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想い出の旅5 信州下諏訪

 甲州街道の起点は、中山道の宿場町、下諏訪である。甲州街道は江戸時代の五街道の一つであり、甲府、八王子をへて内藤新宿から日本橋に至る。住んでいた国分寺市のすぐ南の府中市を通っている。

 参勤交代でこの街を通った大名は、信州の高島、高遠、飯田の三小藩と甲斐の諸藩にすぎず、通行者は極めて少なかった。

 中山道は京都から江戸に向かう最も重要な街道であった。和田峠から諏訪湖方面に下りてくると、諏訪大社下社秋宮が鎮座する下諏訪温泉へといたる。その中心に源泉、綿湯のモニュメントがある。

諏訪大社と温泉、島木赤彦
 宿場町下諏訪の本陣は岩波家で一般公開されている。脇本陣はまるや旅館になっていて、その向いに、歌川広重や十返舎一九らが逗留した桔梗屋が三百年の伝統を誇る。今日の桔梗屋は定員二十人から二十五人の小宿だが、簡素な中にも重厚な趣をたたえている。桔梗屋の温泉浴場には大きな木製短冊が多数整えられ、そこには島木赤彦の歌が認められている。

 島木赤彦は諏訪出身の歌人で、彼の住んだ家、柿蔭山房が保存され、公開されている一方、町立諏訪湖博物館に赤彦記念館が併設されている。

 短歌誌『アララギ』を出し、アララギ派を形成した赤彦は、伊藤三千夫、長塚節 齋藤茂吉らと親交を結び、歌壇に重きをなした。『アララギ』に参加した諏訪の女流歌人今井邦子の家も保存公開されている。

 諏訪といえば古くから諏訪大社で有名である。諏訪大社は全国一万有余にのぼる諏訪神社の総本社であり、諏訪湖をはさんで南北に二社づつ四ケ所に鎮座する珍しい形式をもつ。

 諏訪湖の南の上社は諏訪市中洲の本宮と芳野市宮川の前宮、下社は下諏訪町大門の春宮と上述した下諏訪町上久保の秋宮である。平安中期の延喜式の神名帳に、南方刀美神社(みなみかたとみやしろ)二座と記され、最も古い神社の一つに数えられている。

 すでに古事記の国譲り神話の中で、高天原の天照大神が出雲の国、大国主の命に使者建御雷命(たけみかづちのみこと)を遣わし、「豊葦原の中つ国」を献上するよう求めた。

 大国主命と第一王子八重事代主神はそれに応じたが、第二王子建御名方神は反対し、使者と力比べで決するということになった。しかし、第二王子は敗れ、逃れて科野(信濃)の州羽(諏訪)の地まで来て、そこに住みついたという。

 諏訪大社の祭神は建御名方神(たけみなかたのかみ)と妃の神八坂刀売神(やさかとめのかみ)、下社には併せて御兄八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)であるが、一般には上社が男神、下社が女神を祭ると言われてきた。
 
 諏訪湖の冬の風物語、諏訪七不思議の一つ、結氷後に大音響とともに生じる氷の亀裂のちに、さらに氷が盛り上がる現象を御神渡(おみわたり)といい、上社の建御名方神が、下社の妃八坂刀売神のもとに通う道すじがそれであるという神話がある。

 御神渡ができると、諏訪湖の氷上の通行が安全になると考えられている。その道筋の方向によって、その年の農作物の豊凶を占う「御神渡拝観の儀」が行われるが、御神渡が発生することは温暖化のせいか、近年少なくなったという。

 男神と女神との間のこうした物語は美しく、それが氷で表現されるところはいわく言い難いものがある。

 下諏訪温泉郷の傍にある秋宮は、弊拝殿、左石拝殿、神楽殿など見るべき建築は多いが、やはり諏訪大社ならではの御柱4本が最も気になるにちがいない。

 弊拝殿に向かって右が一の御柱で反時計回りに二、三、四と四方に御柱が設立する。長さは順次、一六・七、一五・二、一三・六、一二・〇メートルの高さのいずれも樅の大木で、八島高原に近い観音沢奥の国有林から切り出されたものである。

 この長大な御柱を切出し、設置するまでの勇壮な御柱祭りは、諏訪の男たちの時には命知らずの心意気を示すものとしてつとに有名である。ここでは詳細には触れないが、誰でも現地に行けば、いつでも博物館その他でビデオ映像が見られるだろう。

 また諏訪大社の四ヶ所で四本ずつの御柱に出会うはずである。御柱とは何か。一〇〇メートルもの崖を命がけで落とす「木落とし」にみられるような豪壮な行事に注目するのもよい。

 だがそうした行為を含む御柱祭の本質を見逃してはならないだろう。再び御柱とは何か。四つの諏訪大社内に四本の丸太を立てることは何を意味するのか。

 たとえば、四方を鎮めるための象徴、あるいは神聖な世界を限るもの、神の昇降のためのもの、それとも神社の建設を省略したものなどと言われているが、このことを確かめるためには歴史的な経緯をこそ見逃すべきではあるまい。

