない
  しらぬがむりでハないわいな
  このたびはかみがおもてへあらわれて
  なにかいさいをときゝかす
  このところやまとのぢばのかみがたと
  いうていれどももとしらぬ
  このもとをくはしくきいた事ならバ
  いかなものでもこいしなる
  きゝたくバたづねくるならいうてきかす
  よろづいさいのもとなるを
  かみがでゝなにかいさいをとくならバ
  せかい一れついさむなり
  一れつにはやくたすけをいそぐから
  せかいのこゝろもいさめかけ

 
 神様は今までに何度も何度も全ての時代の、この世界中を見まわしてはきたのだけれど、神様の心を知っている者など、存在したことはありませんでした。
 それもそのはずです。
 今まで、神様は自分の気持ちを、誰にも伝えたことがないのですから。
 それはもちろん、むりのないことなのです。
 神様は時が熟すのをまって、人々に神の思いを伝えることにしました。
 神様が「ぢば」と名付けた場所があります。
 そのぢばについて、人間たちは、霊験あらたかなところだと言っていますが、その本当の意味を知っている者などいる筈もありません。
 でも人間たちが、もし神様の心を知れば、きっと神様や「ぢば」のことが恋しくなるにちがいないでしょう。たとえどのような者であっても、すべての人間たちが恋しく思えるにちがいありません。もし人間たちが知りたいと思ったなら、この「ぢば」に来てもらおう。そして、ここで神様の心を伝えることにしよう。聞きたい者がいたなら、ゆっくりと一つひとつ伝えることにしよう。
神様が人々にこの心を伝えたならば、きっと世界中の人々は奮い立ち、勇み立つに違いありません。そして世界中の人々が、神様が最初に描いていた、本来の人々の在り方に近づくよう努力して扶け合いながら生きていくでしょう。
 そうなれば世界中のすべての生命がもっともっと元気になって、本来あるべき姿に向かって人々の成長も加速していくのです。
 
 第二節と第四節の終わりだけ、なむてんりわぅのみことの神名のあとに、「よしよし」と唱えます。
 
御逸話篇には、

 ある時、飯降よしゑ(註、後の永尾よしゑ)が、「ちよとはなし、と、よろづよの終りに、何んで、ようし、ようしと言うのですか。」と、伺うと、教祖は、
「ちよとはなし、と、よろづよの仕舞に、ようし、ようしと言うが、これは、どうでも言わなならん。ようし、ようしに、悪い事はないやろ。」
と、お聞かせ下された。(108 ようしようし


という御逸話が掲載されていますが、明確な理由は述べられていません。
 ただ、この二つのお歌だけは神様の視点に経って神様から人間に向かって仰せられているお歌だと私は思います。
 もちろん、みかぐらうたが神様の作られたお歌ではありますが、第一節と第三節は、たすけて下さいと人間が神様にお願いするないようです。第五節、つまり十二下りのてをどりの地歌も人間の視点でこの道の道すがらを描かれていると解釈するべきだと私は思っています。
 つまり第四節で「いさいをとききかす」と仰せられた神様の御心を知った人々が、しっかりとこの道を歩む姿を、第五節で書かれているのです。
 もちろん、その手本となるものは教祖のひながたですから、第五節は教祖のひながたが書かれていると思っても問題はないですし、また教祖のひながたは一人ひとりの手本というだけでなく、全ての人間の手本ですから、人類が陽気ぐらしへと歩むその姿が描かれていると言っても、それも間違いではないかもしれません。
 ただし、あくまでも人間側からみた視点で第五節は書かれているということです。つまり一見神様が仰せになっているように見えるお歌であったも、神様から教えられたことを、この道を歩む人間が復唱していると考えた方がいいと私は思っています。
 
第五節
 
一下り目
 
  一ッ 正月こゑのさづけは
     やれめづらしい
  二ニ につこりさづけもろたら
     やれたのもしや
  三ニ さんざいこゝろをさだめ
  四ッ よのなか
  五ッ りをふく
  六ッ むしやうにでけまわす
  七ッ なにかにつくりとるなら
  八ッ やまとハほうねんや
  九ッ こゝまでついてこい
  十ド とりめがさだまりた


 正月という言葉が、一下り目の冒頭と二下り目の冒頭の二回出てきます。
どうして二度も正月がでてくるのだと、不思議に思ったことはありませんか。
私は、はじまりは二度あるからだと教えて頂いたことがあります。
それは人間の命で考えると、母親の胎内で受精をしたときと、出産の二回ということになるかもしれません。一人ひとりの信仰で考えるならば、この道を出会ったときと、自分からこの道を歩もうと決心した時になります。教祖のひながたで考えるならば「我は元の神、実の神である……」と神様が人間に神様の存在を宣言された瞬間と、「みきを神のやしろに差し上げます」と人間から神様へこの道を始める決定をした瞬間にあたるかもしれません。
もちろん、本当のはじまりは、自分から道を求めて出発した時ではあると思うのですが、正月という言葉が二度出てくるのは、たぶん、そういう意味合いなのだろうと思います。
 そう考えると、一下り目の冒頭
「こゑのさづけは やれめづらしい」
と、いうのは、おさづけを取り次いで頂いて、この道を知ったことのよろこびを現しているのではないでしょうか。
 
「につこりさづけもろたら やれたのもしや」
 神様のお働きの珍しさや偉大さを知って、
 
「さんざいこころをさだめ」
と、なります。
 
「さんざい」には「散財」や「三才」の字があてられるそうです。
「散財」と「三才」全く意味の違う言葉ですが、大切なのは神様の存在を知った人間が最初に心を改めた瞬間を描いているものだと思います。
そうして
「よのなか」
 大和の方言で「豊作」を意味するのだそうですが、心を改めたことによって沢山の御守護を頂けると夢見ている姿ではないかと思います。
ですから「よのなか」のあとに
「りをふく」(理または利を吹く)
と続き、
こちらもたくさん神様の御守護を頂ける様をあらわしています。
そうしてその神様の御守護は
「むしやうにでけまわす」(無尽蔵にどんどんとできてくる)
さらには、
「なにかにつくりとるなら やまとハほうねんや」
(どんな作物も育てて収穫するならば、大和は豊年や)
と、神様の存在を知った人々の喜びや希望が描かれています。
そうして
「ここまでついてこい」
と自分自身が神様から応援されるような心になったならば、
「とりめがさだまりた」(収穫量が定まった)
となり、一下り目は一貫して神様に出会えた喜びがあふれていることがわかります。
 
 そうしてその喜びのままに二下り目へと続くのです。

 
二下り目
 
  とん/\とんと正月をどりはじめハ
     やれおもしろい
  二ッ ふしぎなふしんかゝれバ
     やれにぎはしや
  三ッ みにつく
  四ッ よなほり
  五ッ いづれもつきくるならば
  六ッ むほんのねえをきらふ
  七ッ なんじふをすくひあぐれバ
  八ッ やまひのねをきらふ
  九ッ こゝろをさだめゐやうなら
  十デ ところのをさまりや

 
 
