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想い出の旅10 志賀高原、五色沼の旅、それとも消された記憶

 志賀高原は、高校生の時、夏の林間学校の旅で初めて出かけてとても印象が良かったので、後になってもたまに出かけたところだった。真夏の東京であれば、高温多湿な時期に、高原というのは爽やかなところで快適だからだ。高原といっても湿度は高いらしいが、涼しいのでそれが気にならないということらしい。

 志賀高原の湯田中温泉、熊の湯温泉も印象的だ。特に熊の湯は硫黄泉で、匂いはきついけど、肌がすべすべになり気持ちよかった。

 志賀高原の池めぐりも楽しい。蓮池から、下の小池、上の小池、長池から三角池、ひょうたん池を経て渋池、そして、沢山の池がある志賀山の、裏志賀山の南斜面のお釜池、小さな鬼の相撲池、志賀の小池、元池、黒姫池をへて、四十八池に達する。この四十八池は大好きな池だ。モウセンゴケ、ヒメシャクナゲ、ニッコウキスゲ、ウタスゲ、コバイソウなどの高山植物、モリアオガエル、クロサンショウウオに驚く。あとは大沼のコバルトブルーとエメラルドグリーンに出逢えればいい。

 同じく、信州の上高地の爽やかさがなんとも言えない。梓川の清冽な流れ、いくつもの池、池に生えていた枯れ木、すべては高地の風景と雪解け水が醸し出す心を洗うような風景、それらはまたとない気がする。
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 旅は学校の修学旅行が印象に残っている。小学校では日光、中禅寺湖、中学校では、五色沼、仙台瑞巌寺、松島だった。この時、高校では関西、奈良や京都に行くだろうから、中学校では東北に行く、と言っていたのが印象に残っている。事実、高校では京都旅行だった。

 磐梯朝日国立公園内の五色沼へはどのようにして行ったのだろうか。中学生の修学旅行だからクラスごとにバスに分乗して行ったに違いない。細かいことは何も覚えていない。五色沼は実に見事な色彩の湖沼で、山深い場所に神秘の光を湛えていた。
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 大学院生二年生の私は、十二月も終わり近く、突然、遠い記憶の彼方の五色沼に行くことにした。東北本線に乗り、郡山で磐越西線に乗り換えて、猪苗代駅で下車、磐梯山の西側を行けば、裏磐梯の北塩原村に出るはずだ。一帯が五色沼の地域だ。バスに乗ったら、どこで降りればいいか聞くことにしよう。

 猪苗代駅を降りた時から小雪交じりの風が吹き、ようやく裏磐梯方面行のバスを見つけて乗り込んだ。北塩原村の五色沼入口に着いたのはもう夕暮れになっていた。とにかく宿を探したが、雪道は覚束なく、ようやく一軒の宿を見つけて、一夜の宿をとることにした。夕食と明日の朝食をお願いして。

 応対してくれた宿の年配の女性が、最初から何か怪訝な顔をしていたことが気になった。髪の毛少し長く伸ばした男が、予約もせずに突然現れ、さえない暗い顔をしていたからかもしれなかった。少し注意しよう。余計な心配をかけただろうか。

 夕食の時に、宿の人に、話をした。突然、思い立って、東京から、五色沼を見に来ました。そういうと、五色沼はすぐ近く、南の、毘沙門沼から、赤沼、深泥沼、竜沼、弁天沼、瑠璃沼、青沼、柳沼、そして裏磐梯高原駅バス停まで、徒歩で約一時間半の行程だという。案内パンフレットをすぐ持ってきてくれた。五色沼入口にいるのだから、五色沼はもうすぐそこである。ここまで来て宿を取った甲斐があったと思った。

 そして、東京に帰るなら、裏磐梯高原駅バス停から、バスで、猪苗代駅に向かえばいい、とのこと。
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 今回の旅には理由があった。すこし前、彼女のお姉さんから電話があって、彼女が婚約したのでよろしく、との短い知らせがあったのである。勤めを辞めて、近くのボウリング・センターで事務のアルバイトをしている、と本人から聞いていた。でもなぜ彼女からではなく、姉から電話があったのだろう。勤め先の人達とはグループ交際をしている、とは聞いていた。そう言えば、勤め先の休みの日に私たちは会うことはなかった。そうか、その中の一人と 結婚するのだろうか。

