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人生草露の如し vol.1 / 【小説】


あぁ、いやだ。暑い。きっとあたしだけだ。この車両の中で汗をかいているのは。

美也子はうんざりしながらバッグの中に常備しているフェイラーのタオルハンカチを取り出して、額に浮かんだ汗をそっと抑えた。そしてそのハンカチをまじまじと見てフゥッと落胆のため息をついた。

昔はもっと女性らしい、大判のシルクのハンカチを使っていた。それは例えば仕事帰り、男に急に誘われてレストランで食事をする時やバーでお酒を飲む時、エレガントに膝の上に掛けるのに役立ったし、朝出かける前に好きな香りをひと吹きしておいて、バッグから取り出す度に良い香りが漂ってちょっとした優越感に浸る小道具にもなった。上等な女の象徴でもある高級なシルクのハンカチーフは、ただ持っているだけで女っぷりが一段上がるような気がしたものだ。

それが今や吸水性にこだわっただけのタオルハンカチだ。フェイラーは特にタオルの細かい繊維が肌に付かないのが気に入っている。色や柄は二の次で、いくら汗を拭いてもしっかり水分を吸収してくれるところが頼もしい。そう、今の現状のように、気温とは関係なく、突然火がついたように背中が熱くなって額から汗が噴き出してくる体質になってからというもの、このハンカチが手放せないのだ。

あぁ、暑い。やっぱり一枚余分だったな……。

冬の始まりのこの時期は特に着るものが難しい。朝の通勤時は冷え込みが厳しくて、キャミソールの上にもう一枚、インナーを重ねたくなる。駅までの道のりは歩いて18分。なるべくストライドを大きくとって、代謝が上がるように念じながら少し早足で歩くように心がけている。

若い頃は気にしなかった少しの体重増加。2、3キロならすぐに戻せた。それが今や1キロが戻らない。たった1キロ戻すのに、夜の食事は白米を断ち、朝のヨーグルトに蜂蜜を入れず、昼のランチはパスタやラーメンなどの外食をやめてコンビニのおにぎり1個にしなければならなかった。それでもすんなりとはいかないので、美也子はこうして毎朝駅までの18分間を使って必死に基礎代謝を上げようと努力を怠らない。

健気だ。あたしはなんて努力家なんだ。向上心の塊。プラス思考の女。自己満は生きる気力を無理やり上げてくれる。Spotifyの中からノリノリのBTSの楽曲を選んで聴きながら、頬に冷たく感じ始めた北風を切って颯爽と歩く。

時間より少しだけ早く駅にたどり着いた日は特に気分がいい。今日もいいスタートが切れた。そう思ったのも束の間、タイミングよくやってきた電車に乗った途端、あの忌まわしい現象が突如として美也子を襲ってきた。

暑い。あたしだけ汗をかいている。そう思えば思うほど、顔が火照ってくる。恥ずかしいのと焦りとで、今すぐ脱ぎ捨てたい薄いダウンコートを忌々しく感じて、ガラス窓に映った自分の姿を三白眼で睨みつけた。

更年期症候群。

この事象に関しては周りの同年代や少し先輩の知り合いから予備知識を嫌というほど伝授されてきた。人によって言うことが面白いように異なる。ある人は何年間も鬱状態になって、ほとんど家で寝て過ごしたと言っていた。以前は普通にこなしていた家事ができない。家族にも理解されない。どこが悪いのかを調べるため、あらゆる精密検査を受けたが、結果どこも悪くない。病院は内科、婦人科にとどまらず心療内科にも通って、自分に合った漢方薬や眠剤を処方してもらって飲み続けているらしい。

「 もうね、地獄だったわよ。洗濯物を取り込んでね、山のように積み上がったそれを畳もうとするでしょ?でもね、できないの。できない自分が情けなくてね、涙が出てくるの。日が暮れていることにも気づかないでね、真っ暗な部屋の中で洗濯物の山を前にして泣いていると仕事から帰ってきた旦那が怪訝な顔をして言うの。『 何やってんの?調子悪いならさっさと病院行ってくれば?』って。情けなくてね、でも手伝ってって言えないの。泣きながら旦那のくたびれたトランクスを畳んでいると、死にたくなってくるの 」

