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想い出の旅4 信州の旅 藤村と一茶


漂泊の旅
 学生の頃、私はフラリと漂泊の旅に出るのを好んだ。親戚のお兄さんが一筆書きの切符を買うと安く旅ができると教えてくれたのも大いに助かった。国鉄の長距離割引、学生割引が大きかった時代であった。

 たとえば信越線で小諸まで行き、小海線に乗り換えて小淵沢で中央線に戻る。高崎まで八高線を使ってみたり、上とは逆順を辿ったりした。

 伊豆方面、山中湖、河口湖、京都、奈良、九州、北海道、まだ沖縄が返還されていかなかった当時、最南端と最北端を踏んで記念にした。なかでも懐かしい小海線をつかう旅である。

島崎藤村
 かつて、懐古園を訪れたのは、ある失意の頃だった。その後、二度と足を運ばなかったのはそうした記憶のせいだろうか。三十五年振りに訪れた懐古園は五月はじめ、桜吹雪のただ中で美しかった。前に来たのはどの季節だったか、覚束なく、藤村記念館にいたってはほとんど記憶していなかった。

小諸なる古城のほとり
雪白く遊子悲しむ
緑なすはこべ繁縷は萌えず
若草も藉くによしなし
しろがねの衾の岡辺
日に溶けて淡雪流る

 今回、蓼科から佐久へと下り、千曲川に出会ってからというもの、ほとんどそのまま千曲川沿いに小諸に向かったことになる。そして浅間山の懐かしい山容に出会った。

 藤村が小諸義塾の英語と国語の教師として赴任したのは明治三十二年(一八九九)四月であった。この月のうちに上京、函館の網問屋奏慶治の次女冬子(二十二年明治女学院卒)と結婚し、小諸馬場裏の旧士族屋敷跡の新居で暮らしはじめた。藤村この時二十八才、小諸での生活はその後約七年続き、冬子との間には三人の娘にめぐまれ、千曲川のほとりで彼の生涯のうちで最も豊かなひとときであったように思われる。それはまた詩人から小説家の転換の先ぶれをなす時期でもあった。

 処女詩集『若菜集』は明治三十年(一八九七)八月に出版された。前年九月、仙台の東北学院の作文教師として赴任し、七月に帰郷するまでの約十ヶ月の間に、藤村の詩は一挙に形をなす。形式への模索、表現への模索のはてに、これまでに盛られたことのない詩情が歌われた。若さゆえのういういしさ、繊細さ、ロマンティシズムと激情が積極的に描かれた。

 藤村は翌明治三十一年六月に詩と論文集『一葉舟』、十二月に詩集『夏草』をつぎつぎに刊行し、詩人としての不動の位置を確立していく。

 小諸での生活が始まった翌年明治三十四年(一九〇一)八月、『落梅集』を刊行し、それが最後の詩集となる。それは、上述の「小諸なる古城のほとり」にはじまる「千曲川旅情の歌」が冒頭に掲載されたものであり、小諸時代の大きな収穫であった。その一方で藤村は文章による写生を試み、小説家に転じていく準備を前年から開始していた。前年の「雲」やこの年の「千曲川のスケッチ」等を書きつづけてた。

 明治三十七年(一九〇四)九月、春には現実の事件にあって『破戎』の想を得た。既刊四詩集を合わせた『藤村詩集』を刊行した翌年明治三十八年三月、小諸義塾を退職、足かけ七年の小諸生活に別れを告げた。

 『若菜集』をはじめとする藤村の詩に触発された後の詩人たちの活動は特筆すべきものがあった。土井晩翠『天地有情』(明治三十二年)、薄田泣董『暮笛集』(明治三十二年)、与謝野晶子『みだれ髪』(明治三十四年)、蒲原有明『独絃哀歌』(明治三十六年)などがつづき、さらには石川啄木、北原白秋、三木露風などにいたるまで、藤村の影が色濃いのである。

小林一茶
 長野県北部を旅すると、あちこちで一茶に出会う。たとえば、渋温泉の宿で一茶の句が掲げられていたり、小布施の元松院の裏庭の小さな池のほとりに「やせ蛙」の句碑があった。

 この句碑は、一茶がここを訪れて歌ったものということである。この地には、桜の季節、大きなひき蛙が産卵のために集まってくる。メスが少ないために、オス同士で奪い合いになる。そこで戦いとなる。この有名な句は、病弱な息子千太郎への命乞いの句であるらしい。
 
 野尻湖方面に行けば、一茶記念館がある。野尻湖の周りを車を走らせていた時、きみがお尻の辺りがむずむずする、と言って、湖側の断崖を走っているときに、高所恐怖症だと言ったのを想い出す。

 小林一茶は記念館から東に入った北信濃の柏原の農家の出身である。出身地は今日の町名で言えば正確には長野県上水内郡信濃町柏原であり、信濃も北奥、越後境に近い雪深い山村である。それでも江戸時代には北国街道の中山八宿の一つに数えられ、かなり栄えた宿場でもあった。