 まず「とん/\とんと正月をどりはじめハ やれおもしろい」と、自分から信仰を求めることの喜びを表しています。
誰かにしてもらうことを望むのではなく、自分から「おどる」をいう自発的な行為が、ここで初めて出てきます。つまり二下り目は自分からこの道を歩もうときめた喜びが描かれているのです。
続いて
「ふしぎなふしんかゝれバ やれにぎはしや」
と、陽気ぐらし世界建設へ参加する喜びが描かれます。
 この時、おてふりでは「ふしぎな」の箇所が投げの手です。「ふしぎな」というお歌のとき、投げの手なるのはここだけです。三下り目でてくる「ふしぎな」は扇をもっている時のお手なので、違うのですが、それ以外の「ふしぎな」のお歌は、首をかしげて両手を左わき腹に添えるお手でいかにも「ふしぎな」という感じがします。それは、もしかしたら、まだこの時は、まだこのお道を歩み始めたばかりで、本当の神様の不思議が分かっていないということを現しているのかもしれません。二下り目では、まだ本当の神様の素晴らしさが分からないけれど、少しずつ自分の幸せだけでなく周囲や世の中の幸せを考えるようななっていく様が二下り目で現されているように思います。
 まず
「みにつく」(身につく)
と自分自身がこの道を歩むにつれて変わっていくことに気づき、
「よなほり」(世直り)
と漠然とでも世の中の幸せを願うようになります。
そうして
「いづれもつきくるならば」
 みんながこの道を歩んでいけばそうなるんだと、自分自信に言い聞かせながら、この道を歩む様子が描かれます。
 一下り目では自分にとっての目の前の幸せを願っていたものが、
「むほんのねえをきらふ」(謀反の根を切る)
「なんじふをすくひあぐれバ」(難渋を救いあげる)
「やまひのねをきらふ」(病の根を切ろう)
と、他人様の助かりを願う心へと変わっていくのです。
そうして
「こゝろをさだめゐやうなら」
 他人様の助かりを願う心を定めたならば
「ところのをさまりや」
(自分の足元であるこの場所がしっかりと治まってくる)
と、ここでやっと本当の信仰に目覚めていくのです。
 
三下り目
 
  一ッ ひのもとしよやしきの
     つとめのばしよハよのもとや
  二ッ ふしぎなつとめばしよハ
     たれにたのみはかけねども
  三ッ みなせかいがよりあうて
     でけたちきたるがこれふしぎ
  四ッ よう/\こゝまでついてきた
     じつのたすけハこれからや
  五ッ いつもわらはれそしられて
     めづらしたすけをするほどに
  六ッ むりなねがひはしてくれな
     ひとすぢごゝろになりてこい
  七ッ なんでもこれからひとすぢに
     かみにもたれてゆきまする
  八ッ やむほどつらいことハない
     わしもこれからひのきしん
  九ッ こゝまでしん/\゛したけれど
     もとのかみとハしらなんだ
  十ド このたびあらはれた
     じつのかみにはさうゐない

 
「ひのもとしよやしきの つとめのばしよハよのもとや」
(日ノ本、庄屋敷の つとめの場所は世界の元である)
と、三下り目ではじめて「つとめ」という言葉がでてきます。
 言い換えるならば、神様の目からみたら、ここから本当の信仰がはじまるのです。そう考えると、三下り目で扇を使うの意味も想像できるかもしれません。一つは、他人様を助ける心になった晴れやかな心を表しているとも考えられますし、神様に応援されている心になったことを現しているとも考えられます。
 まず「つとめのばしよハよのもとや」と他人様を助ける心を定めてやっと、祈りを捧げるこの場所が世界の元となる場所であることを教えられます。
  そうして
「ふしぎなつとめばしよハ たれにたのみはかけねども
 みなせかいがよりあうて でけたちきたるがこれふしぎ」
 不思議なつとめ場所は、誰にも頼んでいないのに、しぜんと出来上がってくる。本当に不思議なことである。
と、世界の元となる場所、祈りを捧げる場所がどれほど、不思議な場所であるかを示されます。
 それは
 「よう/\こゝまでついてきた
じつのたすけハこれからや」
(ようやくここまで、ついてくることができました。本当の救済はこれからだ)
と出てくるように、世界の元となる、この場所から、本当の救済が始まるからなのです。
 そのことを理解して、はじめて私達人間も、本当の人助けができるのです。
 もちろん、はじめからそのことを全ての人間が理解できるはずもありません。多くの人々はバカなことだとわらうことでしょう。
だからこそ
「いつもわらはれそしられて
 めづらしたすけをするほどに」
(何時も笑われ、誹られながら今までになかった珍しい救済をしていくのだ)と私たちは神様に勇気づけられて、この道を歩んでいくのです。
そうして
「むりなねがひはしてくれな
ひとすぢごゝろになりてこい」
(無理な願いはしないでください。一条心になってついてきて下さい)
と、何があっても、素直な誠の心でまっすぐに神様へついていくことをお教え下さってます。
 しかも
「なんでもこれからひとすぢに かみにもたれてゆきまする」
のおてふりを見ればわかるように、たとえ道を間違えて反対方法に歩んだとしても、素直に神様の方へと歩むならば、神様がちゃんと心の向きを修正してくださるのです。 
 そうして
「やむほどつらいことハない わしもこれからひのきしん」
(病むほど辛いことはありません。私もこれから毎日の寄進をはじめましょう)と、神様に心の向きを修正して頂いたならば、病気や災難もご守護が頂けるようになって、その心から神様に感謝し、毎日の行いでそれを表せるようになるのです。
 どうして、そんなことが出来るのかといえば、
「こゝまでしん/\゛したけれど もとのかみとハしらなんだ」
(ここまで信心を続けてはきたけれど、この神様が元の神様だとはしりませんでした)
「このたびあらはれた じつのかみにはさうゐない」
(この度、お現れになられた真実の神様に相違ありません)
と、この神様こそ、この世界を想像された元の神様であり、今もなお、私たちをご守護下さる実の神様である。だからこそ、この場所から真実の祈りを捧げ、本当の救済のだと、ここでやっと神様の本質を理解することができるのです。
 
 
四下り目
 
  一ッ ひとがなにごといはうとも
     かみがみているきをしずめ
  二ッ ふたりのこゝろををさめいるよ
     なにかのことをもあらはれる
  三ッ みなみてゐよそばなもの
     かみのすることなすことを
  四ッ よるひるどんちやんつとめする
     そばもやかましうたてかろ
  五ッ いつもたすけがせくからに
     はやくやうきになりてこい
  六ッ むらかたはやくにたすけたい
     なれどこゝろがわからいで
  七ッ なにかよろづのたすけあい
     むねのうちよりしあんせよ
  八ッ やまひのすつきりねはぬける
     こゝろハだん/\いさみくる
  九ッ こゝはこのよのごくらくや
     わしもはや/\まゐりたい
  十ド このたびむねのうち
     すみきりましたがありがたい

