それこそが、最善手
これは、僕が誰かに言われたら、少し救われる気がする、ということを、僕が、そのときの僕に向けて書く、僕のための文章です。
猫が、健康上のっぴきならない状態になると、当たり前だけれど、常に落ち着かなくて、心配ごとというかわだかまりがある状態になる。
僕で言うと、その猫のことでいっぱいいっぱいになるので、他のことには気が回らなくなる。その結果、甘いものを制限なく食べたり、普段できていたことがうまくできなくなったりする。
そんな中で、猫のためにどうしてあげるのが一番よいのか、こうするべきだろうか……と、最大限猫のことを考えて、寄り添おうとして、寄り添っている。それはそうだ。大好きな猫がしんどそうなときに、心が揺れない人なんていないし、すべてがその猫にとってよかろう、と思ってやることに決まっている。
それでも、見送ることになるときだって、もちろんある。これまでも何度も見送ってきた。命は、こちらの気持ちなど汲んでくれない。
そのとき、必ず、本当に必ず、自責の念が湧く。抑えても、抑えても湧く。
「もっと早く気づいていれば」
「あのとき病院に連れて行っておけば」
「あの処置をこうしていれば」
「もっと何か」
「せめてもっと楽に」……。
……違う。
その猫のことを、一番好きで、一番思って、一番考えていたのは誰だ。絶対に僕と妻だ。
その僕たちが、その状態で、最大限、考えに考えてやったことこそが、最善手なのだ。それ以外のたらればも、選択肢もないのだ。
自責を反芻したあとで、行き着くのはいつも「それこそが、最善手だった」と半ば強引に自分に言い聞かせることと、「全部抱えて生きていく」ということだけだ。
たぶん、これからもそうなのだろう。
生き物と暮らすとは、そういうことだし、僕というのは、そういうヤツだ。
そんなそんな。