見出し画像

想い出の旅11 夢のジャンピングバルーン

                      

K氏訪問

 それが何時のことだったか、具体的には何も思い出すことができない。私はある夏から秋にかけて、千代田区の北の丸公園に風変わりな建物を訪れた。

 正面二階以上には小さな六芒星を切り抜いた窓がびっしりとグリッド状に配置され、三階と四階の間に水平の帯があり、六階建てらしい。その上に幅広い塔屋が聳えそこにも六芒星の窓が同じく開いている。その背後には、正五角形の中央棟から延びる五つの棟が規則正しく伸び、図式的にはまるで監獄のような放射状の六階建ての棟を備え、その壁面の窓も正面と同じ六芒星型の窓に覆われている。

 そうした佇まいだけでもこの建物は一体何か、と思わせる。そう、例えばユダヤの秘密の詰まった建物か。いや、プレートには公益財団法人日本科学技術振興財団・日本科学技術館だと記されている。その一室に用事があってK氏を尋ねた。

 第二次世界大戦中に、日本で考案したまるで少年の夢想のような長閑な武器について詳しく知りたかったのであった。その武器というのは「風船爆弾」で、それを開発して、実施した経験を持つ生き証人を見つけたので会いに行ったのである。それが、日本科学技術館のK氏であった。 

風船爆弾
 K氏によれば、風船爆弾は偏西風に載ってアメリカ合衆国の西海岸、カリフォルニア州をめがけて飛ばすと、静かな攻撃ができるのではないか、という考えで製作されたという。風船の材料が和紙とコンニャク糊というのが面白かった。この両者は軍需産業に用いられていなかったので良しとされたとのことである。

 最初は満州東部からソ連のウラジオストック攻撃のために考えられたという。しかしこの時は実現されず、太平洋戦争になって、今度はアメリカ本土攻撃のために本格的に考えられたとのこと。

 つまり、風船爆弾とは、太平洋戦争において日本軍が開発・実戦投入した、気球に爆弾を搭載した爆撃兵器である。日本本土から偏西風を利用して北太平洋を横断させ、時限装置による投下でアメリカ本土空襲を企図した。何しろ風まかせであるから、気象庁が爆弾製作に協力するというのも面白いと思った。

 ともあれ、開発が成功し、一九四四年一一月から翌年三月まで、全部で九〇〇〇個余りの風船爆弾が放たれ、少なくとも三〇〇発程度がアメリカに到達したものと考えられるという。オレゴン州では六人が死亡したという戦果が残る。気球の直径は約一〇m、総重量は二〇〇kg。兵装は一五kg爆弾1発と5kg焼夷弾2発である。安価でかつこれだけの長距離を飛ばした爆弾も見当たらず、その意味では夢から出た現実として意義あるものであったという。 

風船爆弾から「ジャンピングバルーン」へ
 結局はそれほど成功した爆弾ではなかった。K氏は、その時の風船を平和利用することを考えていて、「ジャンピングバルーン」というスポーツ構想を温めていた。つまり和紙とコンニャク糊で、気楽に風船を作り、風船の下に人間を吊るし、人間がジャンプするごとに上下するのを楽しんではどうか、ということであった。

 しかし、どこで飛ぶのか。他にはいいアイデアがないか。それが大学生の私に託されたのである。気球の直径は約一〇m、総重量は二〇〇kgというのが風船爆弾の規模だとすると、人間の重量が六〇kg、風船の容積は約三分の一になる。それなら色々可能かもしれない。

 私は、K氏の提案する「ジャンピングバルーンの可能性」について、与えられた課題に応える約束をしていたのである。私のアイデアは「ジャンピングバルーンとマリンスポーツ」というレポートにまとめたものだった。

 私の提案の第一は、バルーンのガイドとなる鉄塔を建て、バルーンの浮力で上下する遊びの提案であった。この考えは、塔を建てないでも、建築内の吹き抜けを作ってそこで上下するのも可能だろう。あるいは飛行機の格納庫のような広広々した内部空間で、自由に飛ばせるのではないか、そういう提案だった。

 そして、もう一つのアイデアは、ただジャンプすることではなく、たとえば、海で、風船に人間を吊り、モーターボートに引かせる、というマリンスポーツの提案であった。これが第一に推していたアイデアだった。

 さらに、もう一つは、海辺の特徴である、海風、陸風を利用して、階上と陸上を往復する風まかせのスポーツの提案であった。そのために湘南の海に、鎌倉の海岸に出かけた。トビが空を浮遊しているのを観察したり、陸風と海風が何時ころ変わるのか。浜近くの店の人に聞いたりした。若いころのまるで夢のような遠い想い出である。 

ジャンピングバルーンとは何か
 ここまでをきみに話すと、
  そんな夢物語のような話、ほんとに存在したの。貴方の夢想じゃないの、と言われてしまった。二〇二二年一〇月のことである。 風船爆弾は確かに作られ、そのデータはネットにも載っている。

