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ドイツとフランスで思ったこと

 今回の旅に関して、様々に感じたことを、ざっくりと書いてみる。
 といっても、僕が行った街は、ドイツはフランクフルト・デュッセルドルフ・デュイスブルク、フランスはパリだけなので、それをもって「ドイツ・フランス」(ましてや「ヨーロッパ」)を語るのはあまりに安直ではあるが、まぁざっくりとしたメモとして、残しておこうと思う。

街がほどよく汚い

 フランクフルトの街に出た時に真っ先に感じたことだけど、基本的に汚い。雑然としている。そこらへんにゴミが落ちているというのもあるけど、なによりもいたるところにグラフィティが描かれ(書かれ)、そしてステッカーが貼られている。東京など日本の都市部でも、エリアによってはそういうことが当たり前にあるが、ドイツやフランスでは、基本的にどこに行っても汚い。そして、それが良かった。表現の自由が保障されている場所で、物事が整然としているわけがないのである。グラフィティやステッカーの中には、もちろん政治的な意思表明に関するものも多く見られた。

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(公共空間は公共の掲示板でもある)

 個人的に一番ウケたのは、「STOP(止まれ)」と書いてある道路標識の真下に「G20」というステッカーを貼り付けているものである。もちろん、G20サミットに対しての抗議の意思を示しているものだが、なんというかトンチが効いている。誰もそれを撤去・清掃しない(してもキリがない)というのも良い。

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(「G20をとめろ」の道路標識)

人間が堂々としている


 向こうの人は、街を歩いていても堂々としているように感じる。僕たち日本人が街の中で生活している時に、常に意識させられるのは「人に迷惑をかけるな」という類の道徳規範である。人の邪魔にならないように自身の身体を縮こませたり、逸脱しないようにすることを作法として刷り込まれているので、誰もが被虐待児のように、人の顔色をうかがって生きている。特に甚だしいのが女性で、唯一自由なのはおっさんである。おっさんはふてぶてしい。スーツを着たおっさんも最悪だ。おっさん特権をゆるさない人民の会が必要だ。
 別の言い方をすれば、日本人が自己の身体(あるいは容貌)を憎悪し、否定し、集団や空気に馴致させようとしているのとは対照的に、彼らは自己の身体を無条件に肯定しているのではないかと、身体所作のレベルで感じたのである。


 向こうでは、道端でハンズフリーで電話している(傍から見ると独り言に見える)人も多いし、電車内でも同様である(帰りの飛行機で隣に座っていた女性が、Wi-FiをつないでひたすらLINEのようなアプリで通話していたときは、さすがにちょっと勘弁してくれと思ったが笑)。電車の中で赤ちゃんが泣いていても、特にどうということもないし、子どもが座席の上に土足で立っていても、横にいる母親が止めることもない(もちろん、ここには「土足」に関する文化的な違いもあるとは思うが) 本屋の中では、客が立ち読みならぬ座り読みをしているし、レストランの店内に飼い犬を連れてきている人がいたりしても、誰も何も言わない。まぁ自由である。

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(パリの本屋。みんな座り読みしている)

 基本的に他人の行動に余計な干渉をしようと思わないのかもしれない(興味があったらわりとすぐに話しかけるが、それは非難する意図ではない) 僕は実際には見かけなかったが、ベビーカーや車椅子で列車に乗る人がいた場合、まわりの人がすぐに手助けするということも当たり前のようである。
 これは厳密ではないとは思うけれど、少なくとも僕たちが思うような形の「迷惑」という概念がないのではないかなと思った。人間には身体があり、その身体が当然の要求をしたとき、そこには「迷惑」が自然発生する。自然なことなので、それをいちいち「迷惑」とは呼ばない。なんというか、そういうイメージである。 


