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椅子が好き 5/8 アメリカ・モダンの椅子

世界の近代名作椅子を訪ねて   長尾重武
椅子は小さな建築である。これまで、すでに出版したものについて論じてきたが、今回は、まだ出版前の構想に基づいて書いている。「椅子が好き」は モダン名作椅子を巡る旅である。近代運動やアヴァンギャルドが生み出した20世紀の椅子を、時代別、国別に展開する。(写真は武蔵野美術大学美術館・図書館蔵)

アメリカ・モダン、ミッドセチュリーの椅子

アメリカの椅子については、すでにフランク・ロイド・ライトについて、アーツアンドクラフト運動の項ですでに述べた。日本にも帝国ホテルを建設し、目白の自由学園も設計し、椅子も設計しているのでよく知られていると思う。また、ライトは、1955年、ヘリテージ・ヘンレドン社が製造する大衆市場向けのタリアセン家具をデザインした。

そしてアメリカの椅子と言えば、いわゆるミッドセンチュリーの椅子がクローズアップされた。1940年代から50年代にかけて、戦後のアメリカ、そして少し遅れてヨーロッパでは、西欧諸国の多くが空前の好景気に沸いていたのと同時に、家庭用家具に対する大きな需要があった。この時代は歴史上、希望に満ちた前向きな時代であり、多くのデザイナーが科学とテクノロジーが勇敢な新世界をもたらすと固く信じていた。

多くの建築デザイナーは、建築プロジェクトよりも革新的な家具の開発にその才能を集中させた。その結果、啓蒙的な家具製造業が生まれている。ハーマンミラーやノル・インターナショナルは、革命的で低価格、しかも高品質のモダン家具を一般消費者に提供することができた。

第二次世界大戦中の軍需産業によって、プライウッド(成形積層合板)やFRP(繊維強化プラスチック)などの新しい素材加工の技術革新が進んでいたアメリカは、自国が戦場とならなかったこともあり、終戦後に製造業の力が一気に伸び、大量生産に適応したミッドセンチュリーモダンの住宅や家具が誕生した。

ヨーロッパから優れた建築家達がナチズムから逃れて、アメリカに移住してきた。ワルター・グロピウス、ミース・ファン・デル・ローエらは大学教育に身を投じた。それより早く、重要なことに、フィンランドの著名な建築家エリエル・サーリネン(Eliel Saarinen 1873-1950)が1923年にアメリカに移住し、その1年後にアメリカの主要な家具産地のひとつであるミシガン州を拠点に活動を開始し、ミシガン大学の客員教授に就任した。

1927年、慈善家で新聞経営者のジョージ・G・ブースによってクランブルック財団が設立され、1932年にはエリエル・サーリネンがクランブルック・アーツ・アカデミーのディレクターに就任した。この教育機関もまたミシガン州に位置した。バウハウスと対をなす民主的な機関として、クランブルック・アカデミーは、芸術の統一を意図して設立。両校は、美術と応用芸術のさまざまな分野の教育に特化したスタジオやワークショップを運営し、これらの分野間での意見交換を強力に推進した。

クランブルック・アカデミー・オブ・アーツは、戦間期にはアメリカで傑出したデザイン教育機関であり、その卒業生やスタッフの多くが、デザインや建築の各分野でリーダー的存在となった。エリエル・サーリネンがクランブルックの学長を務めた意義は、いくら強調してもしすぎることはないと思われる。

才能豊かな若者たちは、モダニズムのモラルを継承し、最先端技術の応用によってそれを大量に立体的に表現することで、椅子デザインの歴史において最も重要な先例を打ち立てた。この時期、1917 年にケア・クリントによって創設された人間工学という学際的な学問はまだ黎明期にあり、戦時中は軍によって当時「ヒューマン・エンジニア」と呼ばれていた研究が行われていた。1945年以降、デザイナーは初めてデータを定量化することができるようになり、それは人間と機械の関係についての新たな洞察をもたらしたのです。

