クリスチャンにとっての境界線
(ブログの過去記事より)
キリスト者にとっての「境界線」とは、主にある「私」が誰であるのかを知ること。主が「私」をどのような人間としてお造りになったのかを知り、そのような「私」を生きるようになること。 (7/13/2013)
それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。(マタイ16:24、25)
このみことばは、上に私が書いたこととは、逆のことを言っているようでもあるけど、でも実はそうでもないと思う。主にある「私」が誰であるのかを知るためには、いったん「自分を捨て」「自分のいのちを失う」必要があるのだと思う。そうして、自己に死んだあとで、キリストともにキリストの復活のいのちに与るときにこそ、イエスが差し出しておられる「まことのいのち」「豊かないのち」を得られるのではないかな…
最近、境界線について話すときに私はよく言うのだけれど、境界線の引き方のような心理学的なことは、講習会やセミナーに行ったり、本を読んだりして、「スキル」としてある程度習得することも可能。しかし私たちの究極的ゴールは、スキルの習得そのものではなく、キリストの復活のいのちに与り、御霊によって、キリストに似た者に内側から形造られていくこと、なのですよね。「境界線」が教えてくれるようなことは、あくまでもそのプロセスの中の一部であり、とても有益なものだけれど、それ自体がゴールではなくて。「境界線」が多くの方々の助けになり、用いられていることはとっても嬉しいし感謝だけれど、境界線が自己実現や操作のためのツールになってしまったら、それは本末転倒だと思うから…
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境界線とは究極的に「自分はだれか、どういう存在か」ということに関わるもの。 健全な境界線の発達、回復とは、単なるライフスキルの習得ではなく…
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