(ちなみに日本からドイツに留学して一年ぐらい経つNちゃんによると、ドイツ人は居住空間の生活音に関してはわりと不寛容らしい。でも、大学寮においてはルームメイトがパートナーを連れ込んで性行為をしていてもスルーしたりするようなこともあるとか言っていたので、細かい判断基準はよくわからない)


 僕が今回の旅行に出かけるに際して、世界中のあちこちをバックパックで回っていた友人のTが、「ヨーロッパの自由の雰囲気よ」みたいなことを言っていて、はじめは「何言ってんだろうこいつ」と思っていたのだけど、フランクフルト中央駅に降りた瞬間に、彼が言っていた意味を直感的に悟ったのも事実である(もちろん、気のせいかもしれないが)


店員と客のコミュニケーションが対等

 これも予想していたことではあったけど、日本のように店員が奴隷になってあくせく働いているということがない。客が店で買い物するときには、まず店員と挨拶する。「ハロー」とか「ボンジュール」とか、そういう感じ。買い物をしてお金を払ったら、「ダンケ」とか「チュース」とか「メルシー」とか、まぁそのようなことを言う。向こうもそのようなことを言う。


 このようなちょっとしたやり取りが意外と心地よいのは、日本でなにか買い物やなにかをした時には、なかなかこのようなやりとりにならないからである(特にチェーン店)。日本人の接客は丁寧だと言われるが(おもてなしw)、しかし、実際には丁寧な言葉を喋るロボットのような印象が強いし、だいいちろくな賃金ももらってないのに丁寧であるというのは不自然ではないか。カジュアルな態度で接客していて、こちらもカジュアルに接する、というほうが自然だ。

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(店内を不法占拠する猫と店員が会話していた)


 僕の事前のイメージでは、向こうの人は店員も含めてとにかく無愛想である、という感じだったのだが、接してみたら全然そんなことはなかった。もちろん、比較的観光地みたいなところが多かったというのもあるだろうが、え、みんな親切じゃないですか、という意外な気持ちを持った。


 ちなみに、Nちゃんとは、一緒にデュッセルドルフの韓国料理屋に入ったのだが、その時に彼女が言っていたことによると、「むしろ日本人料理屋の日本人店員のほうが嫌なやつが多いですよ。韓国人や中国人は仲間意識を持って助け合うのに、海外の日本人は、むしろ『なんでそんなこと知らないの?』とか、冷淡なこと言う人がいてうんざりする」とのことで、その「いかにも日本人」みたいなところに、思わず笑ってしまった。韓国料理屋の店員はにこやかで親切、料理もうまくて大変に繁盛していた。


電車の運賃を必ずしも支払わない


 ドイツの電車の類い(地下鉄や路面電車含む)には、乗車券の販売機はあるのだが、基本的に駅に改札がない。なので、切符を買わなくても電車に乗ることができる。たとえば、フランクフルト空港駅から、フランクフルト中央駅まで、その気になればタダで乗ることができる。ただし、たまに現れる検札に見つかると罰金を取られる、という仕組みである。罰金は高いといえば高いのだが(60ユーロ=7500円ぐらい)、常にタダで乗っている場合、たまに罰金払うほうが結果的に安く済むと思う。おそらくアナーキスト系の人は、基本的に電車代を払わずに乗って、検札が現れたら雲のように消え去る(逃げる)のではないかなと思う。特急に関しては、さすがに検札がちゃんと来ていたイメージ。
 フランス一般に関してはわからないが、パリの地下鉄には改札があった。あったのだが、必ずしもみんなが払っているわけではない。払わないでどうするかというと、改札を物理的に飛び越えるのである。パリ在住のO本くんの話だと、「三割ぐらいの客は払ってないんじゃないの」とのこと。マジかよ。比率高すぎ。

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(パリの地下鉄。改札を飛び越えれば、君もパリっ子だ(適当))