ある人はホットフラッシュに悩まされ、年がら年中顔を真っ赤にして大汗をかいている。タオルハンカチなどでは間に合わず、まるで畑仕事でもするかのように首からホンモノのタオルを手拭いのようにぶら下げてしょっちゅう顔の汗を拭っている。化粧をしてもすぐに取れるからといって、今やスッピンにも慣れてしまったらしい。こうなったらもう、自分が女性であるとかの意識はどうでもよくなってスッ飛ぶらしく、お洒落するという概念も消失。着るものは一年中Tシャツにジーンズ、とにかく家でガラガラ洗えるものオンリー。「 オシャレなんてしていく所もないし、洋服や化粧品代が浮いてラッキーよ 」と宣うのだった。そんな彼女の顔にはうっすらと髭が生えているように見える。


絶望的だ。五十の声を聞いた頃から毎月来るものがきちんと来なくなったのは、少し寂しさを覚えることもあったが精神的にも身体的にも負担が少なくなり、最初は天国だと思った。しかしそれから暫くたち、ある朝鏡を見て美也子は小さな悲鳴を上げた。


「 な、何このシミは!」

それは数日前までは全く存在していなかった、左目の周りに突然現れた黒ずみだった。最初は昨日のメイクが落とし切れていなかったと思ったけれど、何度も顔を洗い、拭き取り用のローションでいくら丁寧に拭いても浮き出た黒ずみは取れなかった。それからはまるで、これまで重ねた人生の罰ゲームが如く、日に日に現れる怪奇現象のように、目尻や首や法令線のしわ、手の甲に浮き出てくる老人性斑点状のシミに絶望感が募っていった。

あぁ、終わったのね、あたし。これが更年期というものなのね……。

自覚し始めると、あれもこれも全てが更年期のせいだと思い知らされる毎日。カラカラに乾く口中。舌の痺れを感じた時は別の病気を疑って、ネットであれこれ調べてみた。耳鼻咽喉科を受診してみたが「別に心配な感じはないですね。最近歯の治療をしませんでしたか?詰め物が合わない場合や治療箇所が気になって舌で触っているうちにそういう違和感になる方は多いですよ。あとは専門外なのでなんとも申し上げられません 」というテンプレ的対応をされた。行かなきゃよかった後悔は自分への嫌悪感にすり替わり、あぁ、こんな風にして更年期うつに落ちていくんだな、などと独言るのだった。目の乾燥も以前にも増して酷い。もっと本を読みたいのに、乾燥とかすみ目で長い時間読書ができない。

身体中が乾いて干からびていくのがわかる。女じゃなくなるってこういうことなのね。美也子は元々持っていた肩こりが以前とは比べ物にならないほどに酷くなることへの理由も、この更年期にあると腑に落ちて、整体やマッサージへ通うことも無駄に思えて潔く諦めるのだった。


自分の体が女じゃなくなって一番驚いたのは、希薄になった恋愛願望だ。以前は常に誰かしら男の存在があった。特別な間柄ではなくとも、定期的に食事や飲みに行っては色っぽいシチュエーションを楽しんでいた。手を繋いだり、キスをしたり、時には羽目を外して刺激的な夜を楽しんだりと、独身女の特権を生かすべく、女である自分を存分に味わい、堪能していた。なのに今や家飲みサイコーという体たらくだ。男と二人きりになるというシチュエーション自体がとんと無くなった。その時間をどういう訳か欲しなくなってしまったのだ。何故だか自分でもよくわからない。これも卵巣機能の衰えによる女性ホルモンの低下によってもたらされた感情の変化なのか。

つまらない。そして暑い。このまま死ぬまで恋愛せずに、身体に感じる無駄な熱とは反比例するように魂の火が少しずつ小さくなって、やがて燃え尽きて終わるのをただ指を咥えてじっと待つことしかできないのか。