 そうじゃなく、ジャンピングバルーンの方よ、夢みたいな話は。

 きみがスマホで検索すると、ジャンピングバルーンでいくつも色鮮やかな大きな風船が舞い上がっている画像が出てきた。でもそれらは初めて見たもので、私が話しているかつてのジャンピングバルーンとどのような関係か分からなかった。

 それで、丁寧にパソコンで検索し調べ始めた。次のような記述にも出会った。

 フリー百科事典『ウィキペディア』(2020/03/11 07:55UTC版)ジャンピングバルーンとは、係留気球のうち、安全ベルトを装着した人を空中に引き上げるアトラクション用の気球のこと。直径4.5から7m程度の大形係留気球が使われ、大型のものは大人(体重七〇㎏程度)でも乗用可能である。この「ジャンピングバルーン」の解説は、「インフレターバルーン」の解説の一部です。

 とあった。

 インフレータブルバルーンを調べると、株式会社BRAVOの商品であった。ジャンピングバルーンをさらに調べていくと、広告会社で同名のバルーンを飛ばすイベントがヒットした。屋外、屋内様々なアトラクションを実施している。

 すると、長閑なユーチューブの画像を見つけた。日本の高度経済成長期に、ジャンピングバルーンという遊びを考えた人がいて、私はそのそばで見ていた、というのである。白髪の老人は赤いTシャツを着ていて、そこには、Japan Junping Baloon と書かれていた。プレゼンテーションがうまくないところが、身内の活動の想い出をこめた感じでかえって真実味があった。

 この動画から、「整体・近藤」という記事に飛ぶことができ、静岡市の住所と電話番号に行きついた。 

整体・近藤に電話する

 学生の頃、東京、西の丸公園の日本科学技術館に、風船爆弾の話を聞きに行きました。そこで「ジャンピングバルーン」の話を聞き、これに関連したアイデアをお話した者ですが、近藤さんは、おそらくその時お話しした方の近親者ではないかと思い、電話しました。五〇年以上も前のことです。

 それは私の父親・近藤石象その人だと思います。風船爆弾を開発し、戦後それを平和利用したいと思い、「ジャンピングバルーン」を考えた人物です。私は彼の六人の子供の内の一人、四男で、近藤正勝といい、現在七七歳です。父は、東大建築学科を卒業し、辰野金吾のゼミでした。

 それは驚きです。私も東大建築学科を卒業しています。

 そうですか。父は卒業して大陸に渡り満州に赴任し、台湾でも建築の仕事をしています。満州から引き揚げ、杉並区の荻窪に居を構えました。桃井二丁目、尚絅中学の近くでした。

 ええ!、私も今杉並に住んでいます。天沼です。奇遇ですね。

 是非お目にかかりたいと思います。父は退職後、水戸で「ジャンピングバルーン」研究所という会社を設立しました。そこで、「ジャンピングバルーン」の特許を取りましたが、私はもううるさいことを言わないことにしています。二〇〇八年に、父は生誕一〇〇年にイベントを行いました。いや、とにかくお会いしたい。

 話は多岐にわたったのですが、電話を切り、はがきを出した。その午後、先方から電話があり、夜にこちらから電話すると、十一月六日(日)に、荻窪の親戚の家に泊まりますが、翌日お目にかかれないか、ということでした。

 一〇時半に荻窪駅北口、青梅街道口の階段を上がったところで待ち合わせることになった。 

東大建築学科卒業生名簿である「木曜会名簿」を調べてみる

 卒業大学の建築学科「木曜会名簿」を調べてみる。近藤石象の名はどこにもない。人名索引には見当たらない。一九〇八年生まれなら、卒業は一九三〇年前後、そこにも見当たらない。

 辰野金吾は一八一二年には東京帝国大学工科大学建築学科の教員を辞しているので、辰野研究室の出身というのもあり得ない。

 近藤石象は東大建築学科卒業ではなさそうである。何かの間違いだろうか。お会いすればわかることだと思う。 

二人のランデヴー

 
十一月六日、十時半、荻窪駅青梅街道出口で待つ。黒の帽子をかぶっています、というので帽子を探す。私も黒っぽい帽子をかぶって待つ。まもなく登場し、にこやかにあいさつを交わす。そのまま、荻窪ルミネの二階、アーフタヌーンティ―に入る。レジそばのホールのテーブルに席をとる。ここなら広くコロナも大丈夫な気がした。私たちが一番乗りであった。全身黒で決めた近藤正勝氏は、羽のついたお洒落な帽子をかぶっていた。

 昨日、姉の法事があったので、荻窪の親戚に泊まりました。それでこうしてお目に掛かることができたわけです。

 お電話したときこんなに早くお目にかかることができるとは、まったく思いもかけないことでした。

 忘れないうちに先ず、この本と石象生誕百周年の記録をお渡しします。

 ネットで調べていた、近藤石象著『ジャンピングバルーン』と近藤石象百周年記念事業の資料一式ファイルであった。感謝!

