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想い出の旅2 真夏、沼津市戸田湾  

 伊豆半島西海岸に、小さな宝石のような湾、美しい海と出逢ったのは、南九州・宮崎の海での体験のしばらく後であった。沼津市戸田の湾である。夏休み、大学の戸田寮に海水浴に出かけて行った。私と弟、従兄弟の四人のグループだった。

 小さな湾に面した戸田の港町はまるで自然の堤防のように伸びた小さな岬で半ば閉ざされている。湾の入り口は差し渡し四〇〇メートル未満だ。

 大学の寮は、その美浜岬の砂浜に面する松林に建っていた。海は青く澄んで実に美しかった。浜沿いにさらに行くと、諸口神社の赤い鳥居が砂の岸辺に建ち、奥に社殿が鎮座し、岬の先端には県の天然記念物のイヌマキの群生地になっている。

 一泊した朝、私たち泊り客は、「浜掃除をしてください」と言われ、皆で浜掃除をした。浜には、海藻や、湾内のゴミが流れついていていたのである。ビニール袋やプラスティック類もわずかに含まれていた。

 駿河湾から流れ込む独特な湾流が、色々なゴミを浜に打ち上げる仕掛けになっていたのである。宿泊客は総出でこれに当たった。美術史研究室の大学院生二人、八重樫春樹、河野元昭氏と急に親しくなったりしたのもこの「浜掃除」のお陰だった。また宿泊客だけではなく、村の人々もこれに加わっていた。

 けれども真昼の湾内はこれと言ってゴミなど気にする必要はなかった。日が暮れて翌朝までの時間帯にゴミは浜に流れ着くのである。だから、湾内の海水浴は極めて快適で町からも遠く離れた浜で、「美浜」という名がついているのだ。水もきれいで済んでいた。

 もう一つ、注意すべきことは、岬を廻って駿河湾内に出ることは禁じられていた。海流が早いからだろう。また、石がゴロゴロした岬の駿河湾沿岸は危険で遊泳禁止だった。そこから、富士山が駿河湾の彼方に海抜のままの姿を現していたのに、それを望みながら泳ぐことはできなかった。

 この岬は、なんと砂嘴(さし)という興味深い地形だったのだ。
 それというのも、浜のうちそとの海流が同じ方向に向き(戸田湾内の海流と、駿河湾の海流が)、砂礫と砂を運んで、どんどん長くなって伸びた結果だというのである。だから見事に閉じた湾ができたのだ。

 すぐ北にいくと、やはり沼津市に大瀬崎という名の岬が突き出てその先端が膨らみ、なんと神池と名付けられた海面より高い淡水湖がある。その成り立ちは、砂嘴が先端にあった島と一体になったものだったのである。このような景観は砂嘴から進んで、陸繫島(りくけいとう)と呼ばれる。しかもこの島は小さな火山島で、神池は火口湖なのだろう。

 砂嘴は対岸の清水港がまさしくその大規模なものである。この清水の砂嘴の駿河湾側に「三保の松原」という富士山が見えて白い砂浜と青い松林が続く見事な景色がある。

この三保の村は「羽衣伝説」でも有名である。村の伯梁という漁師が浜に出かけ、一本の松の木の枝に見たこともない美しい衣がかっているのを発見する。持ち帰ろうとしたとき、どこからか天女があらわれて、「それは天人の羽衣、どうぞお返しください」と。それを見て柏梁はますます喜び、返す気配を見せない。すると、天女は「それがないと私は天に帰ることができません」といって泣き始める。柏梁は哀れに思い、「天上の舞を見せてくださるならお返ししましょう」というと、天女は羽衣をまとって、三保の浦の春景色の中、霓裳羽衣(げいしょううい)の曲を奏し、月世界の舞いを披露し、天女は空高く舞い、やがて天にのぼっていったという。

 この羽衣伝説は日本全国、さらにアジア、ヨーロッパにも類話があるらしい。世阿弥の謡曲「羽衣」が有名である。

 日本三景と言えば、すべて海景で、天橋立、厳島神社、陸前松島であるが、まさに天橋立がここで言うまさしく長く伸びた砂嘴そのものである。
 そして、最も大規模な砂嘴として、北海道のサロマ湖、野付半島がある。
 沼津の戸田湾は、砂嘴の岬で閉じた、みごとな美しい湾だったのである。しかもこの湾は自然が造形した良港で、古くから漁村として栄えた場所だった。
 
注、「霓裳」は虹のように美しいもすそ、「羽衣」は鳥の羽で作った薄くて軽い衣のことで、天人が着て空を飛ぶとされるもの。

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