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神のような暴力のありか ベンヤミン『暴力批判論』レビュー

 毎日毎日、本当にうんざりするほど愚弄されているのに疲れてきて、なんでこんな思いをしなければならないのかと頭を抱えてしまう。なんの話かと言えば、もちろん大文字の政治の話である。僕ら人間の知性とか、尊厳とか、思惟とか、そのようなものが日々愚弄されて、蹂躙されていることについて。

 ブルジョワ民主主義(すなわち選挙を軸とした代議制民主主義)がフィクションであるとして、そのフィクションを守る設定(正統性)すらもぶっ壊れている中で、頭をよぎるのは「抵抗権」(a.k.a. 革命権)のことである。この欺瞞に満ちたシステムを、更地にすることはできないのか。

 先日、なんとなくヴァルター・ベンヤミンの『暴力批判論』を読んでいた。ベンヤミンは、同じく暴力について考えたジョルジュ・ソレルの議論を援用しつつ、暴力の性質を腑分けする。(言うまでもないが)ここでの「批判」とは、「じっくり掘り下げて考える」といった意味である。

 ベンヤミンによれば、特定の法を定め、またそれを維持する(国家による)統治の暴力は「神話的暴力」と呼ばれる。ある体制Aから体制Bに変わろうとも、それは統治を支える物語が神話Aから神話Bに取って代わるだけの話であって、暴力は消滅しない。ここで重要なのは、国家というもの自体がそもそも暴力機構であるという話である。僕らは「よりマシな政治」を求めるが、しかし「よりマシな暴力」というものが存在しうるのだろうか?

 それに対して、そうした神話的暴力すらも根絶する(すなわち、統治システムである国家すらも消滅させる)暴力のことを、「神的暴力」と呼ぶ。ベンヤミンは、この神的暴力について、必ずしも具体的な像を提示していないが、ソレルの唱える「プロレタリア・ゼネスト」のイメージと、おそらくオーバーラップしているのだろう(文末の添付画像参照)。


 ベンヤミンの言葉を引用してみよう。

「神話的暴力が法を措定すれば、神的暴力は法を破壊する。前者が境界を設定すれば、後者は限界を認めない。前者が罪をつくり、あがなわせるなら、後者は罪を取り去る。前者が脅迫的なら、後者は衝撃的で、前者が血の匂いがすれば、後者は血の匂いがなく、しかも致命的である」(p59)


 まぁ、ぶっちゃけ何言ってるのかいまいちわからない。しかしなにか迫力があり、中二病的マインドをくすぐるものがあるのは確かである。
 ちなみにこれは、ともすると暴力を肯定するようなマッチョな議論に聞こえるかもしれないが、ここで「神的暴力」と呼ばれているものは、おそらく物理的暴力ではないと思われる。あらゆる国家暴力を消滅させるということの絶対性を便宜的に「暴力」と呼んでいるのであって、その核心には暴力の否定があるのではないか、ということだ。

 神的暴力、どこかに売ってないだろうか…


 「あれかこれか」の政党選びに一喜一憂したり、法的な手続きの諸々に関与していると、なにか「現実的なもの」に携わっているような実感はあるかもしれない。しかし、それらを「フィクションである」と言い切る知性や尊厳というものもあるし、それがないと想像力が枯渇して追い詰められていく気もする。

 僕らは、このクソみたいな社会の雑事と政治に翻弄されながらも、思考の天窓を開いて、別の場所に抜け出していくことができるはずだし、そのような思惟が必要なときもあるのではないか。ベンヤミンの本を横目に、そんなことを考えたりしている。


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(この文章は3年前に書いたものだが、今でも全く気持ちは変わらないので、そのまま載せることにした)



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