 とはいえ、標高七〇〇メートルの高地で、水田には適さず、畑で、そば、あわ、ひえを栽培するくらいがせいぜいであった。

 一茶は、宝暦十三年(一七六三)五月五日、農民小林弥五兵衛、妻くにの長男として生まれた。幼名弥太郎。父親は律儀な働き者で同村二倉の有力者宮沢氏の娘を妻に迎えた。当時、その持高は六石五升、柏原宿では中程度の本百姓だった。一茶三歳の時、母を亡くした。石高は半減し、生活が厳しくなるが、一茶は祖母にあたたかく育てられた。

 けれども八歳の時に、父再婚、やがて弟仙六が誕生すると、継母との関係は悪化の一途をたどった。十四歳時、祖母が他界すると、継母との関係はさらに厳しいものとなったため、父は翌春、江戸に出す決意をする。口減らしのためでもあった。柏原は天領となった天保以後、住民たちは重税にあえいだ。

 江戸に出たからといって、一茶が幸福になる保証は何もない。出稼ぎ者として「信濃者」「椋鳥」などと揶揄されつつ、下積み生活者の悲哀が待ち受けていた。

 十五歳の春、父親と別れて江戸での生活がはじまるが、手に職もない田舎者に果たして何ができただろう。初期の数年の足跡は定かではないが、辛酸をなめただろうということは推測できる。

 けれども、やがて俳諧師の一群に加わることになる。「巣なし鳥のかなしさは、ただちにねぐら塒に迷い、そこの軒下に露をしのぎ、かしこの家陰に霜をふせぎ、・・・くるしき月日おくるうちに、ふと諧々たる夷ぶりの俳諧を囀りおぼゆ」(『文政句帖』六年正月)

 はじめ葛飾派の俳匠今日庵元夢や二六庵竹阿に師事した。葛飾派は江戸および周辺の田園地域に勢力があり、田舎出の一茶にとってはそれなりに居心地がよかったかもしれない。多くの俳諧師が活躍する江戸で頭角を表すのは容易なことではなかった。一家をなすなど、とうていおよびもつかないことであったろう。

 一茶は元和元年三月帰郷し、久し振りに父との再会を果たすが、翌月一ヶ月ほどの病ののちに父は他界した。六十九歳であった。父の遺言による遺産相続争は苛烈をきわめた。文化五年七月、祖母三十回忌法要に帰郷した一茶は、十一月、異母弟仙六との間に遺産相続の取きめがようやくできた。
 
 江戸での安定しない生活を送る日々からようやく離脱できることになった。漂泊三十余年をへて郷里に戻ることになったのは文化十年正月、一茶五十一歳の年であった。一茶に与えられたのは田畑三石六斗余、山村若干、家屋敷の半分であった、それは十五歳で家を出た当時の三石七斗にほぼ相当する。仙六たちの働きのお陰であった。

 郷里に生活するようになるにあたっては、必ずしも順調ではなかったが、やはり生地への帰還は心を和ませる何かがあったはずである。また、北信濃一帯にはすでにライバルは存在しなかった。一茶は幸いにも江戸帰りの宗匠として北信一帯で重きをなすことになったのである。

 この頃、一茶の生涯でも、最も豊かな作句が行われていた。量質とも他の時期を抜いている。一茶の個性そのものが句に躍如として認められるのである。

 そればかりではない。文化十一年四月、五十二歳の一茶ははじめて結婚するのである。妻は野尻村赤川の富農常田氏の娘で名は菊、二十八歳の若さであった。

 それこそ、一茶の絶頂期を示している。二人の間に三男一女をもうけたが、不幸にして四人とも次々と死亡した。さらに菊も結婚十年目にして他界してしまう。不幸の追いうちであった。
 
 再婚も思うにまかせず、失敗に終わる。中風をわずらうなど絶え間なく苦難が訪れたのである。文政九年秋、三度目の妻を迎えた。

 翌年の夏、柏原の大火に一茶の家も類焼、荒壁の土蔵暮らしとなってしまった。秋深まる十一月十九日持病の中風の発作によって、一茶は急逝した。享年六十五歳であった。

 彼の没後、やたという女児を妻が出産した。あれほど子どもを欲しかった一茶ではあったが、これこそ運命のいたずらというべきだろうか。

 一茶の句は小さな動物や弱い者を大きな共感をもって歌った点に一つの特色がある。多産だった彼の句を概観するのは容易ではないが、これだけは言うことができるだろう。あるいはまた生活詩、人生詩とでもいうべきものを書きつづけたのだった。

 それは一茶六十五年の人生そのものの反映と見るべきだと思われる。それは決して平安に満ちたものであったとはいえない。そうした中にあって、歌いつづけること、どのような困難や不安、哀しみを越えて歌いつづけること。一茶の句が人の心を打つのはそうした人生に立ち向かっていく彼の心の動きそのものから来るのであろう。



  


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