 しかし、確かなことははっきりしないが七年ごとにこれがとり行われ、それは寅、申年なのである。
諏訪大明神えことば絵詞に「寅、申年に当社遣営あり、一回の貢税永代の課後、桓武天皇の御字に始まわり」とある。

 言い伝えでは、征夷大将軍坂上田村麿が奥州征討の折、諏訪明神に戦勝を祈願し、神の加護で勝利を収めた。以来、六年毎に神殿の改造をし、用材の御柱引きを祭事とした。

 しかしながら戦国時代になり、六年ごとの造営が思うようにうかせなくなると、変わりに柱を象徴的に立てることによって、同様な意図を持続することにしたという。

 すなわち御柱は六年毎の神社建設の代償というわけである。おそらく象徴的な意味はその通りにちがいい、けれども、それも決して史料的に確かめられているわけではないのである。さしあたり以上のように信じる他はないのだが、疑いなく確実なことだというわけにはいかないだろう。
 
 伊勢神宮が二十年毎に建て替えが行われる習いだったが、それが後に正確には行われなくなったのとどこか似ている。二十年毎の式年造替というのであったのだが。

 綿の湯モニュメントは、街道一賑わった下諏訪温泉の中心地を示すものだが、この「木曽路名所図会」の中から取られた「諏訪温泉」のレリーフが注目される。中央に綿の湯が描かれ、「下湯、中湯、上湯」の書き込みがあり、「桔梗屋」が右手前に描かれ、人馬籠、にぎやかな往来が示されている。左端は今日のまるや旅館、かつての脇本陣であろうか。その上部にも旅籠が描かれている。雲の中には「氷ともまたあたたかきいづみともなしてや深き神のめぐみに」と書かれている。

 宿場町といえば街道にそって長く伸びて形成されるのが普通だが、下諏訪は中山道がほぼ直角に曲がり、その角から甲州街道が始まっているために、全体としてはT字路の周囲に宿場が形成され、綿の湯がこのT字路の交差点上に位置するのである。

 すでに旦過の湯や児湯の湧出があり、湯泉場としての賑わいをもっていた場所であった。さらに諏訪大社下社秋宮がはじまったばかりの甲州街道の東側に鎮座している。

 宿場の中心となるのが本陣で、問屋を兼ね、大名、日光例幣使、お茶壺道中(将軍御用の宇治茶を江戸に運ぶ)などの宿泊所となった。旧本陣の建物は改変が著しいが、母家などの主要部分はよく残されている。庭園も名石を配した池とともども古い佇まいを見せている。

 本陣以外でよく残っているのは明治初年のものとして、下諏訪町歴史民俗資料館となっている建物があるくらいでその他は殆ど当時のおもかげをとどめていない。

 宿場の建物は本陣、脇本陣、旅籠、茶屋、商家などが中心で、歴史民俗資料館の建物は商家のものであった。木戸入口から「通り庭」が裏庭へつづく土間になっていて、入口左脇には板張りの「見世」があり、奥に座敷があって、裏庭、土蔵が建つ。外観は「縦繁格子」による「出格子造」の二階建て平入りである。

 茶屋としては、今井邦子文学館が今井家を解体修繕したもので残っている。一階、土間、板の間、和室三室、広縁、二階は和室になっている。甲州街道の茶屋だが高木温泉(高木村)に政屋(後に橋本屋)がそのままの姿をとどめていて、ユースホステルになっていた。

 きみと泊まった宿で、興味深いのは、桔梗屋とみなとや旅館である。いずれも木造の小さな宿である。桔梗屋はしっかりした造りで、浴場が島木赤彦の短歌を湯船に入って読むことができた。また、みなとや旅館は、中庭の露天風呂がなかなか味わい深く、印象的だ。また、料理も独特で、馬肉が有名らしいが、私たちは、はじめて、蜂の子の佃煮に舌鼓を打った。食器も見事であり、白洲夫妻が宿泊された時、正子さんが、そのことを指摘されたという。確かに文人好みの宿であって、額に入った小林秀雄の書に出逢ったのは嬉しかった。

 甲州街道の秋宮から春宮へといたる参道は、往時の街道筋の様子をあるていど想いおこさせる。途中に今井邦子文学館や御作田社などがある。

 諏訪湖は長野県のほぼ中央に位置する。新生代第三紀の終わり頃からの中央高地の隆起活動と糸魚川静岡構造線断層運動によって、地殻が引き裂かれて生じた断層湖で、標高七五九メートル、面積一三点・三平方キロ、周囲一六・二キロ(湖岸堤完成時一五・九キロ)、平均深度四・七メートル、最深部で七・二メートルである。したがって周囲の構造が極めて興味深い。

 また、南に流れる天龍川の水源である。

 私が生まれて間もない乳幼児の頃、戦争を避けて東京から疎開したの天竜川のほとり伊那郡洞(ほら)という農村であった。親たちが野良仕事の間、私は籠に入れられて日陰におかれ、頭だけ出して、みんなのことをボーっと眺めていたらしい。

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