アメリカのミッドセンチュリーデザインを推進した需要人物は、ジョージ・ネルソンチャールズとレイ・イームズ夫妻と言っていいでしょう。

ジョージ・ネルソン(George Nelson 1908-6)はコネチカット州生まれ。イェール大学で建築を学び、1931年に卒業。1932年、ローマのアメリカン・アカデミーにフェローシップ留学中、建築部門でローマ賞を受賞。デザイン理論家、建築批評家として戦後数年間に多大な影響力を持ち、統合オフィス・システムとショッピング・モールの発明に貢献した。デザイナーとしての活躍のみならず、アメリカを代表する家具メーカーHarman Miller(ハーマン・ミラー)社のディレクターを20年以上務め、イームズ夫妻やイサム・ノグチの才能を見出し同社へ招いて、一躍世界的な家具メーカーへと成長させるなど、ミッドセンチュリーのデザイン界を牽引した重鎮。
また、ゴードン・チャドウィックとともに、工業デザインを専門とするジョージ・ネルソン・アソシエイツを設立。ハーマンミラー社での主な家具デザインには、「ベーシック・ストレージ・コンポーネント」(1946年)、「コンプリヘンシブ・ストレージ・システム」(1958年)、「ボブ・プロプストとのアクション・オフィスIシステム」(1965年)などがある。

ジョージ・ネルソン「ココナッツチェア」1955
ジョージ・ネルソン「プレッツエル」1957

チャールズ&レイ・イームズ夫妻は、ミッドセンチュリーモダンデザインのイコン的存在と言えるでしょう。

チャールズ・イームズ(Charles Eames 1907-78)はワシントン大学で建築を学び、1936年、ミシガン州のクランブルック芸術アカデミーでフェローシップを受ける。そこでの同僚には、ハリー・ベルトイア、エーロ・サーリネン、1941年に結婚したレイ・カイザーらがいた。

レイ・カイザー(Ray Kaiser 1912-1988)は1933年、ニューヨーク州ミルブルックのメイフレンド・ベネット・スクールを卒業。1937年、ニューヨークのリバーサイド美術館で開催された第1回アメリカン・アブストラクト・アート・グループ展に出品。1940年、ミシガン州のクランブルック・アカデミー・オブ・アーツで、マリアンヌ・ストレンゲルの指導のもと、織りのクラスに参加。

この頃、チャールズ・イームズはクランブルックの工業デザイン科の学科長だった。その1年後、チャールズ・イームズは最初の妻と離婚し、レイとシカゴで結婚した。同じ年の暮れ、ふたりはカリフォルニアに移り住み、合板のより良い成型方法を見つけるための実験を開始。第二次世界大戦中、イームズ夫妻はプライウッド(成型合板)のスプリントやリッターを製作し、プライウッドを3つの幾何学的平面で複雑な曲線に曲げる新しい方法を開発した。

1940年、イームズはエーロ・サーリネンとともに、ニューヨーク近代美術館の「オーガニック・デザイン・イン・ホームファニシング」コンペティションの入賞作品をデザイン。1946年、イームズはMoMA初の個展(New Furniture by Charles Eames)を開催。

チャールズ&レイ・イームズ夫妻は、家具メーカーのハーマンミラーと緊密に協力し、非常に革新的で合理的な家具デザインを生み出した。プライウッドの研究開発から始まり、プラスチック、ファイバーグラス、ワイヤーなどを使用した数々の家具を製作。その後、イームズ夫妻は建築、グラフィックデザイン、映画製作、写真撮影、展覧会のデザインに力を注ぎ、そのようなプロジェクトのパトロンには、アメリカ政府やIBMなどが名を連ねた。

代表作・オーガニックチェア・プライウッド ラウンジチェア・ラウンジチェア&オットマン など異素材ミックス、人工素材(プラスチック、ビニール、ルーサイト、グラスファイバーなど)と天然素材(木、ガラス、金属、大理石など)をミックスしたデザイン、曲線の多用、素材加工の技術革新によって可能になった、ユニークで自由度の高い曲線デザインを行った。

