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想い出の旅7 二十歳の正月

 一九六四年の正月のことを想い出す。この年、正月におみくじで凶を引いた。それ以外に凶を引いたことはありません。

 一九六四年正月、大学の友人で神奈川に住む何人かとともに、鎌倉の鶴ヶ丘八幡に初詣に出かけた。なんとなく正月の海を見たくなったのかもしれません。

 鎌倉の駅を降りると、薄日が差す小町通の賑やかさ、晴れ着を着た若い女性たちが華やかで美しかったのが印象的でした。

 二の鳥居から段葛の参道をまっすぐ行くと、境内に入り、左手に大好きな近代美術館が水際に建ち、すっきりした壁面を見せています。右手には弁財天社の建つ池を望み、しばらく行くと手水鉢で手と口を清めます。急な大石壇の脇には、例の大イチョウが堂々たる姿を見せ、わずかに黄色い葉を残し、大木らしい風格を持つのが好ましい。

 「実朝、覚悟せよ」、「何を。公暁ではないか」、「御免」、「おお! 何をするか」

 急な大石壇を上るとすぐに拝殿、二礼、二拍、一礼、無心で拝します。年初の楽しい占い、おみくじを引きます。なんと、凶が出てしまった。こんなことははじめてです。

 正月なのに凶とは。これから衰運に向かうということだろうか。全文を読む気がしなくなったが、一応目を通すことにしたが、すぐに忘れようと思いました。

 そのまま、まっすぐ参道を海まで歩いて海に出ました。みんなで浜をゆっくり散歩です。静かな冬の波が砕けてはまた返し、曇り空でしたが、静かで、穏やかで、前途洋々としている感じが悪くない気がする。みんなすこしはしゃぎ気味でした。

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 家に帰ってふと、久しぶりで新潮社版、『小林秀雄全集』、全八巻(発行は昭和三十二年五月二十五日、二刷、昭和三十八年十月十五日)の第一巻『様々な意匠』を紐解きます。一九二六年八月発表の「ランボオ」を読みはじめた。もう何度読んだろう。

 「この孛星が、不思議な人間厭嫌の光を放つてフランス文學の大空を掠めたのは、一八七〇年より七三年まで、十六歳で、既に天才の表現を獲得してから、十九歳で、自らその美神を絞殺するに至るまで、僅かに三年の期間である。

 この間に、彼の怪物的早熟性が残した處(二五〇〇行の詩とほぼ同量の散文詩に過ぎない)が、今日十九世紀フランスの詞華集に、無類の寶玉を與へてゐる事を思ふ時、ランボオの出現と消失とは恐らくあらゆる國々、あらゆる世紀を通じて文學史上の奇蹟的現象である。

 その過半が全く孤獨な放浪に送られたランボオの生涯は、彼のみの秘密である幾多の暗面を残してゐる。

 又、彼がその腦漿を斫斷しつつ、建築した眩暈定著の秘教は、少くとも私には晦澁なものである。

 この小論は勿論研究と稱せらるべきものではない。ランボオ集一巻を愛した者の一報告書に過ぎないのである。」

 読みやすいように、文章ごとに行を分けてかかげました。

 これに続けて、小林はランボオ論を展開し、「人々はランボオ集を讀む。そして飽満した腹を抱えて永遠に繰り返すであろう。然し大詩人ではない」と、結びます。

 つづいて「地獄の季節」、「飾画」、「韻文詩」の訳が掲載されています。私は十七歳の時に小林秀雄に出逢い、翌年秋、この全八巻の全集を少しづつ神田の古本屋で求め、これらランボオを夢中で読み、いつの間にか気に入った作品をいくつも暗唱していた。

 それらが、いずれも、一七歳から一九歳までの作品だと思うと衝撃的です。

 二十歳になった自分としては、ランボーにオマージュを捧げるものの、出来るならもうすっかり忘れようと思いました。

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 それからしばらく経ったある日、小学校時代の親しい友人・野沢正光が訪ねてきた。

 「久しぶり、成人式行かないか」、「今から?」、「そう、一時から始まる」、「それにしても久しぶり」、「ああ、今はどうしてるの」、「もうすぐ東大教養学部2年、建築学科に進学するつもり」、「それは驚いた。ぼくも建築だ。藝大に入ったよ」、「すごいじゃない、藝大なんて、でも奇遇だな。成人式のこと考えてもいなかったけど、せっかくだから行こう」、「うん、行こう。」。