 
 教祖のひながたの最初は、貧に落ちきるということでしたが、それによって教祖がご苦心なされたのは単なる貧しさではなくて、世界一列を救けたちという親神様とそれを理解できないでいる家人との板挟みである。だから陽気ぐらしへの第一歩は板挟みや人間関係なんだと教えて頂いたことがあります。もちろん、教祖のひながたのすべてが板挟みだと考えることもできるのですが……。
「ひとがなにごといはうとも かみがみているきをしずめ」
(他人がどんなことを行っても、神様がしっかりと見ていて下さるので、心をしずめなさい)
 三下り目にあるように、本当の信仰を歩み始めると、まずはじめに苦しむのは板挟みなのかもしれませんね。
 でも、
「ふたりのこゝろををさめいよ なにかのことをもあらはれる」
(二人の心を治めていきけば、きっとどんなことでも神様が見せて下さる)
と板挟みを乗り越えて、やっと自分だけの信仰ではなくなるのです。
 二人と仰せになるので、もちろん夫婦と考えることもできます。教祖と夫善兵衛様や本席様夫婦のことを仰せになられているんとだ聞いたこともあります。いろんな解釈ができると思うのですが、ここで大切だと思うことがあります。
 それはここで初めて、只一人の信仰ではなくなったということことです。
 自分だけの信仰ではなくなったということに大きな意味があることだと思います。
 
「みなみてゐよそばなもの かみのすることなすことを」
(みなさん、そばにいる人は神様のすることをしっかりと見ていてください)
「よるひるどんちやんつとめする そばもやかましうたてかろ」
(夜も昼もドンチャンと大きな音でおつとめをするので、傍にいる人々はきっとやかましいと思っていることでしょう)
「いつもたすけがせくからに はやくやうきになりてこい」
(神様はいつも人々をたすけたいと急いているのですから、みなさんも早く陽気な心になってきてください)
 一人だけの信仰から複数人の信仰へと変わると、やはり心の持ち方も大きく変わると思います。みかぐらうたの内容も、信仰の喜びが大きく伝わる内容になっている気がします。
 そうして、それでも自分たちの信仰を理解してくれない人々のことが気になるのかもしれません。
「むらかたはやくにたすけたい なれどこゝろがわからいで」
(自分の周囲にいる村の人々から救済したけれど、なかなか信仰を理解してくれないので)
「なにかよろづのたすけあい むねのうちよりしあんせよ」
(何か、全てのものが助け合う世界、それを心の底からしっかりと考えなさい)
 そんな理解してくれない周囲の人々に対せて、どうすれば理解してもらえるだろう。そういった人々とどうやって信頼関係を気づけるだろう。本当のたすけあいとは何だろう。自分だけの信仰から、周囲の人々へと巻き込む信仰に変わっていく中で、おてふりでは、一旦ここで、扇を置くことになります。
 
 「やまひのすつきりねはぬける こゝろハだん/\いさみくる」
(病はすっきりと根から抜けていき、心はだんだんと勇んでくることでしょう)
 扇を置くとすぐに出てくる言葉が「病」です。
 これは自分の病気かもしれません。大切な人の病気かもしれません。
 でも私は、においをかけた新しい人の病気ではないかと考えることもできるかと思います。誰かの救かりを願うことによって、私達の信仰は前へと進んでいくのだと思うからです。
「こゝはこのよのごくらくや わしもはや/\まゐりたい」
(この場所は、この世界の極楽です。私もできるだけ早く、そこへ参りたい)
「このたびむねのうち すみきりましたがありがたい」
(この度、心の底から澄み切ることができて本当にありがたい)
 そうして、にをいをかけた人々の心と共に、自分の心も澄むことができていくのではないでしょうか。

五下り目

  一ッ ひろいせかいのうちなれバ
     たすけるところがまゝあらう
  二ッ ふしぎなたすけハこのところ
     おびやはうそのゆるしだす
  三ッ みづとかみとはおなじこと
     こゝろのよごれをあらひきる
  四ッ よくのないものなけれども
     かみのまへにハよくはない
  五ツ いつまでしん/\゛したとても
     やうきづくめであるほどに
  六ッ むごいこゝろをうちわすれ
     やさしきこゝろになりてこい
  七ッ なんでもなんぎハさゝぬぞへ
     たすけいちじよのこのところ
  八ッ やまとばかりやないほどに
     くに/\までへもたすけゆく
  九ッ こゝはこのよのもとのぢば
     めづらしところがあらはれた
  どうでもしん/\゛するならバ
     かうをむすぼやないかいな

 
「ひろいせかいのうちなれバ たすけるところがまゝあらう」
(広い世界の中には、救済すべきところが沢山あることでしょう)
 三下り目で真の信仰に目覚め、四下り目で一人だけの信仰でなくなってくると、もっともっと、助けるべき人の姿がみえてくるように思います。
「ふしぎなたすけハこのところ おびやはうそのゆるしだす」
 そうして、その不思議なたすけは、何から始まるかというと、「をびや」と「ほうそ」つまり出産と伝染病からはじまります。
 私たち信仰者は「八つのほこり」や「病の元は心から」とお教えいただいていますが、出産と疫病というものは、個人の心づかいだけではどうしようもない一面があります。医療の発達していなかった当時では、最も多くの人々が心を痛めたことでもあります。そして、これは昔の話だけではなく、今でも貧しい国や地域になればなるほど、この二つで苦しむ人々が多くなるのです。だからこそ、神様はこの二つから助けようとしているのだと思います。また、この二つの言葉のあとには「許し」という言葉が続きます。私たちは産まれてくる前、前世でどのように生きてきたかを知れません。でも、たとえどのような生き方としても、神様に許されてこの世界に産まれてくるのです。そうしてどれほどの病に苦しんだとしても、神様は最後まで私たちを見捨てることなく、ちゃんと許しを与えてくださるのです。
 だからこそ、どんな人でも、精一杯に輝いてこの世界を生きることができるのです。そうして私達は多くの人を助けることによって神様に喜んで頂けることができるのだと思います。
 また、おてふりではここではじめて、首をかしげて両手を左わき腹に添える所謂「ふしぎの手」をします。つまりここから、神様の御心に沿った本当の不思議な御守護が現れてくるとも考えることができます。
 また、周囲の人々をどのようにして助けていくかというと
「みづとかみとはおなじこと こゝろのよごれをあらひきる」
 水と神様とは同じようなものです。神様の教えによって、人々の心をきれいにして、それぞれの人を助けていくのです。なぜ、そんなことができるかと言えば
「よくのないものなけれども かみのまへにハよくはない」
とあるように、人々には悪いところもあるし、欲の心もあるけれど、でも神様の目からみたら、本当に悪い人などいないから、心をきれいにして助けることができるのです。
 そして、
「いつまでしん/\゛したとても やうきづくめであるほどに」
(どれほど信心をつづけても、その道は陽気にあふれた道なのです)
 この道の歩みは、「陽気づくめ」の世界が広がっているのです。
だからこそ
「むごいこゝろをうちわすれ やさしきこゝろになりてこい」
(惨い心をきれいに忘れて、優しい心になってきなさい)
と、神様が綺麗な心へと変わっていくことを願われているのです。
 それは神様の御心が、
「なんでもなんぎハさゝぬぞへ たすけいちじよのこのところ」
(どんなことをしても、誰にも難渋な思いをさせたくはありません。ただ一条に人助けをしていくこの場所なのですから)
 と、人を助ける人々を応援したくて仕方がないからです。
 それも
「やまとばかりやないほどに くに/\までへもたすけゆく」
(これは決して大和だけのことではありません。さまざまの国や地域へも助けにいこうとするのです)
と、世界中の人々を助け上げたいと願われているのです。
 だからこそ
 「こゝはこのよのもとのぢば めづらしところがあらはれた」
(この場所こそ、この世界の元となる「ぢば」であるので、ここから珍しい神様の御守護が現れてくるのです)
と、神様は人間を創造されたこの「ぢば」をお現われになって、人々を助けようとなさっていることをお示し下さいました。
 ですから私達人間も
「どうでもしん/\゛するならバ かうをむすぼやないかいな」
(どうでもという、真剣な心で信心を続けるのであれば、人々の集まる講を結んで切磋琢磨してこうではありませんか)
 との言葉通り、みんなで力を合わせて「講」を作り神様の御心に沿って人助けに励まないといけないのです。
 