 そういえば、彼女が私に聞いたことがあった。なぜ、私と会うの。好きだから。きみのような妹が欲しかったから。私はただの妹、私には兄がいるわ。そんなこと知ってるけど。

 可笑しな会話だった。今考えると、彼女は大事なことを確かめたかったのかもしれない。ともあれ、彼女が婚約したというなら、けじめをつけなければならない。お姉さんからの電話のあとで、本人に確かめたいと思ったけど、きっとちゃんとは答えてくれない気がした。
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 その夜はなかなか眠れなかった。久しぶりに静かな晩だった。木造の旅館は静けさの中にある。待てよ、ひょっとして雪でも降っているのだろうか。その通りだった。起きて明かりをつけ、外を見ると雪が深々と降っていた。何もかも音を消す雪の中、まるで遠い交差点で彼女を待っていたあの夜みたいだった。想い出は走馬灯のように、次々と浮かんでは消えていく。益々目はさえて眠りからは遠ざかっていった。

 あまり眠れなかったわりには早く目を覚ました。雪はやんでいたが空はどんより曇っていた。前に五色沼に来たときは春、天気には恵まれていたような気がする。あの鮮やかに澄んだ五色沼の景色が浮かんでくる。食事をとり、身支度をしてナップサックの荷物を整え、早めに宿を出た。昨夜降っていた雪が少し積もっていた。

 五色沼は一八八八年に噴火した磐梯山の北側の小磐梯が崩壊し、川をあちこちでせき止めて出来た数多くの湖沼の総称で、東の秋元、北の小野川湖、湖西の桧原湖の三つの大きな湖に挟まれた一帯に点在している小さな湖沼だ。

 バス道路まで出ると、その南側に広がる大きな毘沙門沼まではすぐ行けた。雪によっては標識が埋もれて見えなくなればその先には行けなくなる、と宿の人に言われた。毘沙門沼はしかし灰色には見えているが、かつての五色沼のイメージはない。雪の白さと空のどんよりした鈍色のせいだろうか。無彩色という感じだ。そうだ、よく見るあの雪景色そのもののなかで湖沼もただ黒ずんだ灰色に見えているのだった。

 東へ赤沼をめざした。白い雪の中で、赤沼、つづく深泥(みどろ)沼、そして竜沼もほとんど同じグレーの沼にしか見えなかった。道は少し上りになり、その先に弁天沼、青沼、瑠璃沼がまとまっていて、ようやく薄日が差していたせいか、その辺だけは沼の水の色が青みがかって見えたが基調はグレーであった。

 柳沼への道は容易ならざるものがあった。標識に従って歩くものの、距離感といい、雪の状態といい、なんとも覚束なかった。だが漸く柳沼に到着した。ここまでくればバス道路も間近だ。急に寒さが身にしみてきた。ダスターコートに襟巻、その下はセーターを着ていたが、くるぶしの上までの編み上げ靴、お気に入りの靴を履いていたが完全な防寒靴ではない。この靴でいつでも旅に出かけてきた。南へも北へも同じ靴を履いていた。夏ならコットンパンツだがさすがに冬はウールだ。しかし風が吹くと寒い。雪深くなくてよかったと思う。

 五色沼は全く違うイメージのままに通り過ぎた。コバルトブルーもエメラルドブルーもサファイヤブルーもどこにもなかった。ほとんど無彩色の五色沼とは。傷心がそう見せているのではない。季節がそうさせていて、雪景色のなかの思いがけない風景なのだ。ほとんど予定通り五色沼を巡回したことになるが、満足感などまるでなかった。どの沼もグレーなままだ。五色沼の影を通過してきた感じだ。そして、なんという寒さだったろう。
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 ここまで書いたが、最後のパラグラフは真実だが、こんな風にすべての沼を辿っただろうか。記憶に沿って書いているのではない。あきらかに地図を辿りながら、考えて書いているのであって、みんな嘘を書いてきた感じかもしれない。あるいは雪のためどこにも行けずに帰ってきたのかもしれない。

 六〇年ほど前のことでも鮮明な記憶がある場合もあるけど、この時のことは、意図して消したい記憶であったような気がする。地図に表れている地名も何も記憶にはない。もしかすると、地名もかつてとは違っているかもしれない。すべては不確かで曖昧に思えてくる。記憶を自分で意図して消せるのだろうか。そうだ、いつかゆっくり行ってみよう。確かめるというより、はじめての場所を訪れるように。

 五色沼への傷心旅行から戻ると、親戚の家の恒例のクリスマス・パーティに何食わぬ顔で出席した。叔母が、アラー!白菜のお漬物を出すのを忘れていた、というので、私が小さな声で、美味しいので、ほんの今、全部食べちゃいました、と答えたことは、その味とともに、鮮明に想い出すのだが。
 



  


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