美也子は自分の置かれた状態に落胆しつつ、欲望の灯火が消えゆく様を、一人寂しく感じながらも、なす術もなくただ受け入れるしかないのだなと腹を括るのだった。


美也子の職場は40年以上続く老舗のアパレルメーカーだ。主にパンツを主軸としたボトムス専門のメーカーで、売上、経営共に安定した百貨店や専門店が主な取引先だ。美也子はそこでデザイナー兼パタンナーをしている。デザイナーというと聞こえはいいが、どちらかと言うと企画だ。売れそうなものをリサーチし、デザイン画に起こしたり、海外のファッション雑誌の切り抜きや街に出てスマホで撮影した流行りの着こなしを企画会議で提案し、ここ数シーズン実績があったものと織り交ぜて来期に作るものを決定していく。全ては予算ありきの仕事で、新しいデザインの提案やクリエイティブな発想というものとはかけ離れた、「売れる物作り」のいわゆる職人だと自負している。それはそれで割り切れば仕事は楽しく、取引先のショップなどの現場から自分の企画した品番のリピート希望の声を聞くと、俄然やる気も仕事のモチベーションも上がり、今流行りの「自己肯定感」というやつも満たされて、それなりに充実した毎日を送っている。

今日はその企画会議の日だ。来シーズンの生産予定を社長はじめ重役たちを前にプレゼンし決定する。美也子は事前に用意した「企画BOOK」を持参し、会議室へと急いだ。


朝から電車の中で嫌な大汗をかいてメイクの崩れが気になるが仕方ない。この更年期汗、不思議と体にはかかないのが恨めしい。身体中の汗腺が消滅し、首から上に移動したのかと思うほどだ。願わくば逆ならいいのに。どこか身体の一箇所に集約しなければならないのだとして、なぜ顔なのかと思う。脇の下なら汗わきパッドに吸収させればいいし、背中なら下着を取り替えれば済む。顔はどうしたって他人の目に触れる。一人真っ赤な顔で額からだらだらと汗を流している光景ほどみっともないことはないと美也子は心の中でまた愚痴を吐いた。

会議室に入ると既に何人かが席に着いていた。おそらく一番乗りを果たしたのはこの春新卒で入社した陽子ちゃんだ。若いのに気がきく彼女は、必ず一番にやってきて社内を整える。窓を開けて空気を入れ替え、電気ポットやコーヒーメーカーをセットしてみんなのデスクを水拭きして回る。そんなことは昭和の悪しき習慣で、この令和の世代においてはヘタをするとハラスメントと言われても仕方のない事案だからやらなくてもいいよと言っても、陽子ちゃんは自ら毎朝一番に出勤してくる。

「 私がやりたいからやるんです。社内の気を上げたいし、そうすることで自分が一番気持ちよくいられるので。やらせてください 」と言って聞かない。会議が始まる時間に合わせて人数分の入れ立てコーヒーができ上がるようにセットすることも彼女の「気を上げる」一つのルーティンのようだ。それぞれ専用のマグカップにカスタマイズされたコーヒーを作って、いそいそと会議室の定位置に置いていく。美也子がいつも座る場所に、専用のマグカップに入れたミルク多めのカフェラテを置いた陽子ちゃんが顔を上げて気がついた。

「 美也子さん、おはようございます!」

「 陽子ちゃんおはよう。コーヒーありがとうね、いつもすみません 」

美也子の顔を見た陽子ちゃんは一瞬怪訝な顔をして言った。

「 美也子さん、どうしたんですか?顔が真っ赤ですよ。熱でもあるんじゃないですか?」

「 えっ?いや、違うから。大丈夫大丈夫 」

ここまで急ぎ足で歩いてきて急に立ち止まったからだよ。更年期ってものはそういうもんだ。自律神経がイカれてるから暑いとか寒いとか、カンケーないのよ。これは20代前半の陽子ちゃんにいくら説明しても理解しろという方が無理な話だ。あたしは心配する陽子ちゃんを軽くいなし、無理やりめの笑顔を作って具合が悪んじゃないことをアピールした。

あぁ、疲れる。人に気を遣ってもらうことがこんなにしんどいことだと気づいたのも、ある意味更年期の副反応というやつか。

ぞろぞろと会議室に入ってくる他の社員たちが、心配そうな陽子ちゃんに反応して、あたしを一瞥してからそれぞれの席に着いていった。


続く


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