六下り目
 
  一ッ ひとのこゝろといふものハ
     うたがひぶかいものなるぞ
  二ッ ふしぎなたすけをするからに
     いかなることをもみさだめる
  三ッ みなせかいのむねのうち
     かゞみのごとくにうつるなり
  四ッ ようこそつとめについてきた
     これがたすけのもとだてや
  五ツ いつもかぐらやてをどりや
     すゑではめづらしたすけする
  六ッ むしやうやたらにねがひでる
     うけとるすぢもせんすぢや
  七ッ なんぼしん/\゛したとても
     こゝろえちがひはならんぞへ
  八ッ やつぱりしん/\゛せにやならん
     こゝろえちがひはでなほしや
  九ッ こゝまでしん/\゛してからハ
     ひとつのかうをもみにやならぬ
  十ド このたびみえました
     あふぎのうかゞひこれふしぎ

  
「ひとのこゝろといふものハ うたがひぶかいものなるぞ」
(人間の心のいうものは本当に疑い深いものです)
 五下り目で、講を結び、実際に多くの人で力を合わせて何かをはじめようとしても、それはなかなか難しいものです。なぜかというと、周囲の人々をどこまで頼っていいものか、どこまで信じていいものか分からないからです。それは自分自身もそうですし、周囲の人々か自分に対しても思っていることかもしれません。
 「ふしぎなたすけをするからに いかなることをもみさだめる」
 神様の心に沿った不思議なたすけをしていくならば、それぞれの心は、しっかりと神様が見定めて下さるのですから、決して心配するようなことはないのです。
なぜならば、
「みなせかいのむねのうち かゞみのごとくにうつるなり」
(この世界のどんな人のどのような心のなかも、神様の前では鏡のごとくはっきりと映し出されるのです)
と、あるように、人々の心は、全て神様がちゃんと御存じだからです。
 そうして大切なことは、
「ようこそつとめについてきた これがたすけのもとだてや」
(ようこそ、「つとめ」に付いてきました。この「つとめ」こそが、世界中の人々を救済する、その元となる大切な「つとめ」なのです)
と、あるように、つとめによって人々は助かるのです。
 つとめは大きく二つにわけることができます。
「いつもかぐらやてをどりや すゑではめづらしたすけする」
 (いつも「かぐら」や「てをどり」をしているが、この「つとめ」が、世界中の様々なところまでいきわたり、珍しいたすけとなって現れてくるのです)
 つまり「かぐら」と「ておどり」によって、不思議な珍しい神様の御守護を見せて頂けることができるのです。だからこそ人を助ける心ではれば、どんどんと神様にお願いをすればいいのです。
「むしやうやたらにねがひでる うけとるすぢもせんすぢや」
 神様も千差万別ないろんな願いを聞き入れて下さるのですから。
「なんぼしん/\゛したとても こゝろえちがひはならんぞへ」
 どれほどこの道を歩んでいるつもりでいても、神様の御心に沿っていなければいけません。決して不思議な神様の御守護をみることはないのです。でも、反対に神様のご守護がみれないからといって、もう信仰をしなくてもいいということでも、もちろんありません。
「やつぱりしん/\゛せにやならん こゝろえちがひはでなほしや」
(やはり、信心はしなければなりません。心得違いをしていると出直しという道もあるのです)
 しっかりと信仰を続けなければ何もかもが台無しになってしまうのです。そうしてみんなの心が、神様の心に沿って一手一つになったならば、
「こゝまでしん/\゛してからハ ひとつのかうをもみにやならぬ」
 (人々が、この境地まで信心してきたならば、一つ、しっかりとした講を作ってみていかなければなりません)
と、講を結ぶということが、やっと、ここまできて、できるのです。
 そしてそれは、
「このたびみえました あふぎのうかゞひこれふしぎ」
(この度、やっとみることができました。扇の伺いは、本当に不思議な御守護です)
と、あるように、神様にお伺いをたてて、しっかりと許しを頂いて講を結ぶことができるようになるのです。
 
七下り目
 
  一ッ ひとことはなしハひのきしん
     にほひばかりをかけておく
  二ッ ふかいこゝろがあるなれバ
     たれもとめるでないほどに
  三ッ みなせかいのこゝろにハ
     でんぢのいらぬものハない
  四ッ よきぢがあらバ一れつに
     たれもほしいであらうがな
  五ツ いづれのかたもおなしこと
     わしもあのぢをもとめたい
  六ッ むりにどうせといはんでな
     そこはめい/\のむねしだい
  七ッ なんでもでんぢがほしいから
     あたへハなにほどいるとても
  八ッ やしきハかみのでんぢやで
     まいたるたねハみなはへる
  九ッ こゝハこのよのでんぢなら
     わしもしつかりたねをまこ
  十ド このたびいちれつに
     ようこそたねをまきにきた
     たねをまいたるそのかたハ
     こえをおかずにつくりとり

 
「ひとことはなしハひのきしん にほひばかりをかけておく」(今から一言、日の寄進について話をしておきます。でも、それはほんの少し、ちょっとにをいをかける程度の話なのです)