脚の表現も、イームズのデザインによって、一挙に多様になったのが分かる。椅子と言えば4本脚にこだわらくなったのだ。

チャールズ&レイ・イームズ「プライウッドチェア」1946
チャールズ&レイ・イームズ「DCM サイドチェア」1946
チャールズ&レイ・イームズ「DSSサイドチェア」1950
チャールズ&レイ・イームズ「ワイヤーメッシュチェア」1950
チャールズ&レイ・イームズ「ラウンジチェア」、「オットマン」1956
チャールズ&レイ・イームズ「プラスチックアームチェア」1950
チャールズ&レイ・イームズ「アルミニウムグループチェア」オットマン 1958 

エーロ・サーリネンは、エリエル・サーリネンの息子でフィンランドに生まれ、13歳の時にアメリカに移住した建築家・プロダクトデザイナー。建築ではジョン・F・ケネディ空港の「TWA空港ターミナル」(「TWA Hotel」として復活)など。

アーチ状構造や曲線を多く取り入れた、未来的なシンプルさを持つ独特なデザインが特徴。SF感覚の丸い台座の上にまっすぐ伸びる一本足の椅子。
「チューリップチェア」、「ウームチェア」

エーロ・サーリネン「チューリップチェア」1965
エーロ・サーリネン「チューリップチェア」1965

ハリー・ベルトイア(Harry Bertoia 1915-78)は、イタリアのウーディネに生まれ、1930年、15歳の時に家族とともにアメリカに移住。1937年から1939年までクランブルック芸術アカデミーで奨学金を得て修業。同校に金属加工スタジオを設立し、1939年から1943年まで同学科の主任として教鞭をとった。その後、旧知の仲のイームズ夫妻とともにエバンズ・プロダクツ社で合板成型技術の開発に携わる。戦後は、カリフォルニア州ヴェンアイスにあるイームズ夫妻のプライフォームド・プロダクツ社に短期間勤務。1951年にノール・インターナショナルのためにデザインした革新的なワイヤーチェアは商業的に大成功を収め、一躍有名に、このデザイン群からのロイヤリティによって、彼は彫刻家としてのキャリアのみに専念することができるようになった。代表作、「ダイヤモンドチェア」、「ワイヤーチェア」

ハリー・ベルトイア「スモールダイヤモンドチェア」1951

アンドレ・デユプレ(Andre Dupreul  1951-)  背もたれと座面に採用されたビニールコードが特徴的なデュプレチェア。ビニールコードのしなりによる独特の反発感ある座り心地ですが、見た目より快適な着座感が得られる。

デユプレ「デユプレチェア」1954

ウォーレン・プラットナー Warren Platner 1919 アメリカ
ニューヨーク州イサカのコーネル大学で建築を学び、1941年に卒業。1945年から1950年まで、レイモンド・ローウィの設計事務所、I.M.ペイ、ケビン・ロッシュ&ジョン・ディンケルーの建築事務所に勤務。1960年から1965年まで、ミシガン州バーミングハムのエーロ・サーリネン&アソシエイツに勤務。1965年、コネチカット州ニューヘイブンにプラットナー・アソシエイツを設立。

ウォーレン・プラットナー「アームチェア」1966

ロバート・ヴェンチューリ(Robert Venturi 1925-)
フィラデルフィア生れ。プリンストン大学大学院修了後、ローマのアメリカン・アカデミーに留学。帰国後、エーロ・サーリネン事務所後、64年、自信の事務所を設立、イエール大学教授に就任。ポスト・モダニズムの主唱者の一人。ミース・ファン・デル・ローエの「レス イズ モア」(少ないほど良い)を文字って、「レス  イズ ボア」(少ないほど退屈)と唱えた。

ロバート・ヴェンチューリ「クイーン・アン」1985

フランク・オー・ゲーリー(Frank O Gehry 1929-)
カナダ、トロント生れ。47年、ロサンぜルスに移り、カリフォルニア大学卒業後、ハーバード大学で都市計画専攻。62年、ロサンぜルスに建築設計事務所設立し、建築中心に仕事をしている。「グッゲンハイム美術館」や「ヴトラ美術館」が著名。

フランク・オー・ゲーリー「ウイグルサイドチェア」1972
『世界の名作椅子ベスト50』2012より



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