 もっとも、ドイツの例を見ていたので、お金を払わないこと自体はさほど驚かなかったのだが、僕がビックリしたのは、改札近くにいる駅員も、特にそれを止めないということである。その職員の役目はチケットを売ることなのかなと思うが、O本くんの説明によると、「彼らは自分の仕事以外はやらない、という意識が強いので、飛び越えている人をいちいち止めようとは思わないんだよね」とのこと。確かに、改札を飛び越える人を止めたところで、彼らの給料が一円(1セント?)でも上がるわけではない。また、改札を飛び越える人がいたところで、駅員の給料が下がるわけではない。それは経営者にとっての利害の話であって、いち駅員にとっての利害ではないのである。
 ちなみに、これと似たような話でドイツでNちゃんから聞いたのは、マクドナルドの店内で、持ち込んだ酒類で酒盛りをするドイツ人の話。これも、「え、そんなことしていいの」と思ったりするのが日本人だが、店員からしたらそんなものいちいちチェックして止めようと思わないので、普通にスルーされるらしい。興味深い。


もちろん、地上の楽園ではない


 ドイツに留学して一年ほど経つNちゃんは、むしろドイツ人の生活について様々にグチっていたので、そこが地上の楽園であるというような幻想は持つべきではないだろう。むしろ、上記のような労働規範のゆるさなどが影響して、行政や大学その他の手続きは遅々として進まず、学校の授業が崩壊していても、別段対策が取られなかったりするとかなんとか。リベラルな価値観は浸透しているものの、その内実を深く理解しているかというとそうでもないとかなんとか。
 パリのO本くんも、(郵便局員の怠慢によって)郵便物がちゃんと届かないことに、とにかく怒っており、メーデーで郵便局の組合ののぼりを見た際にも「お前らはもっと働け!」と(笑いながら)文句を言っていた。郵便物がちゃんと届かなかったら、たしかにやだな…


まとめ


 このようなことを総合的に考えると、「海外のデモは自由」みたいな話をする時に、自由なのはデモではなく、生活なのではないかと思ったりする。つまり、日常的な自由さや、規範意識のゆるさ(というか遵法意識の低さ)が、結果としてデモの場面においても自由な表現を可能にしている、ということである。逆に言えば、日常的に目に見えない道徳にがんじがらめになっている日本人が、デモのときだけ自由になるということは、まぁだいたい無理なのではないか、とも思った。クソ真面目で、クソ細かい、クソどうでもいいルールを遵守するのが好きな日本人は、デモに来たって結局、警察みたいな動きをしたりするのである。ハメを外すためにもリテラシーがいるということであろう。
 日本社会の窮屈さにはいろいろな理由があるので一概にはいえないし、ヨーロッパ社会で住んでみれば、そちらにはそちらの憂鬱と窮屈さがあるのだろうが、しかし、ちょっと触れた印象では、日本の環境よりマシに見えるし、自由な雰囲気を味わえた、というのが素朴な感想である。大麻(マリファナ)だって、個人用の所持はだいたい合法みたいなもんだし。

 そのような旅を経て、日本に帰ってきた時、自宅の最寄駅に降り立って、まずはじめに思ったことは、「街がきれいすぎる…」という憂鬱であった。日本人は、街がきれいであるとか、電車に遅延がないとかいうことをやたらと誇ったりするが、基本的に全体主義国家というのは統制が行き届いているために清潔であるし、電車だって遅延なく運行できるのである。また、権力側の用意する景観に亀裂がない社会というのは、それ自体が人間の行動を制御し、統制する装置にもなっている(ゼロ年代ぐらいに言われるようになった、環境管理型権力というやつでもある)。そのような、生活のミクロな部分に浸透している権力が甚だしい日本の状況には、本当に息苦しさを覚えるし、「安倍やめろ」といった大文字の政治のことしか言わない人と、この窮屈さを共有できるのだろうか……いや、あまり思いつめるのはやめよう。これからどうやって生きていくのか。それが問題だ。

(※もちろん、安倍はやめたほうがいいというか、もはや地獄に落ちるべきであるのは確かだ)

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