 七下り目に一つのお歌は、今までずっと、「にをいがけ」のことを仰せになっているのだと、ずっと思っていました。
 でも、全体の流れでみていくと、どうも違うのではと思うようになったのです。それよりも、講を結んだ人々が、「神の田地」である屋敷に種をまいて作物を育てるように、「日々の寄進」である神様への感謝やその行いによって、その種を育てていくことが大切であるのと書かれているのだと気づきました。ですからここは、「日々の寄進」について一言述べておく。これはほんの匂いくらいをわずかなヒントのようなものですと言った意味になるかと思います。
 つまり六下り目で人々の心が揃い、神様の御心に沿うようになって、講を結ぶ許しを頂いたなら、陽気ぐらし建設をするためも土台となる場所、神様にお働き頂く場所が必要になります。その場所を「田地」と仰せになられたのではないかと解釈できるのです。
「ふかいこゝろがあるなれバ たれもとめるでないほどに」
(深い心、思慮があるのであれば、それか決して誰も止めてはいけないのです)
 講を結んだ人々の中には、いろんな考え方をする人もいるかもしれませんが、神様を信じて神様の御心に沿った、深い考えのある行動は、誰も止めることが出来ないし、止めてはいけないのです。
「みなせかいのこゝろにハ でんぢのいらぬものハない」
(みんなの世界中の心の中には、田地となるものを必要としない者はありません)
 農業に従事していた人々の多かったこの時代の人々が分かりやすいように、田地という言葉を使って「日々の寄進」ということをお教えくださっているのが、ここでやっと分かるかと思います。
「よきぢがあらバ一れつに たれもほしいであらうがな」
(良い田地があったならば、きっとみんな誰もが欲しいと思うことでしょう)
 「いづれのかたもおなしこと わしもあのぢをもとめたい」
 (どんな人間でも、みんなそのことは思っているのです。誰もがあの田地を欲しいと願うのです)
 田地とは、一生懸命に耕して種をまき心を込めて丹精をしたあとに収穫を期待できるものです。そうしてその田地は
「むりにどうせといはんでな そこはめい/\のむねしだい」
(無理にどうしなさいこうしなさいとは言いません。みんな一人一人の心次第なのです)
と、あるように神様が人間たちに指図することではなく、それぞれが神様の事を思ってしっかりと考えて行動するということが大切なのではないでしょうか。
 その田地を得るために
「なんでもでんぢがほしいから あたへハなにほどいるとても」
(どうしてでも田地が欲しいのですから、その値はどれほと大きくても欲しいということになります)
 ですから、どれほどの田地を欲しがって、どれほどの努力をるのかは、それぞれの人々が、自分自身で、しっかりと考えるべきことなのです。
 でも大切なことは、
「やしきハかみのでんぢやで まいたるたねハみなはへる」
(この屋敷は神の田地なのですから、どのような種であっても、蒔いた種ならば、すべてが生えてくるのです)
 つとめをしたり、神様のご用をしたりする「屋敷」は神様の田地だということです。他の田地ではすべての種子が発芽するということはないかもしれませんが、神様のご用をする「屋敷」という田地であれば、どんな種を撒けば撒くだけ芽が出てくるのです。
「こゝハこのよのでんぢなら わしもしつかりたねをまこ」
(この屋敷ことがこの世界の元となる田地であれば、私もここでしっかりと種を蒔こう)
 そうして、そんな素晴らしい田地であるからこそ、人々が集まって神様の田地で種をまこうとするのです。
 「このたびいちれつに ようこそたねをまきにきた
 たねをまいたるそのかたハ こえをおかずにつくりとり」
(この度、世界中から、ようこそ種を蒔きにきてくれました。この田地は、蒔いた種はすべて生えるのですから、肥を置かなくてもも収穫できるほど素晴らしい田地なのです)
 つまり、神様のご用をしっかりとつとめてさえいれば、何をしなくても、しっかりと神様がお働きくださり、多くの御守護を頂けることになるのです。
 
 
八下り目
 
  一ッ ひろいせかいやくになかに
     いしもたちきもないかいな
  二ッ ふしぎなふしんをするなれど
     たれにたのみハかけんでな
  三ッ みなだん/\とせかいから
     よりきたことならでけてくる
  四ッ よくのこゝろをうちわすれ
     とくとこゝろをさだめかけ
  五ツ いつまでみあわせゐたるとも
     うちからするのやないほどに
  六ッ むしやうやたらにせきこむな
     むねのうちよりしあんせよ
  七ッ なにかこゝろがすんだなら
     はやくふしんにとりかゝれ
  八ッ やまのなかへといりこんで
     いしもたちきもみておいた
  九ッ このききらうかあのいしと
     おもへどかみのむねしだい
  十ド このたびいちれつに
     すみきりましたがむねのうち

 
 七下り目で神様にお働き頂ける場所が整ったならば、陽気ぐらし普請を進めるための用材を揃えなければなりません。でも、それは決して人間心で集めるのではなく、ちゃんと神様が先回りをして見ていてくださっているのです。そのことが八下り目に書かれています。
「ひろいせかいやくになかに いしもたちきもないかいな」
(広い世界や国の中まいたら、陽気ぐらし世界建設の用材となる石や立ち木は見つかるでしょうか)
「ふしぎなふしんをするなれど たれにたのみハかけんでな」
(神様は不思議な普請をなされますが、決して誰かに頼んだりはなさいません)
「みなだん/\とせかいから よりきたことならでけてくる」
(をれでも、みんな、だんだんと世界中から陽気ぐらし世界建設の用材となる人々が寄り集まってくるのです)
 私達人間は一生懸命に頑張っていると、いつのまにか自分だけが頑張っているような気になって、ついつい神様のお陰であるということを忘れがちになります。でも、本当は神様が先回りして、ちゃんと私たちのことを見守って下さっているのです。ですから、大切なことは、人間である自分がこのようにしたい、このような普請をしたいと考えるのではなく、神様に喜んで頂くにはどうすればいいのかをしっかりと考えることが大切なのではないかと思います。
 「よくのこゝろをうちわすれ とくとこゝろをさだめかけ」
(欲の心から離れて、しっかりと心を定めなさい)
 どうしても、自分が偉いと思ってしまうと、例えば数字にとらわれて、これだけの数字ができたのは全部私が頑張ったからだと思い上がったり、他人様を助けることよりも、数字を挙げることや自分を高めようとすることに心がいったりしてしまうかもしれません。
 でも本当は、純粋に他人を助ける心で神様にもたれきることが大切なのではないでしょうか。
 「いつまでみあわせゐたるとも うちからするのやないほどに」
 (何時まで集まった人々が顔を見合わせて思案をしていても、けっして内々の中から物事を進めていくのではありません)
 反対に、まったくできなくて、どうしようかと思うこともあるかもしれません。講の中の人だけで悩んでも決して前へとは進んでいかないのです。どんな時でも、そこには必ず神様の御心があるのですから、やはり神様にもたれきって通ろところに道は開けてくるのだと思います。
「むしやうやたらにせきこむな むねのうちよりしあんせよ」
 ですから、ただ焦って、どんなことも決めつけてしまう前に、まずはしっかりと、自分の心の底にある本心が、しっかりと神様にお喜び頂けるような心であるのかを、まずはしっかりと見つめなおすことが大切なのだと思います。
 そうすれば
「やまのなかへといりこんで いしもたちきもみておいた」
(神様の教えての届いていない山の中へと神様が入り込まれて、陽気ぐらし普請を進めるための用材を見ておいてくださいました)
「このききらうかあのいしと おもへどかみのむねしだい」
(この木を切ろうか、それともあの石にしようか。それは全て神様のお心次第なのです)
 と、ありますように、ちゃんと神様が必要な用材を見つけて下さるのです。
ですから大切なのは、
「このたびいちれつに すみきりましたがむねのうち」
(こうして神様に集められた石や木はすべて、心の中が澄み切ってくるのです)
 どんな人間でもまずは、自分の心が本当に澄み切っているのか、神様の用材として使われる心になっているのか、しっかりと見つめなおさなければないません。
 