 道々話した。二人は小学校一、二年生の時いっしょのクラスで、神原秀記と三人で本当によく遊んだな。

 野沢は、立高から、藝大を受けて一浪で入ったのでした。 

 神原は同じ東大理一に入って、すぐ出逢い、同窓の浜中英徳とも一緒になった。尾瀬の旅について前に触れた。

 姉が藝大ピアノ科に通っていて、よく音楽学部の奏楽堂に学内演奏会とかの機会に出かけて行ってるよ。

 成人式が型どおり行われ、小学校の仲間たちに大勢出会いました。その中から数人が我が家にそのまま流れ、二階の座敷でおしゃべりしていて、誰かが一、二年担任の先生の所に行こう、と言い出したのです。

 本木先生、理科の先生だった。先生のお宅は、野川の下流、小金井の貫井南だ。皆でそのまま、先生宅に向かった。先生はご在宅であった。

 「今、成人式に行ってきました。それで会ったみんなと先生に会いたくなってきました」、「そうか、みんな二十歳なったか」

 意外にも先生は皆の名前を憶えていた。「長尾君は今でも芸能関係ですか」、と聞かれてすこし驚いた。

 「長尾はあの頃ヴァイオリンを習っていたからですよね」、と誰かが言います。「ああ、そうか 今は東大教養学部です。」、「そうでしたか」、「野沢正光が今年藝大の建築に入ったところです。成人式と藝大入学を記念して、今日、みんなで来ました。」
 
 野沢正光が建築専攻というのはとにかく嬉しかった。終電を気にせず、歩いて行き来できる同じ町に住んでいる、そう思うと楽しくなったのです。

 藝大の様子も色々知りたいし、建築の大学生活が楽しみだ。一九六四年、今年は東京オリンピックの年だし、秋になれば、オリンピック大会の会場、代々木の体育館を二つ設計している丹下健三の授業も始まる。

 建築学科に行けるかどうかは、今年前期までの成績で振り分けられるから、希望通りに行くか、本当のところ、まだ分かっていないのでした。

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 その後、アルチュール・ランボー(一八五四―一八九一)は、小林秀雄が書くように、ランボオの詩作が一七歳から一九歳までのわずか三年ほどの間というのは実は正確ではないことを知ります。

 ランボオの詩作活動はもう少し長く、一五歳の一月に地元の高校に赴任してきた修辞学の教師ジョルジュ・イザンバールとの出逢いに始まります。

 その後、ランボーは家出して、パリの詩壇に華々しく登場し、高速に燃焼して、突然、筆を折って、南を目指し、貿易商になるのは有名な話です。

 その後は、イタリアやエジプト、ヨーロッパを放浪して過ごし、三十七歳で病没しました。

 ランボーが十九歳の時ヴェルレーヌと放浪生活をしているブリュッセルで、ヴェルレーヌが酔っ払った折に拳銃を二発発砲し、その一発が左手首に当たります。ヴェルレーヌは逮捕され、ランボオは弾丸摘出のため入院しました。

 その後もロンドン、シュトゥットガルトで過ごし、「イリュミナシオン」(小林訳では「飾画」)を完成するのは二十一歳の春でした。とすれば、ランボーの詩作期間は一五歳から二十一歳の春まで、およそ七年間ということになる。

 とは言え、彼の活動は、小林が書くように「恐らくあらゆる國々、あらゆる世紀を通じて文學史上の奇蹟的現象である」ことに変わりない。

 その後、読んだものとして、イヴ・ボヌフォワ、阿部良雄訳『ランボー 永遠の作家叢書』(人文書院、一九六七年)がとても興味深く感動的でした。離婚した両親、厳格で強い母親に育てられ、愛無き少年時代を過ごし、ランボーは一人で愛を作りださなければならなかった、と論じます。

 粟津則雄訳『ランボオ全作品集』(思潮社、一九六五年)ほかもよく読んだが、小林秀雄訳にすっかり親しんでしまったために、リズムが合わないのが不思議でした。そして、小林秀雄の方がはるかに優れた詩人だと感じていました。

 そして、なお、いまだにランボオのことを忘れることはできないでいます。

 PS:その後、ずーっと親しくしていた野沢正光が他界したのは、2023年4月27日、享年78歳でした。合掌。
 
 

  


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