 近藤石象さんは、東北大学理学部物理学科卒業でしたか。

 はあ、そうでした。

 じゃあ、東大建築学科卒業で辰野金吾の弟子というのはどなたでしょう。

 祖父です。石象の父親で、十郎です。

 ああ、そうでしたか。東大建築卒業生名簿には出てこないので、どなたの話かと思いました。

 近藤十郎の仕事についてもいろいろ持ってきました。台湾でいくつかの建築を建て、戻ってからも聖路加病院の対岸に、やはり病院を建てています。

 そうでしたか。なるほど。

 そして、私もジャンピングバルーンの普及のために色々試みてきました。気球は夢があります。関連した版画作品を制作したり、展示したりしてきました。笑ってやってください。 

近藤石象氏とは

 近藤正勝氏と別れ、自宅に戻り、いただいた本と資料に目を通した。

 近藤石象著『ジャンピングバルーン』は、丸善、一四六七年刊で、全九〇p、A四サイズを正方形にカットした本である。タイトルの次に入れた写真がこの本の表紙で、なかなかデザインも凝っている。

 小沢良吉が、イラストを描き、はしがきに始まり、第一部空で遊ぶ方法、第二部失敗した話、第三部発見されるまでのいきさつ、第四部材料の話、付録Ⅰ風船爆弾のゆくえ、付録Ⅱ世界の気球レイシング、である。第一部が大半を占める理論的な本で、三つの失敗談が興味深い。

 この本の背景には、風船爆弾研究についての深い理論的実験やそれについての洞察があることがわかる。

 もう一つの、『近藤石象生誕百周年記念会』ファイルは、二〇〇八年六月二二日に東京駅八重洲口・東京建物ホールで開催された記念会の記録である。お目にかかった近藤正勝さんが企画・実施された丁寧な仕事のデータ集であった。

 これらから浮かび上がる近藤石象氏の略歴を以下にまとめておく。

 一九〇八年(明治四一)生まれ、一九三二年(昭和七)東北大学理学部物理学科卒業、翌年、台湾阿里山高山測候所勤務。以後、各地の気象庁測候所勤務の後、陸軍技師、気象技術技官などを歴任後、一九三九年(昭和一四)「ふ」号開発に従事、以後気象技術者として、風船爆弾開発に従事。一九四五年(昭和二〇)八月、平城にてソ連軍に拘留、一九四六年(昭和二一)、一二月舞鶴に復員、荻窪に帰る。一九五七年(昭和三二)日本原子力研究所入所、一九六五年(昭和四〇)同退所。一九六六年(昭和四一)ジャンピングバルーンのデモンストレーション、一九六七年(昭和四二)全国科学技術団体総連合事務局長(九段・北の丸科学技術館に事務所)、一九六八年(昭和四三)荻窪の土地を売却し、日本ジャンピングバルーン(株)設立。一九七六年(昭和五〇)没。

 飛行船での輸送など、空駆ける夢を追うなど、軍事技術の平和利用を唱えていた。こうして見てくると、私が近藤石象氏にお目にかかったのは、一九六七年よりほかはなく、私が大学を卒業して大学院に入った年であったことになる。翌年から、手帖が残っているが、それ以前は残っていないので、これは特定できなかった。近藤石象さんの年譜からわかるとは奇遇だった。 

ジャンピングバルーンその後

 ジャンピングバルーンは、私にとって、マリンスポーツへの夢を与えてくれた不思議なご縁であった。その後のジャンピングバルーンは、アドバルーンやまさしくジャンピングバルーンとして、イベントの企画、広告会社によるアトラクションを提供してきたようである。

 素材は大きく変わり、もはや紙ではなく、ビニールやプラスティック系に代わっているが、基本的には近藤氏の考えは今も生きていると言える。何しろ彼が命名した「ジャンピングバルーン」の名が生きているのだ。それで、このようにネットで検索が可能になったのである。

 スカイスポーツやマリンスポーツとしては、パラグライダー(風に乗って空に舞い、両手で操縦する)やパラセイリング(パラシュートの材料と技術、そしてモーターボートで牽引する)が、その後まもなく盛んになった。私はジャンピングバルーンのイメージを数々の夢想とともに想い出す。

 あれから五年後、武蔵野美術大学セイリングクラブに入り、ヨットに乗ることになった。

(二〇二二.一一.一一)

参考文献 近藤石象『ジャンピングバルーン』丸善1967年4月

近藤正勝編「近藤石象生誕百周年記念事業」ファイル2000年8月8日 

   



 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?