九下り目
 
  一ッ ひろいせかいをうちまわり
     一せん二せんでたすけゆく
  二ッ ふじゆうなきやうにしてやらう
     かみのこゝろにもたれつけ
  三ッ みれバせかいのこゝろにハ
     よくがまじりてあるほどに
  四ッ よくがあるならやめてくれ
     かみのうけとりでけんから
  五ツ いづれのかたもおなじこと
     しあんさだめてついてこい
  六ッ むりにでやうといふでない
     こゝろさだめのつくまでハ
  七ッ なか/\このたびいちれつに
     しつかりしあんをせにやならん
  八ッ やまのなかでもあちこちと
     てんりわうのつとめする
  九ッ こゝでつとめをしてゐれど
     むねのわかりたものハない
  とてもかみなをよびだせば
     はやくこもとへたづねでよ

 
 
 よく問題になるのは「一せん二せん」の「せん」が平仮名で書かれているので、どのような漢字を当てて意味を解釈するべきかということだそうです。
外国語の翻訳本では「洗」の字が使われたり洗うという意味の翻訳が使われていると聞きました。
 昔は英語や中国語など各言語によって違う解釈を採用されていたこともあったのだそうですが、国や地域によっては複数の言語を使われる方も大勢おられるので、今は言語によって違いがあってはいけないという判断から解釈の統一をされているそうです。ただ「銭」「線」「選」「千」など、さまざまな漢字を当てても意味は通じることもあり、なかなか解釈は難しいかなと思います。 
 また、いろんな解釈ができるということは、決して代えることのできない、みかぐらうたと核となる部分に加えて、それぞれの人がその時々の境遇や心のありようで、その時々に神様の心に触れることができるという一面もあるかもしれません。そう考えたならば、ワザといろんな解釈ができる部分を神様が残されているのかもしれないなあと、私は勝手にそんな気がしております。
「ひろいせかいをうちまわり 一せん二せんでたすけゆく」
(この広い世界を飛び回って「一せん」「二せん」と人々をたすけていきます)
 それよりも私が思う大切なことは、八下り目にあったように、陽気ぐらし建設の人材となった人々が心の底から澄み切ることによって、九下り目で初めて世界中をたすけにまわることができるということを仰せられたということです。
 そうして
「ふじゆうなきやうにしてやらう かみのこゝろにもたれつけ」
(不自由のないようにしてあげましょう。しっかりと神様の心にもたれ付きなさい)
 自らの心が澄み切っているからこそ、他人様を助けるときにでも、神様の心にもたれなさいよ。不自由のないように神様がしてくださいますよ!」と心から言えるようになるのです。
 「みれバせかいのこゝろにハ よくがまじりてあるほどに」
 神様の心に沿って世界を眺めたら、あちらこりら欲にまみれた世界であることが分かります。
「よくがあるならやめてくれ かみのうけとりでけんから」
(欲がもしあるならば、もうやめてください。決して神様が受け取ることはないのですから)
 だからこそ、自分自身の心も払い、他人様の心も澄ませる努力をして神様の御守護を頂けるようにしないといけないのです。
「いづれのかたもおなじこと しあんさだめてついてこい」
 このことは、どんな人でもみんな同じです。心を澄ませてしっかりと考えて、決心をして神様についていくことが大切なのです。
「むりにでやうといふでない こゝろさだめのつくまでハ」
 ですから、自分で決めて行動しないと意味がないのです。誰かに言われて嫌々しましただとか、せざるを得ない空気だったからとか、後で言い訳をできるような状態でやっても意味がないのです。誰かに無理にさせる必要もないですし、誰かに言われたからするのでもなく、自分で決心することが大切なのです。
「なか/\このたびいちれつに しつかりしあんをせにやならん」
(なかなか難しい問題ですので、今回はみんな、しっかりと考えなければなりません)
 なんでここまでいうのかというと、世界中を助けて廻るということは、それくらいの覚悟が必要なのです。本当にしっかりと考えて決心しないといけないのです。
 よく考えてください。
 「やまのなかでもあちこちと てんりわうのつとめする」
(神様のみ教えをしらない山の中でも、神様の御心にそった天理王命のつとめをする者もいます)
 みかぐらうたで「やま」と出てくるのは、まだこの道を知らない人々のいるところと解釈できます。すると、ここでの解釈は、この道を知らなくても、「てんりわうのつとめ」つまり神様の御心にそった祈りを捧げている人もいるという解釈になります。
反対に
「こゝでつとめをしてゐれど むねのわかりたものハない」
(神様の御教えをしってここでつとめをするものであっても、本当に神様の御心を理解したものがいるとは決して言えません)
 この道を歩んでいても、この屋敷で祈りを捧げていても、本当に神様の御心を心から理解している人間もまだ存在していない。
このことを
「なか/\このたびいちれつに しつかりしあんをせにやならん」
と仰せられているのです。
 そうして、
「とてもかみなをよびだせば、はやくこもとへたづねでよ」
とは言っても、真剣に考えて心を定め、それでも本当に神様の御心を知ってこの道を歩みたいのであれば、早く神様のもとへ尋ねてきなさい!ということをなのではないでしょうか。
 
十下り目
 
  一ッ ひとのこゝろといふものハ
     ちよとにわからんものなるぞ
  二ッ ふしぎなたすけをしてゐれど
     あらはれでるのがいまはじめ
  三ッ みづのなかなるこのどろう
     はやくいだしてもらひたい
  四ッ よくにきりないどろみづや
     こゝろすみきれごくらくや
  五ツ いつ/\までもこのことハ
     はなしのたねになるほどに
  六ッ むごいことばをだしたるも
     はやくたすけをいそぐから
  七ッ なんぎするのもこゝろから
     わがみうらみであるほどに
  八ッ やまひはつらいものなれど
     もとをしりたるものハない
  九ッ このたびまでハいちれつに
     やまひのもとハしれなんだ
  十ド このたびあらはれた
     やまひのもとハこゝろから


