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主とともに退く(2)戦略的撤退

前回、「リトリート(retreat)」とは本来、「後退」「撤退」「退却」を意味する語で、戦場で劣勢になったときに進撃を止め、形勢を整えるためにいったん戦略的に撤退することを指す軍事用語でもある、とお話ししました。

撤退と言うと、白旗を振って逃げるような負のイメージがありますが、戦略的撤退はそういうものではありません。より良いものをもたらすためにあえて一時的に退く、目的をもった自主的な選択です。スポーツで言えば「タイムアウト」です。試合の状況が苦しくなってくると、コーチが審判競技の一時停止を要請し、選手たちはコートやフィールドから退き、作戦協議や水分補給、怪我の治療などを行います。押され気味だった試合がタイムアウト後に流れが変わり、新たな勢いが生まれるのは珍しい情景ではありませんよね。

聖書も、信仰生活を戦いやスポーツ競技などになぞらえています。兵士やスポーツ選手が戦いの形勢を立て直すために前線やフィールドからいったん退くように、私たちも時には、自分にとっての前線やフィールドから一時的に退いてみる必要があるかもしれません。兵士や選手は、退いて指揮官や監督の声を聞き、ねぎらいや励ましの言葉をいただくでしょう。必要な指示を仰ぐでしょう。喉を潤し、体をリフレッシュさせるための冷たい水を受け取るでしょう。私たちも同じです。自らの働きや日常生活の前線から戦略的に退き、神のもとで休息するのです。主の御声に耳を澄ませつつ、主が差し出してくださる水を飲みます。自分の心身のニーズ、霊的なニーズに目を向けます。これまでの歩みを振り返ったり、これからのことを考えたりする時間を取ります。

限界や制限を持つ存在として造られた私たちは、その制限の範囲内で何を取捨選択するのか、神のみこころを識別しなければなりません。それを見分けるには、主の前で十分に静まり、主の御声に耳を澄ませることが必要です。走りながら大騒音の中で、神の「かすかな細い声」(第一列王19・12)を聞き分けることは、よほど熟練した人でない限り、難しいのではないでしょうか。それなのに、無理を承知で(あるいは聞き取れるはずだと過信して?)そうしていることが、どれだけあるでしょうか。

軍隊が戦略的に撤退するのは、そのまま進み続けるのが危険だからです。今、あなたの生活で、このまま進み続けては危険だと感じる領域はありますか? あなたは今、どの戦いから撤退し、どの前線から距離を取る必要があるでしょうか? そもそも、あなたが戦っているのは、本当にあなたが戦うべき戦いですか? 神があなたを召しておられる戦いですか? これらは大切な問いです。

活動の一線からしばらく退き、静まってみると、それまで注意を払うことなく隅に押しやっていた感情や傷を、自分の中に見出すかもしれません。その痛みに気づかないほど心身の疲労が溜まっていたと気づくかもしれません。そういったものを放置しているなら、そのツケは思いがけない時に思いがけないところへ回ってくるものです。

あるいは、自分ではまっすぐ進んでいたつもりでも、いつの間にか進行方向がずれていたと気づくかもしれません。目の前に次々と現れる課題に対処するばかりで、自分が本当にすべきこと、したいことが忘れ去られていたかもしれません。地境が広げられたと思って、あれもこれもと手を出しているうちに、最初に神から召されたこととは違うものに自分の時間と労力を費やしていたかもしれません。よく言われるように、最善(ベスト)に対するいちばんの敵は、次善(ベター)や善(グッド)です。たとえ良い働きであっても、自分がすべきだとは限らないこともあるのです。 

危険に瀕していると、自分では意識していなくても、生活の中にさまざまなサインが出ているものです。普段ならしないようなミスが続いたり、他者のちょっとした言葉に過剰に反応したり。家族や働きのパートナーなど身近な人に対して苛立ちやすくなったり、自らの働きに対する喜びが失われていたり。忙しいにもかかわらずSNSやゲームなどにのめり込んだり、甘いものをむさぼったり。

また、私たちの体は往々にして理性以上に正直です。頭痛、腰痛、動悸、口内炎、肌の状態など、体が発しているサインにも注意を払ってください。私たちの生活は、総じて忙しいのです。意識して退く時間を取らなければ、いくらでも勢いで進み続けられます。何かが起こって外側から「強制終了」がかかるまで、止まれなくなります。そうなる前に、「戦略的に」撤退する必要があるのです。忙しいこと自体は悪ではありませんが、忙しさに支配されたり依存したりするなら、それは私たちを神や隣人から遠ざけるものとなります。

現状がこのまま続くようすを想像してみてください。どう感じますか? 充実感や喜びや活力がみなぎりますか? それとも気が重くなったり、心身が緊張したりしますか? もし後者であれば、よく耳を澄ませてください。「わたしたちだけで、静かなところへ行こう」というイエスの招きが聞こえてきませんか? 実際のところ、あなたが何らかの疲労を覚え、主のもとで休息したいという願いを感じているのであれば、それこそがリトリートへの神からの招きの合図なのです。

とは言え、いくら撤退したくても、外出自粛中[コロナ禍]ではどこにも行けませんし、家族のいる家の中で一人きりになるのは容易ではないでしょう。そこで今回は、とりあえず家にいながらにしてできることをご紹介します。それは、夕食後早めに就寝し、体が必要としているだけたっぷり睡眠を取ることです。戦略的撤退[ルビ:リトリート]は偶然に起こるものではありません。「一緒に退こう」という主の招きに応じ、意図的に行うものです。毎晩である必要はありません。日を決めて、夕食後も仕事をしたり、テレビやインターネットに向かったりしたくなる誘惑に抗し、主とともに退くために家人よりも一足先に寝室に入る。単純ですが、それも戦略的撤退です。

平安のうちに私は身を横たえ
すぐ眠りにつきます。
主よ ただあなただけが
安らかに 私を住まわせてくださいます。

(詩篇4篇8節)

この箇所を口ずさみつつ、そのまま眠りに落ちてしまいましょう。眠っている間は一人になれますし、必要ならば、主は夢の中で語ってくださいます。できることから始めましょう。祝福がありますように。

『舟の右側』2020年7月号掲載

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