 真剣に考えて、本当に神様の御心を知ってこの道を歩みたいと心を定めたならば、次は神様の御心に沿って他人を助けるということになります。
 実は、病む人に、こんな話をして他人をたすけなさいと書かれている部分は、十下り目だけなのです。(違っていたらすみません)
「ひとのこゝろといふものハ ちよとにわからんものなるぞ」
 (人間の心というものは、ちょっとには分からないものですよ)
 これを他人をたすけるという意味で考えると、目の前にいる困っている人をたすけようとしても、簡単にこの人は、こんな心遣いで、こんなことに困っているはずだと決めつけてはいけないということだと思います。
 自分自身の心の中を省みても、不足でも不満でも思っていることでも、気分によって都合よくコロコロと変わってしまいます。しかも、冷静に自分の心が変わっていることに気が付かば、まだいい方で、だいたいの場合、自分の心遣いに矛盾が生じていることさえも気づかないことが多いように重いんす。
 ですから相手の心をこうだああだと決めつけるのではなく、しっかりと相手の話を聞いて、顔を見て目の色や表情の変化にも気を配ることが大切なのかもしれませんね。
「ふしぎなたすけをしてゐれど あらはれでるのがいまはじめ」
(不思議なたすけをしていても、神様が現れでてくるのは、今がはじめなのです)
 まして、たすけさせて頂こうという相手が、まったくお道のことをしらないのであれば、疑ってかかるのは、当たり前のことであります。
 「みづのなかなるこのどろう はやくいだしてもらひたい」
 (水の中にあるこの泥を早く出してもらいたいものです)
でも、神様のお望みになるのは、一人ひとりの心の中が澄み切ることです。心の汚れを綺麗にして澄み切った心になることがたすかるためには最も大切なことなのです。
「よくにきりないどろみづや こゝろすみきれごくらくや」
 この泥水のような心の汚れをきれいさえすれば、この世界は、極楽世界へとあっという間にかわるのです。
「いつ/\までもこのことハ はなしのたねになるほどに」
(いついつまでも、この話は、話の種になるのです)
 この泥水のような心の汚れをきれいにすることが幸せになるために最も大切なことだという話こそ、他人をたすける上で、どれほどの時間が流れようとも色褪せない大切な話なのです。
「むごいことばをだしたるも はやくたすけをいそぐから」
 時に厳しい言葉を発することもあるかめれしれません。でも、それも本当に心から相手の幸せを願い、一刻も早く、他人様の助かりの願う一心からなのです。
「なんぎするのもこゝろから わがみうらみであるほどに」
(難儀をするのも心からなのです。すべて自分自身を恨んでいるのです)
なかなか辛い思いをするのが、自分のせいだとは思いたくありません。だいたい人間の辛いことの大半は人間関係に起因することばかり、お金の問題もつきつめれば人間関係であるし、人間関係のストレスから病気にもなります。だから、自分は悪くないと思いながら、多くの人は苦しんでいるのです。もちろん、自分だけが悪いということはないかもしれません。でも自分が変わることで、周囲も次第に変わってくるものではないでしょうか。
「やまひはつらいものなれど もとをしりたるものハない」
(病気というものは本当に辛いものですが、その元になっているもをしってい者はいないのです)
 つまるところ、他人様をたすけるということは、病の元を教えるということなのかもしれませんね。澄み切った心になって、神様のお喜びくださる心になって、その御心にもたれきって歩むならば、どんな病でも助けてくださるのだと思います。
「このたびまでハいちれつに やまひのもとハしれなんだ」
(今回までは、だれもみんな、病の元となる者をしりませんでした)
 でも、多くの人々は、この事実を知らないから、病の元が何なのかをしらないから、苦しみ続けているのです。
「このたびあらはれた やまひのもとハこゝろから」
(今回、神様が現れてやっと分かったことは、病の元は自分自身の心にあるのです)
 今回、病の元となるのは自分自身の心であると神様から教えて頂きました。このことさえ心から理解することができたならば、どんな苦しみも助けていただけるのですから、私達道を歩むものは、しっかりとこのことを多くの人に伝えて、他人様のたすかりを願わなければならないのです。
 
十一下り目
 
  一ッ ひのもとしよやしきの
     かみのやかたのぢばさだめ
  二ッ ふうふそろうてひのきしん
     これがだいゝちものだねや
  三ッ みれバせかいがだん/\と
     もつこになうてひのきしん
  四ッ よくをわすれてひのきしん
     これがだいゝちこえとなる
  五ツ いつ/\までもつちもちや
     まだあるならバわしもゆこ
  六ッ むりにとめるやないほどに
     こゝろあるならたれなりと
  七ッ なにかめづらしつちもちや
     これがきしんとなるならバ
  八ッ やしきのつちをほりとりて
     ところかへるばかりやで
  九ッ このたびまではいちれつに
     むねがわからんざんねんな
  十ド ことしハこえおかず
     じふぶんものをつくりとり
     やれたのもしやありがたや

 
「ひのもとしよやしきの かみのやかたのぢばさだめ」
(日ノ本、庄屋敷の神の館のぢば定め)
 御存じの方もおられると思いますが、みかぐらうたが作られたのは慶応三年、
ぢば定めは明治8年。初めて教祖からおてふりを習っていた人々は「ぢば定め」の「ぢば」が何処にあるのか知らなかったことになります。
 どうして「ぢば定め」と言う言葉が、十一下り目の冒頭に出てくるのでしょう。「ぢば」という言葉はよろづよ八首にでてくる「やまとのぢば」と同じ意味なのか、或いは違うのか。いろいろと考えてしまうのですが、私の結論はでていません。
 みかぐらうたを眺めながら、いろんなことを考えていますと、全く別の疑問がわいてきました。どうしてみかぐらうたは十二下りなんだろうということです。
 まず考えられるのは一年が十二か月だからということになるのですが、私は違うと思います。なぜならば、正月が二回も出てくるからです。それよりも、十下り目で、病たすけを通しで、実際に他人様を助ける方法を述べられているということを考えると、他人を助ける人々が自分たちだけでなく、そういった集まりがあちらこちらにできて、本格的な陽気ぐらし世界建設の普請が始まる様子を十一下り目では描いでいるのだと思います。つまり一人の信仰者として、または自分たちだけの信仰の部分は十下り目までで、人間全体、この全体としての部分を十一下り目、十二下り目で描かれているのだと、今は思っています。(もしかしたら、何年か後には、別の意見になっているかもしれませんが……)
 だからこそ、たすけの根本である親神様のお鎮まり下さる「ぢば」が冒頭にでてきるのだと思います。
 今までのみかぐらうたを少し振り返ってみたいとおもいます。「ぢば」と言う言葉がまず出てくるのは第四節「よろづよ八首」です。
「このところやまとのぢばのかみがたと いうていれどももとしらぬ」
 「よろづよ八首」は神様がこの道をつくられた理由つまり立教宣言が書かれていいます。そうして、元を知らない人間に、「ぢば」という元を知らせて世界中とたすけるのが、その理由だと仰せになっています。
 続いて、「ぢば」という言葉はでてきませんが、十一下り目と同様「ひのもとしよやしきの」から始まる三下り目では、「つとめのばしよハよのもとや」と元ということが出てきます。それから「もとのかみとハしらなんだ」「じつのかみにはさうゐない」と「ぢば」の理と切り離せない言葉がならんでいます。それは、一人の信仰者が本当の信仰を始めた喜びの書かれている三下り目だからだと私は思っています。
 続いて、「ぢば」が出てくるのは五下り目です。「こゝはこのよのもとのぢば めづらしところがあらはれた どうでもしん/\゛するならバ かうをむすぼやないかいな」
 ここでは講を結ぼうと、みんなで一緒になって信仰を歩もうと決心されたときに、「ぢば」という言葉を使われています。
 ですから、十一下り目の冒頭に「ぢば」という言葉が出てくるのは、一つの「講」だけでなく、たくさんの「講」ができてきて、たくさんの「講」が力を合わせて陽気ぐらし世界建設への歩みを進める様子が描かれているのだと思います。
「ふうふそろうてひのきしん これがだいゝちものだねや」(夫婦がそろって日の寄進をする、これが第一の物種になるのです)
 まず陽気ぐらしの「種」となうのは夫婦という人間関係も最も核となる小さな単位から始まっています。そしてそれが、あちらこちらと芽がふいて、
「みれバせかいがだん/\と もつこになうてひのきしん」
(あたりを見回すと、世界中でだんだんと、モッコを担って日の寄進がはじまっています)
 あちらでも、こちらでも、大勢の人が陽気ぐらし世界建設の普請に汗を流しています。
 そうしてそれらの人々が、
「よくをわすれてひのきしん これがだいゝちこえとなる」
 (欲を忘れて日の寄進、これが第一に肥となるのです)
 澄み切った心で神様のお心に沿うように頑張っているのです。
「いつ/\までもつちもちや まだあるならバわしもゆこ」
(いつまでも土持ちは続いていきます。まだできることがあるのならば、私も一生に頑張りましょう)
 大切なことは、この陽気ぐらし世界建設の普請はいつまでも続いていくということなのです。だからこそ、まだできることがあるのならばと大勢の人が集まってきて限り無し普請に汗を流すのです。
「むりにとめるやないほどに こゝろあるならたれなりと」
(決して誰かを無理やりに止めるようなことをしてはいけません。真実の心があれば、誰でもこの道を歩んでいけるのです)
「なにかめづらしつちもちや これがきしんとなるならバ」
(何か珍しいと言われる土持ちが、神様への寄進となるならば、精一杯に頑張らせていただこう)

 本当に澄み切った心で、勇みたつ者が現れたならば、決してそれを止めてはならないのです。陽気ぐらし世界建設の普請とために担う畚(もっこ)の中にある土の一塊一塊が、全部神様への寄進となってゆくのですから。
「やしきのつちをほりとりて ところかへるばかりやで」
(屋敷の土を放り取って、場所が変わっていくだけのことです)
 そうして、寄進として神様のところへ集まってきた一塊一塊の土は、あちらこちらで様々な形となって神様の御守護を見せていただける元となるのです。
「このたびまではいちれつに むねがわからんざんねんな」
(この度までは、世界中の誰も、神様の心を理解する者がいなくで本当に残念なことでした)
 今までは、誰も神様の心を知った者などいませんでした、それが本当に残念なことだったのです。
「ことしハこえおかず じふぶんものをつくりとり やれたのもしやありがたや」
(今年は、肥をおくこともなく、十分な収穫を得ることができました。本当に頼もしくて、有り難い限りです)

 でも、ようやく、沢山の真実が集まってきて、神様の御守護を見せて頂けるようになりました。本当にこれほどありがたいことはないのです。
 
 
十二下り目
 
  一ッ いちにだいくのうかゞひに
     なにかのこともまかせおく
  二ッ ふしぎなふしんをするならバ
     うかゞひたてゝていひつけよ
  三ッ みなせかいからだん/\と
     きたるだいくににほいかけ
  四ッ よきとうりやうかあるならバ
     はやくこもとへよせておけ
  五ツ いづれとうりやうよにんいる
     はやくうかゞいたてゝみよ
  六ッ むりにこいとハいはんでな
     いづれだん/\つきくるで
  七ッ なにかめづらしこのふしん
     しかけたことならきりハない
  八ッ やまのなかへとゆくならバ
     あらきとうりやうつれてゆけ
  九ッ これハこざいくとうりやうや
     たてまへとうりやうこれかんな
  十ド このたびいちれつに
     だいくのにんもそろひきた


 十二下り目で特徴的なのは、「だいくのにんもそろひきた」で終わっているところです。陽気ぐらし世界の完成が描かれているのではなく、陽気ぐらし世界の建設をする人材がやっと揃いましたで終わっているのです。それは、陽気ぐらし世界とは、ここまでくれば完成というものではなくて、限り無し普請(きりなしふしん)とお教え下さるように、永遠に努力を続けていかなければならないことだからかもしれません。
 
「いちにだいくのうかゞひに なにかのこともまかせおく」
 (まず大工の伺いに、どんなことも任せておきます)
 まず冒頭で神様は、陽気ぐらし世界を建設する人間に任せるということ仰せになています。言い換えると、人間は心が澄み切ったならば、神様から「任される」ほどに信頼されるのです。また、そうならばければならないおです。
「ふしぎなふしんをするならバ うかゞひたてゝていひつけよ」
(不思議な普請をするならば、まず神様にお伺いを立てて、それから周囲の人々に指示を出しなさい)
 そうして任された人間は陽気ぐらし世界を建設するために神様にいろいろと相談した上で、大勢の人々にそれを伝えていくようにと仰せになっています。
「みなせかいからだん/\と きたるだいくににほいかけ」
 (みんな世界からだんだんとやってくる陽気ぐらし世界建設を担う大工にいをいをかけておきます)
 神様から信頼されて任される人間は決して一人だけはなく、世界中のあちらこちらから集まってくるのです。
「よきとうりやうかあるならバ はやくこもとへよせておけ」
 集まってきた「大工」の中には、リーダーとなるべき「棟梁」がでてくるでしょうから、その者たちを神様のところへ集めておいてください。
「いづれとうりやうよにんいる はやくうかゞいたてゝみよ」
 やがてその中から4人のリーダーとなるべき「棟梁」が出てくるので、そうなれば神様に相談してください。
 
「むりにこいとハいはんでな いづれだん/\つきくるで」
 でも、それらのリーダーとなるべき「棟梁」は無理やり作るものではありません。時がたてば、自然と現れてくるものなのです。
「なにかめづらしこのふしん しかけたことならきりハない」
 なぜならば、この陽気ぐらし世界建設の不思議な普請は、決して終わることのない限り無し(きりなし)普請だからです。
「やまのなかへとゆくならバ あらきとうりやうつれてゆけ」
(山の中へと行くならば、荒木棟梁を連れていきなさい)
「これハこざいくとうりやうや たてまへとうりやうこれかんな」
(これは小細工棟梁です、それからこちらが建前棟梁で、これがかんな棟梁です)
 もし、神様の御心をしらない「山」の中へと分け入るならば、沢山の人材を切り出す「あらきとうりょう」を連れいていきなさい。
 そして、こつことと人の嫌がるような細かなことをコツコツとするならば、「こざいくとうりょう」を連れいていきないさ。また、実際に家を建てる「たてまえとうりょう」や仕上げをする「かんなとうりょう」も現れてくるでしょう。
「このたびいちれつに だいくのにんもそろひきた」
(この度、全てにわたって、大工の人数もそれってくるようになりました)
 そうして、そうなれば、やっとこの世界、全ての人間に対して、世界建設の不思議な普請をする「大工」の人数が揃ってくるのです。
 十二下り目の最後まで書きながら、「とうりょう」と言う言葉が、なんとなく自分とは遠い、もっと偉い人のことを言っているような気がしていました。
 でも、最後まで書き終えて思いました。
 そうではなくて、一人一人が神様から信頼されるような「とうりょう」にならなけれならないのではないかと言う気になったのです。だから4人のリーダーとなるべき「棟梁」というのは決して人数ではなく、4タイプのリーダーという意味にも思うのです。欲の心をさって澄み切った心になって、しっかりと心を定めて神さんにお喜び頂けるように頑張ったならば、やがては、神様から信頼されるようになって、それぞれの特質に合わせて「棟梁」と呼ばれるようなリーダーへとなるのだから、しっかりと励みなさいとお教えくださっているようにも思うのです。
 

自分なりに、みかぐらうたってこんな意味じゃないかなあと勉強しながら書きました。たぶん、違うところばかりで、お叱りを受けることになると思いますが、間違っているところに気づいたら、少しずつ手直しをしようと思っております。
こんな拙い長々とした文章を最後まで読んで下さり、本当にありがとうございました。
 
 
 
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?